第三話
執務室の扉が常にない軽やかさでノックされた。それもここ数日で慣れてしまいそうなほど聞かされれば、さすがのセルギオスも溜め息も出ない。
「……入れ」
セルギオスの言葉に応え入ってきたのは、執政官ではなく金髪碧眼の見目麗しい男装の少女だった。彼女の言葉を信じるなら、男装ではなく正真正銘”十七歳の青年”ということになるが。
「セルギオス殿、追加で土地の開拓許可を頂きたいのですが」
少女――レオノーラ王女が差し出した書類に視線を落とし、セルギオスは自分の眉間にシワが寄るのを止められなかった。
なぜ、こんなことになっているのか。
レオノーラ王女がここアヴァランシュ王国に到着して四日。
本来ならば仕来りに従い王女は凍らぬ湖の館に滞在しているはずだ。それが、どうして毎日のようにセルギオスの執務室に書類を抱えやって来ることになるのかがわからない。
「この土地は今の季節でも凍ったように地面が硬く農地には向きませんよ」
「魔力を用いない砕土機を持ってきているので大丈夫です。今の土質のままでは作物が育ちにくいので、改良した肥料を混ぜてみようかと」
セルギオスの答えに少しも怯むことなく、自分の計画を説明し始める姿は彼女が部下であれば手放しで喜びたくなるものだ。
しかし、彼女は部下ではなく大国の第一王女である。決してこの国の農地改革をするために来たわけではない。そう、セルギオスの妻となるため来たはずだ。
「どうやって動かすの?」
「オイラ、さいどき?って見たことない!」
セルギオスの心情など気づきもせず、彼女は興味深そうに書類を覗き込むドロワとゴーシュに砕土機がどんなものかを丁寧に教えている。
楽しそうな双蛇たちの様子を尻目に、セルギオスは彼女と再会した日のことを思い出していた。
◇◇◇
瞬きする間もなく短い春が終わり、同じく短い夏がこの国にも訪れていた。例年よりもずっと過ぎるのが早かったように感じるのはセルギオスの置かれた状況のせいだろうか。
ハイディングスフェルト王国の第一王女との結婚。
この吉報なのか凶報なのかわからない祝事にアヴァランシュの民たちは概ね困惑していた。当事者たる王その人が現状を受け止めきれていないので、それも無理のないことかもしれない。
王族同士の婚姻である。
少なくとも準備や何やらで実際に結婚するまでに一年は要するだろうと考えていた。その間に、財政的には非常に厳しいが、大国の王女を迎えるに相応しい様々なものを用意するつもりでいたのだが……。
セルギオスが親書の返事を出した数日後には、ハイディングスフェルト王国より”今年の初夏頃には王女が嫁ぐつもりだがどうか”という目を疑うような答えが返ってきた。
すぐさま、しかしやんわりと無理だと伝えたのだが、その決定が覆ることはなく今に至る。
「魔法大国は時間の流れも違うらしい」
口の端を歪め、民には聞かせられない罵りの言葉を吐くセルギオスの目は完全にやさぐれていた。日に日に仕事の量が増していき、それに伴う問題のほとんどが彼へと降りかかっているので仕方がない。
「そういう嫌味は手紙に直接書けば?」
「そんなことができるなら結婚自体断っている」
「……それもそうだね」
きっぱりと情けないことを口にする男に言いようのない哀れみを感じる。
色々なことを諦めていると言いながら、王たる責務を果たそうと努力している姿に、ドロワは愚痴くらいは聞いてやろうと思った。
半身のゴーシュはこういったことには疎いため、今も口に咥えたペンで絵を描くのに夢中だ。
そんな会話をした翌日。
ハイディングスフェルト王国王女一行は予定通りアヴァランシュ王国に到着した。
「王女殿下を凍らぬ湖の館へとお迎えいたしました」
来国の出迎えはしたが、慣例に従いレオノーラ王女との対面を避け、先に自身の執務室へと戻っていた王へと、王女の対応を任せていた大臣が言いづらそうに言葉を続けた。
