春日大が持参したのはイヌミミだと判明
その部屋を春日大は研究室と紹介された。というものの、春日大には白衣を着た研究員がいそいそと作業を進める現代日本のそれとは異なり、どちらかと言えば魔女の工房などと称した方がふさわしいのではいかと見えた。唯一の共通点は清潔そうな衣類と有名理系大学の課程を履修した感を隠そうとしないインテリそうな様相だった。この時点で「唯一」ではないのだが、異世界をまたにかけた経験は春日大にしかないので、同行したカトゥンはただ黙っているだけだった。
例のミミは春日大の頭部から解放されて室内の機材に弄られていた。カトゥンと研究員が時折会話をしていた。仮説のぶつけ合いではなく、あくまで単純疑問とそれへの試論みたいなとりとめのないやり取り。やはり音声は異世界感満点で春日大は置いてけぼりな心象さえ催していたのだが、意味はおそらくこういうことを言っているのだろうかという推量がしばしば勘付ける錯覚になっていた。
どうやら調査はひとまず終わったようだ。時間にしたら二時間はかかってないだろうか。時計はない。腕時計も壁掛け時計も、砂時計も日時計も。というかこの時点で春日大がカトゥンらに問うてないだけであることはある。春日大に馴染のそれとはまったく異なる意匠のものがあるからだ。とはいえ、確認を保留したうえで二時間と判断したのは、体調不良で外来した病院で受診から薬をもらうまでの大凡の体感に似ていたからである。
研究員が春日大に口を開いてから、やらかしてしまったことを誤魔化そうともせず、すなわちミミなしでは言語が通じないことを全く意に介さずに春日大の頭部にミミをつけた。現代日本だったらなんかの罰ゲーム級の仕打ちもこの国にあっては仕方ない。なにせ、
「これがないと会話が成立しないなんてね」
研究員がため息を吐くような現状だったからである。と言われても好き好んでパーティグッズでコスプレもどきをしているわけではない男子高校生としては、
「何か分かったことあるんですか」
話しをはぐらかすしかない。研究員からカトゥンに視線を動かして。
「室長、ダイも知っておいた方がいいだろう。これからのためにも」
「そうだな。いいか、ダイ殿」
いつの間にかニックネームがつけられていたが、よっぽどいかがわしい命名ではなかったので受け入れることにした。というより幼少から親しい友人、クラスメート、先輩、後輩、教師から親戚に至るまでほぼ下の名前で呼ばれていたのだ。違和感はない。ないのだが、カトゥンたちの呼び方は、どちらかと言えば「カスガ」が発音しにくそうだから消去法でみたいな感じがなくはなかった。今はそこにこだわる時ではない。それよりもである。まさか、一研究員と思っていた女性が研究室長とは。
「これはイヌミミだ」
いや、そんな肩書についてよりも、調査結果の方を受け入れる心構えを整えなければならない。思わずミミを頭部からとり、まじまじと見た。角度や距離を変えながら、目を細めたり大きくしたり。確かにネコミミと言うにはどことなくネコ成分が弱く見えるような気がするが、かといって
「イヌミミ?」
両手に持ったまま異国人二人に首をかしげた。そんな発音は亜流とか言われる始末になるに違いない。
「ああ。それより(しゃべる時には)着けろと言っているだろ」
かろうじてイヌミミという単語が共有されたのだが、失念している春日大に注意喚起をしてカトゥンは装着のポーズを迅速にとる。
「なんか、いちいちつけてるのも面倒だな。イヌミミ? 取っても言語が理解し合えたらいいのに」
ネコだろうとイヌだろうとこだわりの喫茶店の従業員でもあるまいに常々それを頭部につけているのも思春期男子としては、当地が現代日本でなくとも羞恥心はやはり拭われるものではない。堪えていたそんな心象を愚痴り終わると、魔法陣みたいなのが両耳の上部に小さく現れたかと思うとすぐに消えた。
「ダイ殿、ミミを、イヌミミを取ってみてくれ」
研究室長が目を見開いて興奮を包み隠さずに激しく春日大の両肩を激しく揺すった。
よもやとは思うものの、そんな軽々しく現状が打破されるはずはないと高をくくってイヌミミを外した。
「ダイ殿、私が言っていることが分るのではないか?」
彼女の言いっぷりは興奮と恐る恐るの二重らせん構造の発音だった。それは疑問の提示はなく、慎重な確認であるのはカトゥンだけでなく、春日大にも分かった。なぜなら、本当に室長の発話が日本語として理解できたのである。無言の割には口が開いたまま一つ頷いた。
「カトゥン、イヌミミを着けてみてくれ」
春日大は室長が指示するのでカトゥンにイヌミミを渡す。装着するカトゥン。
――やっぱりこういうのは女子が着けてこそのものなのでは
などと春日大は思ったものの、セクハラだのジェンダーだのがこの国にあるか知れなかったので言わないでおいた。それよりあっけなく言語が異世界リープをするくらいなら、どうして「帰る」などという簡素な一言が成就されえないのは、春日大にとってはもはや頭痛を取り越して謎となった。
「室長、何をやらす気だ?」
怪訝なカトゥンをよそに、
――うーん。聞けるようになってる。いったいどうなってるんだ?
春日大は腕組みをした。
「カトゥン、ヘンシンしてみてくれ」
室長は力強く提案した。腕組みを解き、唖然とする春日大。
「分かった、ヘンシン」
さらに驚愕させたのは、ネコミミの時同様にポージングを始めるカトゥンが何のためらいもなかったことだ。
ポージング終了。しかし、何の音沙汰もない。さっき春日大が愚痴った時のような魔法陣らしきものも現出しなかった。
「こうなると」
室長は今日一でマジな顔つきになっているように春日大には見えた。
「このイヌミミは、ダイ殿」
言いかけた時だった。研究室の、ある机上にあった小型装置から声がした。ラジオとか無線装置みたいなものだろう。
「事案発生。カトゥン、緊急出動だ」
けたたましい要請がかかった。
「室長、私は行かなければならない」
イヌミミを外しつつ、業務遂行へダッシュしそうだ。
「ああ、そうだな」
室長はにやりとした。春日大としてはこの状況にあってはやはり置いてけぼりになるはず。のだが、
「ダイ殿、君も出動だ」
イヌミミを室長から渡された。それを胸で抱えながら、
「はい。……はい?」
あっけにとられる春日大は
「よし、行くぞ。ダイ」
腕をリード代わりにしたカトゥンに引っ張られることになった。