9-07 苦悶の答と破綻の堰
リシアの目的は、ルリの救出にある。
それはどうあっても変わらない。
ただ、直接ルリを助け出す力が、リシアにはない。
聖剣を手に入れたというトーマのサポート役として、間接的に関わるしかない。だからこそ、王宮精紋破壊を阻止するのだ。
人々を守るためという理由を付けたところで、根っこにある目的はルリの救出にある。
これが紛れもない事実だった。
精霊王の解放によってギデント街道沿いに壊滅的被害が出るという予測は嘘ではないが、そのために王宮精紋の石積みが壊されないようにしているのではない。
真の目的を達成させるための、副産物でしかない。
利己的な目的のために、リシアは彼らが信じる道を妨げている。
自問しながらリシアは、改めて経緯を想う。
日常を奪われ、行き場を失い、生きる糧すら得られない状況に陥った人々が目の前にいる。
そんな彼らに、たとえ欺瞞であっても食事を与えたのはガガン・モッサだった。誰であっても否定できない事実である。多面的な行為のその偽善的一面だけしか見えなければ、モッサの言説が正しいと信じてしまうのは致し方ない。
だが、モッサと戦ってリシアは知った。
相まみえてその人間性を看取したのだ。
人を見下し、世界を嘲笑する。
それが、ガガン・モッサである。
そういう人間性を持つモッサが、ルリを誘拐し精霊王を憑依させて祭殿から連れだした。
その結果、多くの人が死んだ。
たとえモッサの目指す世界が人々の望む世界に見えたとしても、性急すぎる手段を用いれば人々の意識が付いていけない。
それに、人の犠牲を前提とした手段を用いれば、禍根を残す。
結果犠牲者が最小だったと弁明したところで、犠牲者と近しい人々は見捨てられたという感情を抱くものなのだ。愛する者の犠牲がより良き世界のためと言われて、誰が納得できるというのか。
腐った土壌にはいい苗は育たない。
誰かが救済されるために犠牲が必要とされるなら、それは他者からの強制ではなく、自主的な行為によるべきである。
人から選択肢を奪った凶行は、してはならない。
真実を伝え知恵を育み、立ち止まって一度考える機会が与えられなければならない。
民衆の総意が漠然と描く理想世界を誰かが創造して与えるのではなく、民衆の総意によって具体的に描き出す未来を築き上げるべきなのだ。
モッサの行動は、拙速すぎる。
第一に、ルリは自分の意志でこの世界に来たのではない。
誘拐されたのだ。
その結果起きたこの世界の災厄は、起点から誤っている。
それでも独善に陥ってはいけないとリシアは自身を戒める。間違っている可能性を常に意識し、それでもモッサのやり方は間違っているという結論を得て、突き進む礎にするのだ。
リシアは、ルリを救出するためという主眼を捨てた。
彼らを想い彼らがより幸せになれる途と信じて行動するのが、本来あるべき姿だとリシアは想い直したのだ。
高みから見下ろしていては、モッサと同じになる。
彼らと同じ地平に立たなければならなかった。
「リシア様、ボクは――」
ディアンがリシアの耳元で囁いた。
リシアの意図を感じ取り、要石の側では力を発揮できないと伝えたのである。
「ディアンありがとう。大丈夫です」
リシアは飛び降りた。
石積みを三段飛び降りて穴の底に立った。
作業する人々の中心である。
「その要石を壊せば、精霊王が解き放たれてしまいます」
「そのためにやっているんだろうが」
「あなた方は、どうしてモッサを信じているのですか?」
「モッサなんてどうでもいい」
「え?」
想定外の言葉に、リシアは思わず聞き返していた。
モッサが付ける偽善者の仮面を剥がせば同意が得られるというのは、淡い考えだった。そうした考えが見当違いだと思い知らされるには、十分な答えだった。
