第二話
冒頭は回想になります。
舞踏会が開かれている大広間からの光と、漏れ聞こえてくるこの夜に相応しい優美な音楽がセルギオスをより一層惨めな気持ちにさせる。
――呪いは解けない。
父からあのハイディングスフェルトに行くと聞かされたとき、もしかしたらこの呪いを解いてもらえるのではないかと内心期待していた。
自国では見ることすら叶わない魔法が溢れる国。
建国より一度として王家が変わることなく、千年の歴史を誇る魔法大国。他国からは”魔界”と恐れられるエテルニタ大陸一の強国ハイディングスフェルト。
この国ではどんな奇跡も奇跡ではなく、ただの魔法という技術でしかない。
なのに。
死者すら蘇らせる治癒術師がいても、恐ろしい邪竜を一振りで屠る騎士がいても、永遠の若さを手にいれた美姫がいても……セルギオスの呪いを解いてくれる救世主はいない。
(私は、忌まわしい化け物のまま)
いつもは彼の行動に一々口を出してくるドロワも、珍しいことが大好きでいつだって騒がしいゴーシュも、国を出る前にした約束を守り、目も口も閉ざしただの飾りのように振る舞っている。
それが、悲しい。
自分で動くなと、話すなと命じておきながら、自分勝手にもいつものように慰めてほしいと思ってしまう。呪いを解くことは彼らの存在を脅かすことだと知っていてなお、それを望みながら、同時に彼らへと甘えている自分のなんと醜いことか。
(この心の醜さこそ、私が化け物である証だろうか)
溢れてくる涙を拭うこともできず、唇を噛み締めた。
「だあれ? だれかいるの?」
「……っ!?」
幼い声にハッと顔を上げる。
ガサガサと植込みの隙間から顔を出したのはセルギオスより三つ四つ年下と思しき少女だった。その身なりからかなり裕福な貴族の子女であることが窺える。夜の暗がりでも少女の金の髪は淡く光るように輝いていた。
一瞬、状況も忘れて目の前の少女に見惚れていた。
「妖精」
頭に浮かんだ言葉がそのままポツリと口をついて出た。
「まあ、あなたは妖精なの? わたくし、妖精の方に会うのは初めてだわ」
「違うっ! 私は妖精ではない!」
はじめましてと頭を下げる少女の言葉を慌てて否定する。”じゃあ、妖精って?”と首を傾げる彼女に上手い言い訳が浮かばず、ゴニョゴニョと意味のない言葉を呟くと、セルギオスの顔をまじまじと見た少女がその大きな目を見開いた。
とっさに悲鳴をあげられるのだと思った。
次いで、聞こえてくるであろう少女の悲鳴と、その嫌悪に歪んだ顔を見たくなくて、セルギオスは顔を俯けた。
いつものように動いていないとはいえ、髪の毛の一部が蛇となっている自身の姿がいかに悍ましいかは嫌というほど自覚している。
しかし、少女の口から出たのは悲鳴ではなく思いがけない言葉で。
「泣いていたの?」
「な、泣いてない!」
「どこか痛いの? わたくし、少しだけど魔法が使えるのよ」
そう得意げに言った少女はセルギオスの双蛇を気にするでもなく、小さな手のひらを彼へと差し出した。
少女の意図が掴めずに固まっていると、柔らかな光とともにその手のひらの上に小さな白い花が現れた。一つ、二つ、三つ、と白い花は瞬く間に増え、少女の手のひらから溢れ出して辺りを白い絨毯へと変える。
「……魔法だ」
無から有を生み出す奇跡。
ハイディングスフェルト王国を強国たらしめるその力は、未知のものに対する恐怖やその強大な力への畏怖よりも、美しいものを見たときのような感動をセルギオスに与えた。
「お花を出す魔法です」
腰に手をあて胸を張る姿は幼い子どものものだ。セルギオスに与えた感動など知りもせず、少女は涙を止めた彼を見て嬉しそうに微笑んだ。
「なぜ花を?」
「治癒は使えないから。お花を見たら元気が出るかなって」
「きみは花を見ると元気になるのか?」
「うん!」
力強い答えに、気づけばセルギオスの顔にも笑みが浮かんでいた。
元気づけたいと思ってもらえるなど、屈託なく笑いかけてもらえるなど、自国にいるときは想像もしなかった。
父のセルギオスを見る目にはいつだって憐憫がある。息子への愛情は確かにあるのだろうが、父の前ではセルギオスはどこまでも哀れな呪われた子でしかなかった。
臣下や民の目には恐れと微かな嫌悪があることも知っている。
(私は呪われているから)
実の母親は自らが産み落とした化け物に、その呪われた悍ましい姿に、心を壊し命を断ってしまった。
「ありがとう。確かに元気が出た」
少女へと感謝を伝えながら、今更だが双蛇を少しでも隠そうとフードを手繰り寄せる。気にはせずとも見ていて気持ちが良いものではない。
