9-05 黒き鮮烈と迷夢の霧
夜が明け、第七の月二六日の朝となった。
リシアは、理想とは大きく隔たりのある現実を目の当たりにしていた。それでも一歩でも半歩でも理想へと近づく道筋を、歩むしかなかった。
言っても無駄だからと諦めて言わないのと、悟ってもらえると信じて言うのでは、結果は同じでも全く違う方法論である。
彼らの迷いを晴らすには、各々が何かを悟り、得心するしかない。
大人達が理解できなくても、子供達は何かを感じるかもしれない。
それが実を結ぶのは五年や十年というスパンではなく、何百年という期間がかかるかもしれないが、種は残る。
別の視点で物事を見れば違う世界が広がる。他の可能性を見出す視座を示しておけば、芽吹く日が訪れると期待するだけである。
その上でリシアは、次に進む。
人々に告げて悟らせようというのではない。
悟れなかった人も助かるよう、これから想定される被害が起きないように食い止めようとするのは、変わらない。
それがリシアの意志である。
「行きましょう、ディアン」
声を掛け、リシアは決意を新たに王宮精紋の破壊現場へと向かう。
追い風を受けてリシアはギデント街道を走った。
環状路と交差する作業現場までは、すぐだった。
モッサを正しいと信じる人々が、地面を掘り返した穴に降り、王宮精紋を成す石積みを破壊しようとしている状況だった。
「何かが変わりましたね」
その雰囲気が昨日と違っていた。
明らかなのは、石に楔を打つ音がしないことである。
次に、作業をするでもない、ただ見に来た人々の姿がある。夜通しでリシアが巡った避難民キャンプにいた人の何人かが、真偽を見定めるために来たようであった。
さらには、地面を掘り返した周りに土塁が築かれ、その周りを人々が囲んでいた。手に石を持ち下へと投げ込んでいる者は、周りの者に抑えられてしまう。
一方では穴に背を向け一方を見つめている人々もいるが、その視線の先は群衆に阻まれて見えなかった。
「リシア殿――」
小声に振り向いたリシアが見たのは、フードで顔を隠したトルプだった。
「こちらへ」
手招かれるままリシアは後を付いていく。作業現場の周りに造られた柵の外側にある、少し離れた人の姿がない岩陰に導かれた。
「何があったのです?」
「色々厄介なことが起き不用意に動けずにいたのです。ただ幸いにして精紋の破壊作業は止まっています。それとラスピ殿から伝言があります。穴から人が出れば、何時でも土塁を崩して石積みを土砂で埋められるとの事です」
「現状は分かりましたが、要因は?」
「少し長くなりますが」
「手短に」
「では――」
トルプがかいつまんで話すのを、リシアは聞いた。
つまり、こうである。
残され森の避難民が大挙して押し寄せた事。
それを先導したのが、チナンとダリュアだという事。
彼等が精紋破壊作業をする代わりに食事を要求し、石割の技術をダリュアが見せると信用され作業を任された事。
穴から土砂を運び出す作業と石割の作業が同時並行で行われたが、彼等は運び出した土砂で穴の周囲に土塁を築いた事。
土塁を完成させると、食事をくれないと作業はしないと、労働を拒否した事。
その結果彼等の友人であるロムドが人質に取られた事。
人質の命を盾に労働を強要したのに対し、これまで働いていた人々の間でも意見が割れている事。
意見対立したままの会話では、落し所が見当たらない事。
などである。
「――それで今は、一触即発となっています」
「誰がロムドを人質にしたのです?」
「エニアス・エクストーモの信が厚い、ニッシュという男です」
リシアは記憶を辿ったが、初めて聞く名前だった。
「いずれにせよ、ロムドを助けなければなりません」
「強引に出れば、歯止めが利かなくなります」
「分かっています」