目の前が暗くなりふらつきそうになる体を、リシアは大地を踏みしめて支える。
想定外の言葉に衝撃を受けた理由は簡単だった。
ルリを助けるためという目的を、リシアはまだ、最優先していたからである。そのために工事の中止を求め、その手段としてモッサが悪だという共感を得ようという目論見を未だ持ち続けていたのだ。彼らの地平に立ち彼らの景色を見なければ彼らの世界は見通せないと分かっているのに、相手を知る事は武道にとっても重要だと知っているのに、リシアは失念していたのである。
我意我欲があると、途は狭められる。
自然体とは、在るように在り、成るように成るものであった。
リシアは力を抜いた。
拘りを捨てるためである。
「理由を教えてください」
「とにかく精霊王にユーシエスから出て行って欲しいだけだ」
「どうしてですか?」
「簡単な話だ。精霊王がそこにいるからだ。お陰でいつまで経っても復興できない」
「精霊王が解き放たれると――」
「こっち側が暴風の被害が出るってか? その前に逃げればいい」
「中央大樹に向かう? いいじゃないか。あっちは天の領域だ」
「世界が滅ぶ? だがその前にこっちが滅んじまう」
「――だから、そんなの関係ない」
リシアは愕然とした。
話し合うべき議論のベースは、もっと深い場所だった。
上辺のきれい事では済まない問題を知ったのだ。
「とにかく、精霊王がここからいなくなってくれりゃいい」
「妻も子も、暴風で吹き飛ばされた。だが、どこかで生きているかも知れない。生きていれば、ユーシエスに戻ってくると信じているが、精霊王がいたらそれも叶わない」
「だが、こんな状態だと、家がどこかも分からないし、そもそも戻ってこられない。だから、精霊王を追い出し、家を再建するんだ」
「ではせめて今日一日、救世の勇者の試みを支えませんか?」
「精霊王を殺すのか?」
「殺すのは問題だ」
「救世の勇者は、世界を守るために戦っています」
「どういう意味だ? 精霊王は殺さないのか?」
「そう聞いています」
「そんなの、当てにできるか」
「そんなあやふやな理由でか?」
「仮にそうなったとして、今度は救世の勇者が王になるのか? 精霊王という権威を従えて、風の領域を支配するのか?」
「それは――」
リシアは答えられなかった。
彼らのためにと想う心があっても、それは本質的な問題ではなかったのだ。
「あんたは、何のためにこんな事をしている?」
「私?」
「そう。あんたは、黒髪の魔女は、この世界を滅ぼしたいのか?」
「私は――私は……」
リシアは俯いた。
彼らの幸せのためというのは嘘ではなくても、薄っぺらな理由でしかなかった。
捨てたはずの主眼は、捨てきれていなかったのだ。
浅はかな考えを恥じたが、むしろ本当の想いこそ彼らと共通しているのではないかと、唐突にリシアは想ったのである。
「私は、精霊王に囚われたお嬢様を助けたいのです」
「え?」
要石に被さる邪魔な石の破片をどける作業の手が止まった。
彼らは驚いたように、リシアへと視線を向ける。
「この世界を救うとかじゃなく?」
「私には、この世界を救える力はありません。それに――」
「それに?」
「お嬢様を失えば、私の世界は終わります」
「おいおい、個人的な話かよ」
呆れたというような溜め息が彼らの間から漏れ聞こえる。
それでいて、どことなく雰囲気が和んだ。
「黒髪の魔女ってくらいだから、なんかこうもっと、高尚な理想を掲げているのかと想った」
「だがあんたは、そのために、俺らがどうなっても構わない訳だ」
「なるほど。そりゃあ、世界が滅ぶなあ」
「違います!」
リシアは声を張った。
「私は、お嬢様を助けたいだけなのです。ただ、そのために皆さんが犠牲になるのも嫌です」
