8-12 戸惑いと翻然の風
森がざわめいた。
風が吹き、人のような姿となってリシアの側に留まる。
風の精霊ディアンである。
戻ってきたのは、リシアの時計で一時間ほど経った頃だった。
「リシア様。間違いなく救世の勇者が来ました。夜明けと共に、再びルリ様の救出に向かうそうです」
「ありがとう、ディアン。では私達も全力で精紋の破壊を阻止しましょう」
「はい。お任せください」
「ならばオレは、行くとしよう」
「どこへ行くんだ、ラスピ?」
「リシア様の密命を授かったのだ」
「そうか。気を付けて行けよ」
「お前はまた、オレが逃げ出すと思ったのではないのか?」
「ボクとの約束を守ったラスピが、リシア様との約束を違えるはずがないさ」
「ふふ。風よ、この騒動良き出会いとなった。成し遂げねばなるまい。では、行ってくる」
ラスピの姿を形作っていた土が崩れ落ち、地面にモグラの穴のような膨らみを残して消えた。
本体である精が大地を伝って移動していったのだ。
「リシア様、ラスピに何を命じたのです?」
「ちょっとした、攪乱です。少しでも時間を稼がなくてはなりませんから」
「そうですか。では、ボク達はどうしましょう」
「最後の手段に備えます」
「戦うのですか?」
「なるべく避けたいですが、あるいは戦いになるでしょう」
「リシア様、初めに伝えておきますが、ボクは人を殺しません」
「私もそのつもりですが、ディアン、もし私が人を殺せと命じたらどうします?」
「それでも殺しません」
「私が殺されそうになったらどうします?」
「ボクがリシア様を連れ去ります。ボクに勝てる人間は、そんなにいませんから」
「そうですか」
リシアはふと、空を見上げた。
天の川のように小さな光が流れているのが見える。
問うべきか迷っているのだ。
それでも覚悟を決めたようにリシアは視線を下げ、暗闇の中でもぼんやりと光って見える風の精霊ディアンを見つめた。
「どうしたのです、リシア様」
「ディアン。あたなの本当の名前が、キディナスというのは事実ですか?」
ディアンの姿が少し沈み込んだように薄暗くなる。
「今はディアンとして、リシア様をお守りするのがボクの務めです」
「事実、なのですね」
「はい――」
「キディナスという名は、誰が名付けたのです?」
「――プロソデア様です」
「では、ディアンという名を付けたのはもしかして――」
「ユート様です」
「そう、でしたか」
ガーディアンを略してディアン。
モッサが守護精霊をガーディアンだと言っていたのを聞いて心に引っかかった理由がこれだったのだ。
リシアは納得したように、うなずいた。
「あの男はなぜ?」
「あの男とは?」
「あいつです。クマ・ユート。何の魂胆があって私にあなたを――」
「違います。ボクはリシア様をお守りしたくて、それでプロソデア様に行かせて欲しいとお願いしたのです――」
「どうして?」
「ボクは誰かを護るために存在しているからです」
「では、あの男の頼みではないのですね」
「当然です。ボクの意志ですから。ただ、ボクの宿玉だけでは精霊王には近づけないのは分かっていました。するとユート様が、リシア様のために作ったお守りも宿玉にしたらどうかと言われ、それならボクも精霊王に近づけると思ったのです」
「まさか、クマ・ユートはそのためにお守りを?」
「はい。そしてリシア様がお守りを受け取ったなら付いて行っていいと言うのが、プロソデア様からの条件でした」
「そう――」
リシアは黙り込んだ。
護られていたと知って、悔しかったのだ。
だが、ここまで死なずにいられるのは、少なからずユートのお陰でもある事実を、リシアはもう否定できなかった。
リシア一人ではルリを助けられないと想定していながらユートは、勇んで単身首都に向かう無謀を諫めず、望むままに挑ませたのだ。
ユートが頭ごなしに無理だと決めつけ、単独行動を危険だと諫めて制止したならば、リシアはユートを気絶させてでも一人で祭殿を飛び出していただろう。
だがユートは、意志を尊重して挑ませてくれたのだ。
それだけでなく保険をかけるように、ディアンが共に行けるための条件を整え、恐らくトルプの恋心を利用して協力者となるよう仕向けたのだ。
結果、ルリを助けられなかった。
挑んでみて、リシアはようやく無理だと悟ったのだ。
武術を習い、才能があると誉められて自惚れ、実際にその力で困難を乗り越えた成功体験によって、リシアは自分の力を過信していたのである。
客観的に彼我の力を見極められず、無謀な試みでルリを助けてみせると意気込み、いかなる忠告であっても聞き流して自分ならできるという幻想を抱いていたのだ。
判断の甘さと対応の幼稚さを悟り、リシアは愚かさに項垂れた。
「あの人――ユートには、何と言えばいいのでしょう」
「感謝すればいいだけだと思いますよ」
「そうね――」
釈然としない感情をなだめるように、リシアは微笑んだ。
そしてすぐに、表情を引き締める。
ユートの想いに報いるためにも、生き延びなければならないし、ルリもトーマも無事でなければならないと、リシアは強く意識する。
「ですから私も、最善を尽くさなければなりません」
「はい、リシア様」
「お嬢様を助けるためにトーマ君が全力を出せるよう、精紋の破壊を阻止します。力を貸してください、ディアン、いえ、キディナス」
「リシア様のお側にいる間は、ディアンと呼んでください」
「ありがとう。では行きましょう。ディアン」
「はい!」