「……その」
「なんだ」
嫌な予感しかしないその口調に自然と声が低くなる。
しかし聞かないわけにもいかず、セルギオスは話の続きを視線で促した。
「王女殿下のお付きの方たちですが、こちらの予想よりも少々、いえ、かなり多く……百名ほどいらっしゃいます」
「……多いな」
「殿下付きの侍女は数名のようで、あとは地質学者や気象学者、建築技師に作物栽培に長けた植物学者などを連れて来られたそうです」
大臣が困惑した表情でセルギオスの方を窺ってくるが、そんな顔をされても困る。
おおよそ嫁入りに相応しいお付きとはいえない人選だ。アヴァランシュ王国のなかに新しい国でも作るつもりだろうかと疑いたくもなる。
(そんな馬鹿な)
そこまでする旨味がこの国にあるわけがない。
「この国のさらなる発展に寄与したい、とのことです」
「人的な支援だと?」
「はい。……それで、土地の開拓や建物の雪害対策などを行うのでその許可を求めておられます」
この国からすれば非常に喜ばしい申し出だ。特に雪圧害での民家の倒壊は、金銭面での問題でなかなか着手できていなかった部分でもあった。
しかし、嫁入りしてきた当日にそんなことを言われても対応に困る。
「私が直接話を聞こう」
正直、人前に姿を晒すことに抵抗はあるが、セルギオスが対応しなければどうにもなりそうにないので仕方がない。王女のお付きたちが話のわかる人物であることを切に祈った。
凍らぬ湖の館の近くには人だかりができていた。
それはそうだろう。
王女がしばらく過ごすのになんとか耐えうると判断されたこの国でも数少ない瀟洒な建物だが、百人が入りきる大きさはしていない。
「まずは開墾でしょう。食料自給率を上げないと」
「夏はあっという間に終わっちまうらしい。早めに雪害対策もしないといけないでしょうな」
「かなり涼しいですがもう初夏に差しかかってるんですよね? 開墾しても冬に間に合うか微妙なところじゃないですかね」
がやがやと飛び交う意見にときおり頷きながら指示を出しているのは、金の髪をすっきりとまとめた女性だ。セルギオスから見えるのはその後ろ姿だけだったが、周囲の体格の良い面々のせいで彼女の華奢さが際立っており、その人物を彼は女性であると判断した。
(……出直すか?)
相手が女性ならば、十中八九彼の姿に悲鳴をあげる。
双蛇を隠すための目深いフードの付いた外套は、この初夏には逆に不審だろうと置いて来てしまっていた。彼とてそうそうに王女のお付きと揉めるのは避けたい。
だが、いずれは知られることだ。
セルギオスはやや躊躇いながらも結局声をかけることにした。
「会話中にすまない。レオノーラ王女のお付きの方たちだろうか?」
その声に金髪の女性が振り返った。
「…………」
「…………」
お互いに無言で見つめ合う。
金髪碧眼に妖精と見紛うばかりの美貌。十年前のあの夜の少女だと一目で気がついた。セルギオスの思い出のなかの面影をそのままに美しく成長した少女は、幼い頃と同じようにその手のひらを彼へと差し出す。
「はじめまして! わたく……私はレオンハルト。この国の地質に興味があり、今回妹の結婚の一団に同行したんだ」
「……第三王子殿下の?」
「ああ。よろしく、セルギオス殿!」
かなり無理のある言い訳を堂々と宣った彼女の後ろではお付きの面々が苦笑している。
「レオノーラは仕来りに通りあちらの館にいます」
真剣な顔をする彼女はこの国の慣習を現在進行系で破っていることを気にしているらしい。正直、セルギオスは驚きでそれどころではない。
ただの貴族令嬢が第三王子を語るわけがない。つまり、目の前で自分はレオンハルトだと言う彼女は必然的にレオノーラ王女ということになる。
(あのときの少女が、レオノーラ王女?)