緊迫から暴動に移行する端緒を与えずに済ませる救出方法を考えながらリシアは岩の上に登り、状況を確認した。
群衆越しの一〇〇メートル以上離れた辺り、丁度ギデント街道を掘り返した穴の周囲を囲む土塁からやや離れた場所に、杭に縄で縛り付けられている人の姿が見える。
それがロムドだった。
ロムドは項垂れたまま動かず、安否が分からない。
その近くの岩の上に立っているのが、ニッシュである。
土塁の周囲には空白地帯があるが、道幅四〇メートルはあるギデント街道を挟んで向こう側にかけて何百人もの人々が集まっている。
野外フェスのような状況だった。
異なるのはステージとマイクやスピーカーがない事である。そのため、外側にいる人々は何が起きているのか、正確には知らずにいるようだった。
リシアが耳を澄ませると、そこにディアンは音を集めた。
「どうですか、リシア殿」
下からのトルプの声をリシアは手で制し、耳に集中する。
雰囲気からも、賛否両論あると分かる。
少なからず、フホ村の若者を初めとする避難民の賛同者とトルプ達三騎士の啓蒙活動の成果があったのだ。
様々の人々の会話がリシアの耳に届けられた。
「おい、ニッシュ。いくらなんでも人質をとって強迫するのは酷すぎるだろう」
「精霊王の解放を阻む奴らに正論は通じない、とエクストーモさんも言っているだろう」
「しかしだ、ニッシュ。本当に精霊王を解放すれば、世界は救われるのか?」
「偽の救世の勇者がまた来る前に、石積みを崩さなければならないと、モッサ様が言ったのを忘れたか?」
「そうだ急げ。精霊王が殺される前に、解放するんだ」
モッサの正しさを信じる人々から声が上がると、ニッシュは満足げにうなずいた。
「だが、救世の勇者は聖剣を手に入れたらしいぞ。聖剣があれば、精霊王を解放できるらしい」
「その話を誰から聞いた? エクストーモさんはそんな話はしていないぞ」
「野営地で誰かが言ってたのを聞いたんだ」
「嘘を吐くな。お前も黒髪の魔女の手先だな」
「違うってニッシュ。冷静になってくれ」
「そうやって考えさせて、時間稼ぎをする魂胆だな」
「こいつら、やっちまえ」
急進的な信奉者が、荒っぽい意見を口にした。
好戦的な意見に、ニッシュが笑みを浮かべた。
「そうやって暴力に訴えるとは、最低だな」
「分からず屋は、拳で分からせる」
「それだと理解は得られない、抑圧だ」
「どうでもいい。精霊王を解放するためだ。正義は我にあり」
「そうだ! 偽勇者が精霊王を殺してしまったら、どう責任取るんだ。取り返しが付かないだろう」
煽らなくても、信奉者は不信者を阻害しようとする。
沈黙しながらもニッシュは、笑みを浮かべた顔で議論の方向性を賞賛しているようであった。
「だから! 精霊王が解放されたら、またあの暴風に襲われるって言ってんだ、こっちは!」
「なんだ、てめえ、精霊王が解放されたら、怒りは収まり、暴風を収め、穏やかな風となられるに決まっているだろうが」
「そうなる保証がどこにある」
「モッサ様がそうおっしゃった」
「モッサが正しいと、誰が保証する」
「そんな事、分かりきってるだろう」
「わかんねえよ」
「まったく、分からず屋め!」
「お前らこそ、モッサの胡散臭さに気付けよ」
不信者も言葉遣いが荒くなっていく。
圧倒的少数の反論に、ニッシュは余裕の表情を見せている。
「我々に食事を与えて救ってくれたモッサ様を悪く言うな」
「その食料は、どこでどうやって手に入れたんだ?」
「モッサ様を疑うな」
「目を覚ませ、モッサをよく見ろ」
「うるさい、黙れ! みんなだってモッサ様の施しを受けただろうに、裏切り者め」
「餌付けされて尻尾振ってんじゃねえ」
「なんだと、てめえらこそ、魔女の褥にご招待か?」
「違う! ちゃんと考えて、悟ったんだ」
「ハッ! よく言う。精霊王を囚われのままにしようとする黒髪の魔女の、どこが正しいんだ」