それに、もし彼女が蛇たちの存在に気づいていないのなら、少しでもこのまま普通の子どもとして彼女と話をしてみたかった。
しかしセルギオスの望みは秒で打ち砕かれた。
「その蛇さんたちは眠っているの?」
「……っ、た、ただの飾りだ」
「え? でも、息してるよ?」
まさかそこまで観察されているとは思わず、誤魔化しの言葉が出てこない。どうやら、目の前の少女は異形を異形と認識しながら、まったくそれを恐れていないらしい。
顔の左側でゴーシュがモゾモゾと動くのがわかった。
「…………」
「あっ、目が開いた!」
我慢が利かず目を開けてしまったゴーシュに、少女は嬉しそうな声を上げる。やはり、その声に恐れや嫌悪の色はない。
「あああっ、オイラ目を開けちゃった! ゴメン、セル!!」
「……バカ」
そのドロワの小さな溜め息は、静かに夜の闇へと消えていった。
◇◇◇
アヴァランシュ王国の王族は生まれながらに呪われている。
約三百年の昔。セルギオスの先祖は魔物ズィミウルギアを倒し国を作ったとされている。王国で魔法を使うことができないのは、その魔物の血が大地に滲み込んだためであり、王族への呪いは化け物を退治したことへの代償だった。
「もっとも、呪いが出たのは最初の頃の王だけで、ここ何代かは呪いの影も形もなかったんだ」
呪いの効果はなくなりつつあったのだろう。女系である王族にセルギオスの父親が生まれたときは、とうとう呪いは潰えたと国をあげて盛大な祝いが開かれたほどだ。
「私の存在は、どれほど民たちを絶望させたのだろうな」
呪われた子ども。
悍ましい異形の王子。
耳について離れない、母親の憎悪を孕んだ悲鳴。
「……この国に来れば、呪いを解いてもらえるかもしれないと思ったんだ。無理だったが」
セルギオスの話を聞き終えた少女は難しい顔で黙っている。
「会話のチョイスが最悪だよ、セル。それ自己紹介のつもりなの?」
「あっ、話し終わった? もうオイラも話していい?」
バレたからもういいや、といわんばかりにいつも通り喧しく騒ぐ蛇たち。
”会話のチョイスが最悪”という指摘に密かにショックを受けつつ、セルギオスは少女の反応を窺う。さすがに喋る蛇は気味が悪いだろう、と。
自国にすら、双房の蛇が人の言葉を話すことを知っているものはほとんどいないのだ。
「……解けないのなら、それは呪いじゃないよ」
ポツリと呟かれた言葉に小さな非難の響きを感じ、カッと頭に血が上った。
「何も知らないくせにっ! 呪いは解けないと言われたんだ! ハイディングスフェルトの力が通じないことがそんなに業腹か!!」
「違う!!」
「何が違う!? 何も知らないくせに! 私の思いなど、何も……知らない、くせに」
涙とともに何かが堰を切ったように溢れてくる。
今まで誰かを感情のままに怒鳴りつけたことなどあっただろうか。いや、それどころか、自分の一挙手一投足に怯える人たちを前に感情を露わにするなんて考えたこともなかった。
「知らない。あなたが話してくれたこと以外、わたくしはあなたのことを何も知らないわ」
感情的なセルギオスとは対象的に、少女は静かに言葉を紡ぐ。
「でも、この国に生まれたものとして、魔法についてはよく知ってる。解けない呪いはない。解けぬのなら――”それは祝福である”」
それは少女自身の言葉ではないのだろう。
ただ厳かに、世界の理について話すように。あるいは、神官が信託を下すかのように。事実としてそれを語った。
祝福。
それはセルギオスには一生縁がないものだった。その生まれから呪われている彼には、決してかけられるはずのない、言葉だった。
◇◇◇
ずいぶんと昔の夢を見ていた気がする。
夢にしては鮮明な記憶は、何度も思い返した過去だからだ。甘やかなだけの記憶とはいかないが、あのとき感じた苦しさも含めて、セルギオスの一等大切な思い出だった。
(結局、あのあと彼女と会うことはできなかったな)
少女から”祝福だ”と言われたあと、自分のなかに渦巻く感情を処理できず、逃げるように与えられた客室へと戻った。
ぐるぐると悩み、再び少女と会おうと決断するのに二日を要した。それでも、彼にしては人生を左右するような決断をした気でいた。
もっとも、再会は叶わなかったのだが。
彼女と出会ったのはハイディングスフェルトの王宮庭園だと思われる。しかし、暗がりで自分の姿を隠せる場所を探し入り込んだセルギオスには、もう一度同じ場所を探し当てるすべはなかった。