「そうは言うが、精霊王がいる限りこの辺りは滅びる。あんたがそのお嬢様を失って世界が終わるというのと同じように、そうなると俺らの世界は終わる」
「終わらせません」
「どうやって」
「救世の勇者がそのために戦っているからです」
「それを信じられる根拠がない」
「では、皆さんが精霊王を解放しても、回復の森に避難している人達に被害が及ばないと信じる根拠はあるのですか?」
「精霊王を解放すれば世界が救われると、モッサが言ったから――」
「私はモッサが信用できません。精霊王を解放するためとしながら、お嬢様を犠牲にしようとしているからです。そして、皆さんも犠牲にしようとしている」
「精霊王を解放すれば、こちらに被害が及ぶって話なら聞き飽きた」
「それだけではありません。皆さんを矢面に立たせ、戦わせています。精霊を操れるモッサが、どうして危険な役目を皆さんに押し付けるのでしょう」
「いや、俺らの力が必要だと――」
「そうだ。現に救世の勇者は、守備隊を皆殺しにしたって言うじゃないか。そんな奴を信用できるか」
「その事実を、確認しましたか?」
リシアの問いに、即答できる者はいなかった。
すると、穴の上で人々がざわついた。
先程報告に来た者に誰かが詰め寄ったらしく、声だけが穴の底に聞こえていた。
彼らは、穴の周囲を覆う土塁にもたれて座り込でいた、先程救世の勇者が王宮に入ったと告げに来た者を立ち上がらせ、土塁の側に連れてきた。
下から見上げるリシアからもその顔が見えた。
「おい、お前、どうなんだ」
「どうって、何が?」
「救世の勇者は何人殺した?」
「え? いや、おれは知らない」
「戦ったんじゃないのか?」
「いや、おれらは夜通し光に振り回されてヘトヘトで――」
困惑したように、男は周囲を見回した。
「どういうことだ?」
「あ、あいつだ。あいつに聞いてくれ。こっちに歩いてくる奴がいるだろう。守備隊の隊長だ」
男が指さしたのは、環状路の先だった。
土塁の外側にいた人々の視線が、環状路をとぼとぼと歩いてくる男、ウツォシへと向けられた。
「おい、ウツォシ、無事だったのか?」
「あ、ああ。まあな」
「とにかく、証言してくれ」
「証言?」
腕を引っ張られ体を押され、ウツォシという男が土塁から顔を覗かせた。
疲れ切った一人の男だった。
「なあ、守備隊はどうなった? 救世の勇者に何人殺された?」
「いや――」
「おい、しっかりしろ。他の連中が全滅して正気を失ったか?」
「そうじゃない。あいつは、救世の勇者は少年だった」
「少年? 嘘だろう?」
「誰一人殺さず、傷つけず、おれに剣を向ける事なく、目の前を走り去っていった」
「どういうことだ?」
「声が聞こえたんだ」
「声?」
「少年の声だった。『ルリを助けるために、そして世界を守るために』って、そう聞こえた。なんなんだよ」
そして、ウツォシと呼ばれた男の顔は、土塁に突っ伏し、頭を土塁に打ち付ける。「何なんだよ。ほんと、何なんだ。救世の勇者って、ただ誰かを助けたいと想う、子供じゃないか」
その様子に、人々はざわめいた。
ニッシュだけが一人で「嘘だ」と叫んだが、ざわめきの中に紛れて消えていく。
「どうする、みんな?」
穴の底で作業の手を止めていた人々は、顔を見合わせた。
「救世の勇者って、少年だったんだ」
「ロムドが言っていた通りだな」
「しかも、ルリって、精霊王の宿玉にされた少女の名前か?」
「はい。そうです」
「あんたと同じ目的だな」
リシアはうなずいた。
「そうです。大切な人を助けたいのです」
「だったら、我々と同じじゃないか」
「そうだな。家族や友人や、みんなのためなんだな」
「どうだみんな? 精霊王をどうにかするって目的では、一致している。今日一日待っても、いいんじゃないか?」