自然にぶつかり合う議論を、ニッシュは腕組みをして聞いていた。
「そうじゃない、別の方法で助けようとしているんだ」
「騙されているんだ。そうしている間に偽勇者によって、精霊王を殺そうとしているだけだ」
「だから、そもそもモッサが精霊王を祭殿から出したから、ユーシエスがこうなったんじゃないのか?」
「それは、精霊王を解放したのを阻止しようとした、風の王が悪い」
「いいや、モッサが祭殿から出さなければこんな被害には遭わなかったのは間違いない」
「分からず屋どもめ。世界を変えるには、犠牲が付き物なんだ。真実を明らかにするための痛みだ」
「その痛みをモッサは、罪のない我々に押し付けたんだぞ」
「モッサ様の高潔な理想が分からない愚民だ、お前らは」
「そう盲信しているお前が愚かなんだ」
「なんだと!」
「事実を言われて頭にきたか?」
「てめえらのようなクズが革新派の足を引っ張るから、世の中はいつまで経っても旧態依然で、腐ったままなんだ」
ディアンが集めてくれる人々の声を聞きながら、リシアは険しい表情をしていた。
危うい状況に向かっている。
被害に遭って避難しているという同じ境遇の避難民同士であるというのに、その共通点が忘れ去られようとしているのだ。
モッサを信じるか信じないかという二者択一を迫る手法は、二極化によって人を分断し、対立構造を生むためにある。
対立し反論し合えば、争いへと向かう。
議論は口論となり、相手の意見を否定して封じ合えば、行き場を失った感情が暴発し、暴力へと発展する。
よくない状況だった。
喧嘩腰の言い合いを論議へと引き戻す発言者の登場を期待しながら、リシアは無意識に拳を握り締めていた。
「犠牲になる人を見捨て切り捨てるのがモッサの世界とは、嗤っちまうね」
「やはり、腐った実は枝から取り取り去り、燃やさなければいけないようだ」
「腐ってんのはお前らの頭の中だ」
「汚物の中に居ると、鼻が麻痺するだけでなく、目も頭も腐っていくというのは本当だな」
「誰が汚物だ」
「てめーらだよ。真実に気付かない盲だ」
「どうやら、モッサを盲信する頭がいかれた奴らとは、話し合いは無駄だったようだ」
「真実に気付けないような腐った連中は、排除して当然だ」
考えが浅いのだとリシアは気付いていた。
排除すれば身の回りはきれいになるだろうが、排除された者達は行き場を失う。生きていこうとするのが人間の本能なのだから、会話が成り立たなければ、生存権を懸けて争うしかなくなってしまう。
そうした所へ、遠くからの声が聞こえてきた。
大声で何か言いながら、環状路を走ってくる者がいる。
救世の勇者の侵入を阻止するために志願した、守備隊の一人だった。
ディアンのお陰でリシアはいち早くその言葉を聞いていたが、多くの人々には声が届かず気付いていなかった。
次第に近くの者から気付きはじめ、何人かが振り向いた。
「おおい、偽勇者が王宮に入っていったぞ」
守備隊の一人が何度目かの声を発しながら、すぐ近くまで来た。息を切らせて、精紋を破壊する作業現場に近づくと、土塁の周りを囲む者達に迎えられた。
「本当なのか?」
「嘘言って、どうする」
荒い息の合間に守備隊の一人は答えながら、人をかき分けて前へ進む。
土塁までの空白地帯に踏み入ろうとした彼に向かって、土塁の内側から石が投げられた。
石は報告に来た者の手前で落ち、足元へと転がる。
「おい、何の真似だ!」
「近づくな」
「あ? どういうことだ?」
「食い物くれなきゃ働かないって、あいつら――」
「は? バカか! なに休んでるんだ! 働けよ! 急げよ! 早く精霊王を解放するんだろ!」
救世の勇者を王宮に近づけないために、夜通し必死に防衛してきた守備隊の彼にとって、作業の停滞は理不尽な状況だったのだ。
