正義の柱
カッカッカッ
今日も同じ時間に誰かがこちらに向かって歩いてくる。その足音が近づくたびに私は少し身をこわばらせるようになっていた。
カッカッカッ…
やがてその足音が何事もなく私の牢屋の前を通り過ぎていくのを確認して身から力を抜き、読みかけであった本を手にとり堅く冷たい石の壁にもたれた。
カッカッカッ
毎日同じ時間に聞こえる足音に私は恐怖した。いつ私の牢屋の前でその音が止み、私をここから出すために手に縄を架けて壁の外にある『正義の柱』によって私の命を一瞬で奪ってしまうことにではない。そのせいで最愛の妻を奪われてしまうのが恐かった。
カッカッカッ…
今日も私の牢屋の前で足音が止むことはなく暗闇の中に音は消えていった。外から吹き込んでくる風の音と、私と同じく『正義の柱』に架けられるのを待つ人間の安堵の息を聞きながら私は先程読みきった本を部屋の端に置き、数冊の中から寓話集を手にとり堅く歪んだベッドに腰をかけて読み始めた。
私は草原に一人でいた。周りを見渡しても地平線があるばかりで太陽も月も雲も星もなかった。それでも空はいつもと変わらぬ青をしており何処までも澄みきっていた。
不意に名前を呼ばれた気がし、辺りを見渡すが何もない。気のせいか、と思うもやはり誰かが私の名前を呼んでいる。私が振り向くと同時に突風が吹き、咄嗟に目をかばった。
次に目を開けた時に見えたのは、轟轟と燃えている屋敷とその前で腰を抜かしている若かりし頃の『私』だった。それを見て私は目を反らしたくなった。しかし私の意思は関係なく目は屋敷を捉え続ける。
屋敷が半分焼けて崩れた辺りで後ろから馬車に乗った屋敷の主人と妻が帰って来た。それに気づき若かりし頃の『私』は振り向くが立つこともままならない。そこでまた突風が吹き、強制的に目を閉じさせられる。
そして目を開けた時には妻とは他の女性を抱いている『私』がいた。
しかし『私』は何処か虚ろな目をしてその女を抱いていた。女はそれに気づかず一夜の享楽を楽しんでいる。そして一通り事が終わって女が寝たのを確認した『私』は台所からナタをもってきてその女の頭めがけて思い切り振り下ろした。飛び散る血の中で『私』は何の感情もなく死体を見ていた。そして丁寧にナタについた血を拭き取り元の場所に返すと『私』はしっかりとした足取りで窓を開けた。
それと同時にまたも突風が吹いた。
そして私がいたのは暗い牢屋の中だった。辺りを見渡すがそこは私がいる場所とは違い鉄格子の向こうには何も見えず風の音すら聞こえない程寂しい場所だった。
『私』の異常な性癖を満たすために知り合い、仮染の愛を与え、一夜の享楽を末にその血肉を叩き切り、また何事もなかったかのように日常に戻る。
その繰り返しを楽しみ、人には知れぬ陰を忌み、真の愛を知らぬまま私はこの身が朽るまで狂いながら生きながられるのを覚悟していた。
しかし違った。
その先には私の覚悟を容易く覆した人がいた。
いつもと同じように仮染の愛を与え、一夜の享楽を末にその血肉を叩き切る。それだけの筈だった。しかしあと一歩のところで私の心に歯止めがかかった。この女を殺すのが惜しくなった。
それから毎日のように夜になると私は彼女を殺そうとしたが必ずあと一歩のところで踏み止まった。偽りの愛しか知らない私に芽生えたのが真実の愛かどうかは分からない。しかし彼女がたまらなく愛しくなり、私は彼女を独占したくなったのは事実だ。そしてその日を境に私の異常な性癖はなりを潜めた。
それから数年、私は彼女を本格的に妻として迎えた。そして私達の間に子供が生まれ、育ち、自立し、親としての義務を終えたことにより私と妻はただ老いるだけの人生を歩き始めた。
そこで目が覚め、辺りを見渡す。そこにあったのは牢屋の隅に積まれた本と堅く冷たい石の壁だけだった。
カッカッカッ
毎日同じ時間に響く足音を聞きながら私は寓話集を読んでいた。
カッカッカッ…
不意に足音が止んだので顔を上げれば牢屋の前に監守が立っていた。
「やっこさんの番だ」
ただ一言だけ言うと牢屋の錠を開け、外に出るように促した。
あの夢は私に過去に犯した罪を改めて悔いるように神が見せたのかもしれない。そう思いながら手に枷をはめられた私は数年ぶりに外に出た。広い道を歩き丘の上にある『正義の柱』まで着くとそこには今から始まる私の処刑を見るために多くの市民がいた。
滞りなく作業が進み、私の体は『正義の柱』に固定され後は無情の刃が私の首を撥ねるだけになった。
「…最後に言い残すことはないか?」
刃を支える縄を掴んでいる処刑人が私に尋ねてくる。
「…妻よ。貴女は私を笑ってくれるか?」
私の遺言が妻に届いたかは分からない。しかしそんなことはどうでもいい。私はこれだけは言いたかった。そして時間がきて、処刑人の一言を合図に刃は支えを失い私の首を撥ねた。
その後に一人の婦人が彼の首を抱き、涙を浮かべながら「愛する人の死を笑うことなんて出来ませんよ…」と呟いた。