「よし、一旦中止だ。上がろう」
「おいちょっと待てよ。それが嘘だったらどうする?」
「その問いは、逆の場合にも通用する。この人の言った事、救世の勇者が為そうとしている事が、本当だったらどうするのか、と」
「けど、それじゃあなんで――」
「あれだけ意気揚々としていたウツォシがああなんだ。救世の勇者がこっちの敵じゃないのは確かなんだろうさ」
「そんな曖昧な理由で?」
「結局、結果が出なければ確定しない。確定したらもう、変えられない。違うか? だから、常に決断する時は、曖昧な状況になる」
「しかし!」
「俺は、この人を信じてみようと思った」
「色香に惑わされたか?」
「それは失礼だろう。確かに美人だが、色気を使って何かしようとは一度もしていない。お前は何を見ていた」
「だって――」
「俺は、この人の人間性が美しいと思った。そういう目の輝きを持っている。だから、それを信じる事にした」
「いいのか、それで?」
「仮に精霊王が救世の勇者によって殺されたとしても、このユーシエスから精霊王がいなくなる。そう思えば気は楽だ」
「精霊王が滅べば、世界の均衡が崩れるだろう」
「らしいな。だが、滅ぶよりはマシだ」
「あんたの考えを押し付けるな」
「お前は好きにすればいい」
「一人でどうしろって言うんだ!」
「それを俺に聞くのか?」
男は背を向け、斜面を登っていく。
他の作業員も、道具を持ち、その後に付いていく。
最後の一人を残して、リシアも穴を出た。
すると不満を口にし世界を壊す責任をなすりつけながら、その男も穴から出ていった。
その様子に、ただ一人、ニッシュだけが怒りを向けていた。
「おい、ふざけるな。お前等も誑かされたのか。おい、誰かあいつらを殺せ。裏切り者だ」
その声に、応える者はいなかった。
ニッシュが更なる怒りを発しようとしたが、穴を囲む人々の外側で、ざわめきが起こった。
「騎士だ、騎士が来るぞ」
誰かの声を聞くやリシアは、残りの斜面を進まずに穴の縁を駆け登り、土塁の上に立って見回した。
反対側の環状路を駆けてくる三〇騎ほどの姿が見える。
萌黄色の騎士服を着た集団、風の騎士であった。
大地を揺らしてメノスが駆け付けると、土塁の手前三〇メートルほどの距離を空けて、止まった。
その集団の中に、一人だけ騎士服を着ていない者がいた。
リシアはその男の顔を知っている。
エニアス・エクストーモである。
メノスに乗り慣れていないらしく、手綱は隣の騎士が持っており、慣れない動作で鞍から降りて歩み寄ってくる。
「エクストーモさんだ」
民衆のあちらこちらから声が上がる。
雰囲気が一変した。
「エクストーモさん、いままでどこへ?」
「どうしました。石積みの撤去作業は終わったのですか?」
返答に窮し、都合が悪いと疾しさを感じたように、多くの人々は俯いた。
そんな人々の間をかき分けてニッシュが飛び出し、エクストーモに駆け寄って行った。
「エクストーモさん、こいつら全員、黒髪の魔女に誑かされたんですよ。俺だけは平気でしたがね」
「黒髪の魔女? どこです?」
「あそこです」
ニッシュに指さされたリシアは、怯まなかった。
ただ、次の言葉を待つように人々がエクストーモに向ける視線に反して、リシアに向けられた目があった。
トルプ・ランプシの視線である。
「だから殺しておけば良かったのだ」
そう言いたげな表情に、リシアは同意しない確たる意志を示すように受け止めている。
「ああ、あれですか。人を見下すように高見に立っている」
ふっと抑えた笑みをエクストーモが浮かべた。
「そうなんですよ、さも自分が正しいのだと盲信し、偉そうに言うんですよ」
エクストーモは民衆の近くに進み出ると、転がっていた石の上に飛び乗った。