朝までずっと光を追い掛け、王宮への侵入を防ごうとしてきた行為が、無駄にされたと思うのも仕方のない事であった。
「エクストーモさんはどこだ。偽勇者が王宮に入ったんだぞ!」
「エクストーモさんは、出かけている」
「なんでだよ、こんな時に――」
怒鳴りながらも疲労のためか、彼は地べたに座り込んでしまう。
なだめるように誰かが言いながら、何人かが気遣うように近付き、水を与えた。
「とにかく、急がないと大変な事になるって、分からないのか?」
守備隊の一人の声は、周囲の人々にしか届かなかった。
伝言のように、彼の言葉が伝えられていく。
救世の勇者が王宮に入ったという事実が広まるにつれ、ざわめきが広がっていく。
「おい、どうした」
「救世の勇者が守備隊を突破して王宮に入ったらしい」
「何だって」
「おいどうする。急がなきゃ」
「だが、働き詰めなのに何も食わせてもらえないらしいぞ」
「やっぱりニッシュの奴が独占してるのか?」
「エクストーモさんがいないと、だめだな」
「下の連中が働かないなら、誰か代わってやれよ」
「石を割れる奴が必要なんだ」
「石? 難しいのか?」
「石の目ってのがあるんだ。素人には無理らしい」
「昨日までやってた奴らは?」
「腕がパンパンで動かなくなったらしい」
人々のざわめきには様々な声が混じりあう。
ちょうど穴の反対側、ロムドを人質に取っていたニッシュの耳に救世の勇者が王宮に入ったと伝わるまでに、そう時間は掛からなかった。
事態を伝え聞いたニッシュは、組んでいた腕を下ろし衆目をぐるりと指さした。
「ほら、聞いたな。偽物の救世の勇者は、何の罪も無い俺達避難民の制止を振り切り俺らの仲間を殺して突破し、精霊王を殺すために王宮へと入ったのだ」
ニッシュの大声を聞いた人々は、ざわついた。
即座に仲間の死に反応し、報復しろと騒ぎ出す声が湧き起こる。
「おいニッシュ、話を盛りすぎだろう」
「そうだ。仲間を殺したって誰が言ったんだ」
「バカかお前らは。守備隊の連中を殺さずに、突破できる訳がないだろう。当たり前のことを聞くな」
「勝手な妄想で語るな、ニッシュ」
真っ当な声はしかし、ニッシュの怒りを招いた。
「おい、こいつらを捕らえろ。黒髪の魔女の仲間だ。言葉で俺たちの連携に亀裂を入れ、モッサ様を信じる心に疑惑を植え込もうとする悪しき連中だ」
「おいおい、待てよ、早まるな」
「いいや、あいつら怪しいぞ」
「ニッシュの言う通りだ」
「そうだ。やっちまえ」
「まず手始めに、裏切り者を血祭りだ」
「そして作業を妨害する連中を、押し退けろ。抵抗するなら殺しちまえ」
「とっとと壊しちまおう。そもそも食ってる場合じゃねえ」
「下の連中も、追い出そうぜ」
限界のようだった。
救世の勇者が王宮へ入ったと知り、彼らの心の中でカウントダウンが始まり、モッサを信じる者の心に焦りが芽生えたのだ。
リシアは意を決し、皆に声を届けるようディアンに向けて強く想い、大きく息を吸うと啀み合いの前戦に意識を向けた。
「止めなさい!」
声が響き渡り、金縛りに遭ったように人々の動きが止まった。
だがすぐに、潮が満ちるように、無数の意識の波がリシアへと襲いかかった。
一斉に振り向いた人々の視線が、岩の上に立つリシアを貫く。その中に、柵の側に立つマントで姿を隠した者がいた。
リシアは、束ねていた紙縒りを解いて長い黒髪を下ろし、マントを脱ぎ去り黒いピナフォア・ドレス姿の自分を曝した。
夜中避難民キャンプを巡り、耳目を集めるにはこれが最も効果的だと知ったからである。
民衆のそれぞれが抱く様々な感情や想いが混じり合う荒れ狂う波に意識が飲み込まれそうになり、足を踏ん張ってリシアは耐えた。
敵意と好奇と疑惑と期待が絡み合いすべてを見定めようとする鑑定眼に曝され、意志が貫かれて穴だらけになって朽ちそうになるのを、リシアは拳を握り締めて固める。