なら、今回セルギオスと結婚するのは……。
「……っ」
かっと顔が熱くなったのが自分でもわかった。
周りにも聞こえるのではないかというほど心臓が高鳴っている。痛みすら感じるその鼓動を押さえつけるようにセルギオスは自分の胸へと手をあてた。
「セルギオス殿?」
彼の態度を不思議に思ったのか、レオノーラが一歩その距離を近づけた。
「あ……うっ」
「う?」
セルギオスの呻きともつかない微かな声を聞き取ろうとレオノーラがさらに一歩足を進めた瞬間――セルギオスは身を翻し一目散にその場から逃げ出していた。
再会とともに自覚した初恋に振り回される日々はこうして始まったのだ。
◇◇◇
四日前の自分の行動に打ちのめされて、セルギオスは内心項垂れる。
(彼女は、この結婚についてどう思っているんだ?)
レオノーラは男の装いをしたところで決して男性には見えない。しかし、彼女が自分は双子の兄のレオンハルトだと言い張るため、現在は暗黙の了解のような形で彼女を第三王子として扱うことなっている。
そのため、セルギオスはレオノーラ王女としての彼女といまだに話ができていない。
彼女は十年前のあの日のことを覚えているのだろうか。
セルギオスにとっては特別な思い出だが彼女にとってもそうだとは限らない。この結婚が彼女の意思によるものなのか、国としての思惑なのかすら彼にはわからなかった。
「……っ!」
なんとなく恨めしい気持ちでその顔を眺めていると、光の加減か緑色を増した碧眼と目が合った。
「セルギオス殿? どうかしましたか?」
「いえ……どうしてここまで、この国に手厚い支援をしてくださるのだろうと思いまして」
目を合わせていられず書類を見るふりをしてレオノーラから視線を外す。
彼女は初日こそハキハキとした話しぶりをしていたが、今は年よりも落ち着いた穏やかな口調で話をする。そして、耳に心地いいその話し方がセルギオスは好きだった。
「レオノーラの望みですよ」
「王女殿下の?」
「はい。彼女は、あなたに幸福を届けにやって来たんです」
”幸福”という言葉に顔を上げると、レオノーラはどこか決意を宿した瞳で彼を見ていた。
その瞳の強さに見惚れていると、今度は彼女の方が気まずげに視線を逸らした。
「まあ、レオノーラの自己満足です」
照れたようにも見える横顔に、セルギオスの胸が甘やかな痛みを訴えてくる。
「はぁ〜、甘酸っぱ!」
「え? 何が酸っぱいの? ドロワ、オイラに隠れて一人で何か食べるなんてズルいぞ!」
「ズルいとか人聞きの悪いこと言わないで。空気だよ、空気!」
「空気を食べてたの!?」
「違うったら! 食べ物から離れて……むぐっ」
喧しい双蛇を両手でむぎゅっと掴まえる。
視界の端でレオノーラがぷるぷると震えているのがわかった。確認するまでもなく笑われている。
「わたくしの、というより国のですね。行動が少々常識から外れているのは、怪しいとは思いますが大した思惑などはありません。そういうものだと気にしないでください」
笑いを治めたレオノーラがまだその名残りのある柔らかな表情で話すのを聞きながら、常識から外れている自覚はあったのかと失礼なことを思う。
セルギオスが自分の国のことを侵略の旨味もないと考えているからこそ、ハイディングスフェルトからの行いに困惑はしてもさほどの危機感を抱いていないだけであって、猜疑の強いものなら一歩間違えば戦争になりかねないだろう。そして戦争になったところでハイディングスフェルトの圧勝なのがどこまでも笑えない。
”魔界”の異名は伊達ではないのだ。
そんな、まさに世界が違う国の王女が自分に嫁いできているという状況にいまだ戸惑いはある。しかし、さきほどの笑顔はできたら正面から見たかったと思ってしまうセルギオスにとって、再会した日から彼女はもう大国の王女ではなく、どこまでいっても初恋の少女だった。
「レオノーラ王女」
「レオンハルトです」
完全にレオノーラとして話していた癖にその設定は押し通すのか。
妖精のような見た目に反して意外と頑固な人なのかもしれない。まだ彼女について知らないことがたくさんある。そして、自分にはこれからそれを知る機会が与えられていることをセルギオスは嬉しく思った。