「みなさん、騙されてはいけません。その黒髪の魔女の邪な企みを、今こそ暴きましょう」
エクストーモの声は、精霊の助力を得ていなくても、朗々としてよく通る。たった一声で、衆目を集めてしまうほどだった。
「何を隠そう私は、黒髪の魔女に捕らわれていたのです。それを、モッサ騎士団の方に助けて頂いたのです」
「なんと、黒髪の魔女はそんな酷い事を?」
ニッシュが脇に立ち、エクストーモの言葉を受けて大げさな身振りで合の手を入れる。
「皆を騙すには、このエニアス・エクストーモが邪魔だと見なされたのです。ですがそれは正しかった。真実を語るこのエニアス・エクストーモがいないと、悲しい事に誰もが騙されてしまいました」
「そんな事はありません。俺は、ずっと信じていました。他にもいるだろう、なあ、みんな!」
ニッシュの言葉に、人々の心が揺れたように、ざわめいた。
「ですが、私も悪かったのです」
「エクストーモさんは悪くありません」
「いえ。私が油断したばかりに、天の騎士に捕まり、黒髪の魔女の元に連れて行かれたからです。そのために、皆さんを惑わせてしまいました」
「すみません、エクストーモさん。正直に言います。このニッシュも、少しばかり、黒髪の魔女の言葉に心が揺れていました」
「いいんです。これは誰も責められません。それほどまでに、黒髪の魔女の悪しき誘惑の言葉は巧妙なのです」
「そうです。今も黒髪の魔女は巧妙に人々を言葉で籠絡し、正義を捨てさせてしまったのです」
「みなさん、まだ間に合います。真実を見定め、正義を為すのです」
「では、愚かな俺らを赦してくださるのですか?」
「当然です。真実に気付いた者を赦してこそ、真実の正しさを証明し、正義を為す力となるのです」
「おお、エクストーモさん、ありがとうございます」
「さあ、みなさん、思い出してください。真実を語るのは誰か」
問う声に、答える者は少なかった。
ただ、囁くような声が至るところで漏れ始める。
「みんな、声が小さいぞ。真実ならはっきり言おうじゃないか。俺は言うぞ。そう、それはモッサ様だ!」
「そう。真実を語るのは、モッサ様だけ」
「ですが、黒髪の魔女は、モッサ様を嘘つきだと言うのです」
「みなさんを、悪の道に連れ込むためです。いいですか、人を騙す悪しき人は、嘘に真実を混ぜて語るのです。一部の真実を見せて信じさせ、嘘を信じ込ませるのです」
「それは、本当ですか? それは悪辣です」
絶妙なまで合いの手を入れるのはニッシュだった。
その言葉は、人々はそれぞれの心の内に抱いていた疑問の代弁であり、真実を見定められない不安な心を寄り添わせていく。
ニッシュの言動が各々の心に共鳴すると、人々は共感してニッシュの言動に寄り添うようになる。彼らの感情はニッシュと融合し、その意志に重ねられていくのだった。
「その通り、魔女は悪辣なのです。ですが純粋な心を持つ人こそ、騙されてしまうのです。心の弱さではなく純粋だからです」
「純粋な心を弄ぶのが、黒髪の魔女なのですね!」
「その通りです。ですからみなさん、今こそ真実を強く信じ、純粋な心を穢す偽りの汚点を捨て、正義を為すのです」
「分かりました。俺は、正義のために戦います」
「あなたに、精霊王から祝福がもたらされるでしょう」
「はい、感謝します。エクストーモさん」
「さあ、みなさん、もう一度真実に立ち返りましょう。歴代の王は精霊王を祭殿に閉じ込め、その権威を利用して民衆を支配してきたのです。これは揺るぎようのない事実です」
「そうだ!」
人々の間から声が上がった。
エクストーモは満足そうにうなずく。
「その風の王は人々を見捨て逃げ去ったのです。これを正しいと誰が言えますか?」
「言えないぞ!」
「風の王は悪だ!」