「行きます!」
言うやリシアは岩から飛び降りる。
トルプが止める隙はない。
ディアンは追い風となり、また先陣の風となって吹き抜ける。
柵の側にマント姿で体を隠したラスピが、柵を押し倒して開く。
突風に煽られて気勢を削がれた人々の目に砂塵が入り、動きを停滞させた。
ギデント街道を横切り、リシアは群衆の中心に向かった。
土塁の上に飛び乗ってリシアは、群衆を見渡した。
長い黒髪が風で舞い、優しく撫でるように髪を整えられる。
一瞬姿を現したディアンは、人の姿を保つだけで精が奪われてしまうため、再び宿玉の中に隠れてしまう。
それでも、微風に黒髪が揺れ、ピナフォア・ドレスのスカートがそよぐ。
スカートの下に履く作務衣とベルトに吊す剣と足元のトレッキングシューズという出で立ちが、ドレスコード違反だと指摘する者はこの場にはいない。長い黒髪とノイ・クレユの服装に身を包むリシアを、誰もが異質に感じているだけだった。
多くの人は、初めて目にする黒髪のノイ・クレユ人を、物珍しそうに眺めていた。
リシアは、ロムドを人質にするニッシュと正対した。
「同じ人間同士で争ってはいけません」
リシアが発した言葉はしかし、すぐさま、人々から困惑と敵意と奇異の視線によって受け止められた。
一人、歓迎の笑みを見せたのは、杭に縛られ項垂れていたロムドだった。まだ意識があり生きる気力も保っていると知り、リシアは安堵した。そして、顎を上げて視線を向けてきたロムドと目が合うや、必ず助けるとの想いを込めてリシアはうなずいてみせる。
それで想いは通じたのだ。
背後の土塁の内側からは、チナンとダリュアの歓喜の声が聞こえたが、リシアはちらと視線を送っただけで言葉は告げなかった。
「おい、黒髪の魔女だぞ」
「今のは、風と地の精霊が手伝ったのか?」
「だから黒髪の聖女なんだろう」
「え? 精霊どこ?」
「男をかどわかす魔女だ」
「いやいや、美人だから聖女だ」
「まったく男連中は顔で判断するのかしら」
「やだねえ。ああやって男を騙すような魔女なのに」
「それに比べて、エクストーモさんは知的で素敵よ」
「やっぱりエクストーモさんが正しいのよ」
「それにしても、偉そうに」
「高みに立って何様だ?」
様々な声が聞こえる。
耳に心地よい言葉は少ないが、暴動に発展しそうになる雰囲気が和らいだのは、リシアにとって成功だった。
だが、本意ではない。
暴動に発展しようとしていた人々の気を逸らすためとはいえ、高みから見下ろす位置に立ってしまったからである。結果として生まれる弊害として、鬱屈する感情が芽生えるのも時間の問題だった。
「これはこれは。噂の黒髪の魔女が、自らお出ましとは驚いた」
嘲笑を浮かべながら杭に縛り付けたロムドの近くにある岩の上に立つのが、エクストーモの代理とされる、ニッシュという男である。
一方には媚びへつらい、他方では卑下し見下す人間性が顔に滲み出ている。
「人質を解放しなさい。そして話をしましょう」
「話だ? あ?」
ニッシュが嗤った。
「これではっきりした。黒髪の魔女、お前は人を惑わし世界を滅ぼす、絶対悪だという事実が明らかになった」
「私は、人を惑わせてなどいません」
「ばかばかしい。無駄な会話をふっかけて時を浪費させ、その間に悪の手先である偽勇者を刺客として送り、精霊王を殺そうとする魂胆が丸見えだ」
「違います」
「違う? どう違う?」
「感情を排除し、事実を並べて見れば、真実が見えてきます。真実が明らかになれば、すべき事も明らかになります」
「不要だよ」
「なぜです?」
「真実はすでに俺らは知っている。エニアス・エクストーモさんが教えてくれたのだから」
「そうだ」と追従する声が周囲から上がった。