吹けば飛ぶような小国の王子である。大国の王宮内を堂々と歩き回れる訳もなく、気がつけば帰国の日を迎えていた。
(名前くらい聞いておけばよかった)
何度とした後悔は、どうしようもないことだとわかっているだけに、ひどく苦い気持ちにさせられる。
「ハイディングスフェルトに行ったのって、もう十年くらい前だっけ?」
セルギオスが起きたことに気づいたらしいドロワが独り言のような声音で問いかけてきた。
眠っているゴーシュに気を遣い、セルギオスも幾分小さな声で答える。
「父が存命な頃だ。もうそのくらいにはなるだろう」
今にして思えば、父は息子の呪いを解くためにあの国を頼ったのではなく、自身がもう長くないことを知り、後ろ楯にとその力を求めたのだろう。
父とハイディングスフェルトの王の間でどのような遣り取りが交わされたのかはわからない。父からは何も聞かされることなく、かの国から何かを求められることもなかった。
「あの女の子、どうしてるのかな?」
「さぁな。あの国の貴族なら、どんな未来も手に入れることができるだろう。幸せに暮らしているさ」
「僕、あのあとちょっとだけ……彼女がうちに遊びに来たりしないかなって期待してた」
ただ一度会っただけの少女だ。
それでも、ドロワがそんな期待を抱いてしまう気持ちもわかる。
この国で忌まれているのはセルギオスだけではない。呪いの象徴たる彼ら双蛇もまた、いつだって恐怖と嫌悪の目に晒されている。
「王女様って、どんな人かな?」
「…………」
「僕らのこと怖がらない人だといいね」
何気なくを装い口にされた言葉は、そのまま右蛇の不安を表していた。
セルギオスのことも、ドロワやゴーシュのことも受け入れてくれる相手など、たった一人を除いて、想像もつかないけれど。
明日、かの国の第一王女がやって来る。
アヴァランシュ王国の仕来たりに従い、十三日の間を凍らぬ湖の近くに立つ館で過ごしてもらう。
どれほどの豪雪であっても凍てつくことのないその湖は、雪の精霊の影響が弱いとされており、そこで一定期間過ごすことでこの地に身体を慣らすという慣習だった。
「僕らが王女様に会うのって十四日後?」
「そうだ。私のこの姿をなんと聞いているのかは知らないが、婚姻の誓約を行うそのときまで会わないことになっている」
「絶対、事前に顔会わせて慣れてもらえるようにした方がよくない?」
さすがにセルギオスが呪われていることを王女が知らないということはない。
そもそも、なぜ顔も知らない王女から結婚の申し込みがあったのか。王族同士の婚姻である。当然そこには政略的な思惑があるはずなのだが……。
「慣れる慣れない以前に、なんのための結婚なのかすら私にはわからん」
セルギオスの感情は別にして、この結婚で得をするのは圧倒的にアヴァランシュ王国の方だ。
底の見えかけていた国庫は王女の持参金で近年希に見るほどに潤された。共に渡された目録はもはや支援物資かと思うほどだ。
(父がハイディングスフェルトを訪れたのはこのためだったのか?)
いったい何を差し出せば、あの大国の王女を娶ることができるというのか。
「昔行ったときって、王女様には会わなかったっけ?」
「ああ。お会いしたのは国王陛下と王太子殿下だけのはずだ。父は……国王陛下とは旧知の仲だと」
「えっ!? そうだっけ?」
「父ではなく、あちらの王の言葉だがな」
死の間際に、この国の未来も、息子の幸せも、何一つ願うことなく静かにこの世を去った父は、いったいどんな人だったのだろう。
記憶の中の父はいつもただ静かにセルギオスを見つめている。
「まあ、今さら何を言ったところでどうにもならない」
大国相手に、しがない小国の王にできることなどないに等しい。
もとより結婚に夢を見れる身分でもない。呪われた自分が政略として価値のある相手を与えられたことはむしろ喜ぶべきことだ。
結婚の話が来たときからある自身の胸の小さな痛みには気づかないふりをする。
「セルは諦めが早すぎるよ。そのネガティブなとこ治さないと、掴めるはずの幸せも逃げるよ」
「もうずいぶん前に幸せになるのは諦めたから別にいい」
「えっ、それの何がいいのかわかんないんですけど!?」
幸せとは生まれつき縁遠い。
それでも幼いときほどにはこの呪われた姿を、彼の双蛇を、厭う気持ちがないのは、いつでも頭の片隅に少女の言葉があるからだ。
――”祝福”。
確かに、ドロワとゴーシュはセルギオスにとって神から与えられた忌まわしくも温かな幸福だった。そして、それはあの少女との出会いも。
セルギオスの幸せはいつだって、どこか苦しさを孕んでいた。