「風の王を倒せ!」
「そうです。ですから、風の王による支配から解放するためには、精霊王を解放しなければならないのです」
「さすが、エクストーモさん」
「けど精霊王を解放すれば、暴風に襲われると」
「誰がそのようなことを?」
「あの、黒髪の魔女です!」
「魔女を信じてはいけません。恐怖心を煽り、救いを求める純粋な心を操るのです」
「やはり、そうなのですね」
「精霊王を囚われのままにする事こそが罪。罪を犯した人にこそ、精霊王は暴風で罰を与えるのです。考え違いをしてはいけません」
「では、暴風で襲われないのですね」
「考えれば至極当然です。囚われの状態から解放してくれて、感謝しない者はいません。解放するために貢献すれば、精霊王の祝福が得られるのです。その功績に応じて、精霊王から直接祝福を受け取れるのです」
「では、何もせずにいたらどうなるのでしょう」
「残念ながら、何もしないのは、黒髪の魔女の悪行に加担したのと同じです。何もしないのは、罪なのです。そして、罪を悟らず償わない者は、精霊王の怒りによって滅ぼされるでしょう」
人々がざわついた。
騙されていたと、怒りの視線を向けられたリシアは、再び会話によって状況を変えるのは難しいと感じていた。
「みなさん、これをご覧なさい」
エクストーモの声に、人々は振り向いた。
「モッサ様が騎士に与えられた精霊王の分霊を使えば、黒髪の魔女を倒すのは簡単なのです」
大げさな身振りで後方に居並ぶ元風の騎士ことモッサ騎士団を指し示す。すると、騎士達は、精霊王の分霊を呼び出した。
三〇体の分霊が、風を身に纏って姿を現した。
力を誇示する壮観な状況に、人々は感嘆の声を上げ、畏れた。
その様子を見て、彼らは酔いしれているようだった。
「しかし! ここで騎士が黒髪の魔女を殺してしまえば、どうなるでしょう」
不安そうにざわめく声が溢れていく。
エクストーモは、悲しげな表情を浮かべた。
「どうなるのですか、エクストーモさん」
ニッシュがすがるように手を組み、祈るようにエクストーモを見上げた。
「皆さんは罪を償えなくなってしまいます」
「どういうことです、ニッシュさん」
「何も為さないのは、罪なのです。ですからこれは我々の試練です。精霊王を解放を本気で為そうとするのか、なにもせずに黒髪の魔女に加担し、悪の道を行くのか。我々は試されているのです」
「おお」
どよめきがおきた。
「さあ皆さん。力を合わせて黒髪の魔女を捕らえましょう。悪に騙された罪も、その償いによって赦されるのです」
エクストーモの言葉に、歓声が上がった。
振り向いた人々がリシアに向ける視線には、怒りよりも、使命感に満ちている。
「みんな、正義を為そう」
「精霊王を解放しよう」
「邪魔者を追い出せ」
「悪を倒せ」
「黒髪の魔女を殺せ」
「刃向かう奴らは、悪だ」
土塁の上に立つリシアに、敵意が集まった。
何かを切っ掛けに、民衆は雪崩のようにリシアへと襲いかかる寸前だった。
「ラスピ、崩して!」
叫ぶと同時にリシアは土塁の上を、石積みのある位置の反対側へと走った。
そのリシアの足元に掴みかかろうと人々が手を伸ばと、突如として突風が吹いた。人々は風に煽られ、吹き付ける砂塵に顔を背け、息苦しさに背を向ける。
その時、ドドドッと音がした。
土塁が崩れたのだ。
周りを囲む人の落下を抑えるように、その内側だけが穴の縁と共に崩れ落ちていく。
穴の底へと、大量の土砂が流れ込んだのだ。土砂によって石積みの内に現れた要石が土砂に埋もれ、穴の底へ降りるスロープも崩れ落ちてしまった。
「おい、地の精霊だ」
「穴を埋めやがって」
「魔女が本性を現したぞ」
「やっぱり悪だ」
「やっちまえ」
「ぶっ殺せ」