「それが正しいというなら、私に教えてください」
「ほう――」
ニッシュは笑みを浮かべ顎をさすった。
「いいだろう。だが、その前にこの不公平な状況を改善するのが先だろう、黒髪の魔女さんよお」
「何が言いたいのです?」
「あんたは契約精霊を持ち、いつでもこっちを殺せる力を持っている。それって公平か? せめてこっちは人質でも取らなけりゃ、命の担保ができないと、分からないのか?」
「精霊には手出しさせません」
「魔女の言葉など、信じられるか。そもそもあんたは、精霊を隠している。どこに潜ませて、誰を殺す気だ?」
群衆からざわめきが漏れた。
みんなキョロキョロと見回し、襲われるのを警戒し始めた。
「違います。隠しているのではなく、休ませているのです」
「物は言い様だ。だが、こっちからすれば姿が見えない以上、どこかに潜ませて俺らの誰かを狙っているとしか思えないのさ」
「違います」
「言葉ではどうとでも言える。だがあんたは、ここにいる全員を、人質にしているのと同じなのさ」
「人質を取っているのはあなたです。私は話をしに来たのです」
「はたしてそうかな? みな惑わされてはいけない。黒髪の魔女は、天の騎士を籠絡して従えていると、エクストーモさんが言ったのを忘れたか!」
「籠絡などしていません。同じ志があるだけです」
「同じだ。とにかく、この中に紛れ込んで、嘘を広めているのは分かっている。ついでだ、出てこい、天の騎士」
だが、誰も前に進み出る者はいなかった。
ニッシュは岩から飛び降りると、ベルトに差していた短剣を抜き、杭に縛り付けたロムドの首筋に突き付けた。
「黒髪の魔女、出てくるように命令したらどうだ? あんたの手下だろう?」
「命令などできません。同じ志があるだけですから」
「隠し立てすると、良くないぜ。それになあ天の騎士よ、お前らが正しいと言うなら、堂々と前に出てこい」
「いいだろう」
いつになく凜とした声が、群衆のざわめきを貫いて通った。
トルプ・ランプシが発した声だった。
堂々たる歩調で群衆の間から前に進み出る。
「工作とは言って欲しくないね。真実を伝える啓蒙活動だよ」
フードを取り、顔を晒してセバステが、トルプとは離れた場所から進み出た。
「大衆を前に異論を唱えても、少数の声は届く前にもみ消される。諸君は今、それを体験している」
ロティタはまた別の場所から進み出ると、マントを脱ぎ捨てる。
「やっぱりいたな。どうだみんな、分かったか。こうやって工作活動をして、我々を騙そうとしていた。そんな奴らの言うことが信じられるか?」
「そうだ。信じられない」
「協定を破って何しに来た!」
「やはり天の王の陰謀か」
「そして黒髪の魔女と結託して何をする気だ?」
民衆の誰かが石を拾い上げた。
トルプは立ち止まり、周囲に視線を向けた。
その鋭い眼光に射すくめられ、石を投げようとした者がその動作を止めてしまうほどだった。
天の騎士団の団長としての貫禄と威厳を、トルプは纏ったようだった。衆目を浴びて立ってこそ発揮されるカリスマ性というのを持っているのだ。
評するなら、役者だった。
「私は、天の騎士団の団長、トルプ・ランプシである。此度は騎士団の精鋭を集めた天空遊撃隊の隊長として、部隊を率いて、この世界を救うために来た!」
「嘘だ」
「言い逃れだ」
「混乱に乗じて、風の領域を侵略する気だろう」
「そのような事はない! と、断言しよう。世界を救いたいという志に、種族は関係ない。この世界、タタ・クレユで暮らす同じ住人なのだから」
「つまり、戦う気はないというのだな」
トルプはぐるりと体の向きを変え、声の主、ニッシュを見つめた。
「当然だ」
「ならば、全員その魔女の横に並べ。そして剣を捨てろ。あんたもだ、黒髪の魔女」
「いいでしょう」
ためらう三騎士に構わず、リシアが率先して剣をベルトから外し、地面に置いた。
「やむを得ませんか」
トルプが諦めたようにリシアに倣い剣を外すと、セバステとロティタも従って剣を地面に置いた。
するとリシアは、一歩前に進み出る。
「ではあなたも、人質を解放してください」
「一見魔女の要求は正当に聞こえる。――だが断る」
その行動に、周囲の人がざわついた。
「そりゃあまりにも理不尽じゃないか?」
「狂ったか?」
「正しいのに、人質で強迫するのか?」
「落ち着け。みんなもう忘れたのか。黒髪の魔女は、天の騎士を籠絡し、風の精霊と地の精霊を使役すると言っていたではないか」
「おお、そうだ」
「精霊がいるんだった」
「だが、精霊が相手じゃ、どうしようもない」
「精霊の力ってすげえもんなあ」
「全員よく聞いてくれ。黒髪の魔女の策略に惑わされるな。やれ風の精霊だ、やれ地の精霊だ、天の騎士だと、力を笠に着ているのが悪しき黒髪の魔女だ。どっちが強迫していると思う」
「おお、確かに」
「さすがニッシュ。エクストーモさんに次ぐ人だ」
「そう。手下の天の騎士の存在を暴き、武器を捨てさせた。それでもまだ、黒髪の魔女は優位に立っているのだ」
「違いない」
「だが黒髪の魔女が悪なら、人質をとっても無駄じゃないか?」
「人を見殺しにしても、心は痛まないのが魔女だからな」
「どうだ魔女、違うか? 姿を隠した精霊は、ここにいる全員を人質にしているだろう」
「違います。私は誰も人質には取りません」
「だったら、宿玉を捨ててもらおうじゃないか」
「それは――」
リシアはためらった。
二精霊の宿玉を持っていないからである。
ディアンは、ユートからもらったお守りを宿玉として与えたが、キディナスとしての宿玉を持っているのだ。
仮にそうでなくても、精霊にとって命その物と言える宿玉を捨てるなど、出来ない相談だった。
「どうだ、捨てられないのか? やはり話し合いをしたいと言うのは、嘘だったな。黒髪の魔女は悪だと証明された」
「違います」
「なら、宿玉を捨てろ」
「できません」
「だったら、こいつを殺すがいいか?」
ニッシュが、短剣を杭に縛り付けたロムドの首筋に当てる。
「なんという卑劣な。それが正しい者の行いか!」
トルプが叫んだ。
「黙れ騎士! 正しい者の行いなら、協定違反のあんたらは、まず処断されなければならない」
「いや、どう考えても話し合いを求める相手に、人質は卑怯だろう」
不意に別の方向から声が聞こえた。
ニッシュの背後に現れたのは、マントを着てフードを目深に被った者だった。
ニッシュが振り返ると、声の主はマントを脱ぎ捨てる。
それは、髪は薄汚れた濃緑色で、肌は土で黒く汚れた、男だった。
「お前は無口の風来坊――」
「だから、人質は卑怯だと言ったんだ」
「弱いくせに、偉そうに。向こうに行ってろ」
脅すようにニッシュが持っていた短剣を無口の風来坊へと突き付ける。
だが、男は怯まず一歩踏み出し、ニッシュの手を掴み抑え込んでしまった。
その身のこなしから、武術を修めているとリシアは瞬時に悟った。
「何をする! お前は何だ?」
「私は天の騎士団、天空遊撃隊所属のアプローセという者だ。こういう事もあろうかと、潜んでいたのだ」
「天の騎士だと? その髪は?」
「泥で染めた」
「くそ、騙したな」
「お前が勝手に一人で納得しただけだ」
「つまり俺の勘は正しかったのか。お前が怪しいというのは」
「そうらしいな」
「だったら、お前も黒髪の魔女に籠絡されたのか」
「生憎と私は、彼女とは無関係でね」
「ふざけんなよ、てめー」
「吠えるな、勝負は付いたんだ」
アプローセはニッシュの手から短剣をもぎ取ると、トルプ達の方へと背中を突き押した。
ニッシュは足が前に出せず、膝から地面に落ちた。
その様子を、リシアは険しい表情で見ていた。