ひょいと、残った土塁の細い縁の上に飛び乗ったのは、石で体を覆った地の精霊だった。
ラスピは反対回りにリシアの方へと駆けていく。
リシアとの合流点となる先で人々を押し退けるように地面が盛り上がり、花道のようになった。ラスピが先陣を切り、その後をリシアは走った。
民衆の包囲を抜けた先で花道がなくなると、リシアは丘を斜めに下る方向へと走った。全員では無いが、多くの人々がリシアの後を狂ったように追いかけていく。
ディアンが姿を現すや突風を起こし、追っ手の足を止めた。その間に距離を稼いだリシアは、立ち止まって振り返った。
「リシア様、逃げないのか?」
リシアは、少し背の縮んだラスピに笑みを向けた。
「追いつけないほど私が離れると、あの人達はまた、要石を壊そうとするでしょうから」
人々を風で押し止めていたディアンがリシアの側に戻った。
「おいラスピ、平気か?」
「オレを気遣うとは、嬉しいじゃないか」
「リシア様を守るには、協力が必要だ」
「殊勝な事を。当然オレは、まだまだ平気だ」
「壁を作れるか?」
「城壁は無理だが、土壁なら少しは作れるだろう」
「なら、頼む。ボクは騎士達を手助けしてくる」
ディアンが向けた視線の先では、同じように人々に追い掛けられながら走ってくる、トルプ達四騎士の姿があった。
「よろしいですか、リシア様」
「もちろんです。彼らが人を傷つける前に、お願いします」
「了解です!」
ディアンが吹き去ると、追っ手を押し止めていた風が止んだ。
追っ手の民衆は、リシアへと迫り来る。
その襲来を阻止するため、ラスピは空堀を掘り、その土で壁を作った。側方に一箇所だけ空けてあるのは、トルプ達を迎え入れるための場所である。
全周を囲んではいないと気付いた民衆が回り込もうと動き出したが、その前にディアンの助けを得たトルプ達が駆け入って来た。
先頭を駆けてくるトルプは焦っている様子だった。
「リシア殿、待避を」
トルプの声を受けても、リシアは動かなかった。
「ラスピ、閉じて」
ディアンが風で追っ手を押し止めている間に、ラスピは空堀と土壁によって、周囲を覆った。
直径三〇メートルほどの、小さな砦である。
空堀に降りて土壁を上ろうとする人々を、ディアンが風で追い払う。その間も、次々と寄せる人波に押し出されるように、空堀の回りを包むように広がっていく。もうじき精が尽き、ディアンだけでは全周囲の民衆の相手をしていられなくなるのは目に見えていた。
長くは続かないと自覚しつつ、リシアは少しでも時間を稼ぐ事を優先したのだ。
「リシア殿、なぜ留まるのです?」
「標的がいなくなれば、彼らは要石を壊そうとしますから」
「確かに――やむを得ませんか」
外から罵声が浴びせられる。
投石も届かない外側から、言葉で攻撃してくる。
その声にどよめきが混じり、広がっていく。
妙な気配を感じて、リシアは空を見上げた。
そこには、予想もしない物が飛んでいた。
「あれは、何?」
「なんと――」
トルプだけでなく、天の騎士の全員が空を見上げて絶句した。
空にあったのは、一瞬虫か鳥のように見えたが、明らかに人工物だった。
飛んでいるが、飛行機というよりは船に見えた。
だが、燃えていた。
頭上を飛び去り、その空を飛ぶ船は、残され森の方へと飛び去っていく。
そして、墜落したらしく、大きく煙が上がった。
砦の外の人々も、初めて目にした飛行物体だったらしく、しばらくは罵声よりは動揺の声となり、壁の向こうから投げ込まれる石も止んだ。
ほどなく、地面が震動する、野太く低いうめき声のような音が響いた。
ヴォーン、ヴォ、ヴォーン。
その直後、地震とは違う大きな揺れに襲われた。
周囲は困惑に包まれていく。
リシアの心は、不安に揺らぎ、ルリを失う恐怖にざわめいた。