だが、リシアが走り出して向かった先は、すぐ近くの避難民キャンプだった。
そこでは夜闇を払うために数カ所で火が焚かれている。
「ディアンは、火を煽って大きくできますか?」
「もちろんです」
風となって薪を拾い集めてくべたディアンは、風を吹き込んで火を大きくした。
寝静まった夜半だったが、異変に気付いた大人達が起き出して近づいてくる。
「ディアン、私の声を隅々の人まで届けられますか?」
「お任せください」
リシアはうなずきながら、焚き火の明かりに照らされた中央に立ち、待った。
「なんだ、あんたは?」
「一体何事だい?」
「夜なのに、食事の配給か?」
「火事か?」
起き出した人々が集まってくると、リシアはフードを取る。
夜闇に浮かび上がる焚き火の赤い光に照らされる中、リシアは素顔を曝したのだ。人々が息を呑む中、更に頭の後ろで束ねているコヨリを解いた。火の明かりを受けて赤黒く輝く髪が舞うように背に流れ落ちる。
「く、黒髪の魔女」
人々が驚き慌てるが、昼間に比べれば反応は鈍かった。
リシアは冷静な態度を保ったまま、人々を見渡した。
「違います。私は、ノイ・クレユから来たリシアと申します」
「な、何しに来た」
「事実を伝えに来ました」
「事実?」
「光の霊獣と共に救世の勇者が現れました。昼間王宮の丘の上で輝いた光がそれを告げる合図です」
民衆が息を呑む音が、火にくべられた薪が弾ける音に混じった。
「夜が明けたら、救世の勇者は精霊王の宿玉として取り込まれた少女を助け出しに行きます。そして精霊王をモッサの呪縛から解き放ち、祭殿へと戻すでしょう」
「嘘だ」
「ただ、そうならない可能性もあります」
「何だ?」
「ギデント街道を風の王宮へ向かって進むと、環状路との交差点で、モッサを信じる人々が地面を掘り返し、石積みを崩しています。ですがそれは、風の王が精霊王を留めるための仕掛けを破壊する事になるのです」
「精霊王を解放するためだと聞いたが?」
「もしモッサの呪縛に囚われたままの精霊王が解放されたなら、ギデント街道を中央大樹へと向かって進むでしょう。その際に再び暴風を巻き起こせば、この辺りは被害を受けます」
「いやいや、首都を破壊したのは風の王だ」
「そうだ。モッサ様は避難した我々を助けてくれているんだ」
「みなさんのおっしゃる通りかも知れません。ただ、精霊王が首都に向かって来た時のような惨事が、中央大樹へ向かう際にも起きないと考えるには無理があります」
「だからどうした?」
「夜が明けると救世の勇者は、世界を救うために風の王宮へ向かいます。その結果何が起きるかは誰にも分かりません。ですから、ここには危険が及ぶかも知れません」
「それで、逃げろと言うのか?」
「そう言って騙して、荒野で飢え死にさせるつもりだな、魔女め」
「逃げろとは言いません。ただ、ギデント街道から離れるべきだとは思います。ですが、私は精霊王を王宮に留める仕掛けを守りに行きます。それがうまくいけば、ここは無事でしょう」
「何が言いたいんだ、あんたは」
「何が正しい選択かは、私には分かりません。そして、夜が明けてから何が起きるかも、分からないのです。ただ、皆さんにとっての最悪の事態が起きるかも知れないというだけです」
「やっぱり、人を惑わす黒髪の魔女だ」
「何を信じ、どう行動するか、それは皆さんの自由です。ただ私は、皆さんの無事を願うだけです」
「あ? 何が言いたい? 何しに来たんだ?」
「私が言うべき事は、伝えました。あとは皆さんの思う道を歩んでください」
一礼して、リシアはゆっくりと歩き出す。
遮る者は現れなかった。
キャンプ地から街道に出ると、リシアは再び走った。
「次のキャップ地に行きます」
「リシア様、どうして考えを変えられたのです?」
「あの男――ユートは、頼みもしないのに私を助けるために尽くしてくれたと知りました。そうやって助けられた私が、言っても無駄だからと他に頼る術を知らない避難してきた人々を切り捨てはいけないのだと、気付かされました」
「リシア様!」
ディアンの声が弾んだ。
「嬉しいのですか?」
「はい」
「ですが、無駄かも知れませんし、ディアンが蓄えた精を浪費するだけかもしれないのですよ」
「大丈夫です。ボクは誰かを守るために存在している精霊ですから」
リシアは目を見開き、恥じらうように微笑んだ。
ディアンの想いの方が、ずっと大きいと知ったからである。
「私にできる事はすべてやります。ですが、お嬢様を助けるのが最優先なのは変わりません」
「はい。ボクがお手伝いしますから、少しでも助けられる人を増やしましょう」
「ありがとう、ディアン」
いつもより心地よい風がリシアを後押しした。
回復の森にある避難民キャンプを、夜通しリシアは巡った。
すべての避難民キャンプ地を訪れ、すべき事をしたとリシアは自負した。だが同時に、自己満足に過ぎないと自覚していた。
精霊王が解放されるとギデント街道沿いに暴風に被害が及ぶというのは推測に過ぎず、避難民達の反応は想定内だった。
それに、誰にも否定できない事実がある。
彼等が今日まで生き延びてこられたのは、ガガン・モッサのお陰だという事実である。
風の王は首都から退避するよう人々に命じたが、それは余りにも遅すぎたのだ。
結果彼らは、突然暴風に襲われ、衣食住のすべてと家族や友人を失った。水も食料もなく途方に暮れる彼等に救いの手を差し伸べたのは、間違いなく、ガガン・モッサである。
今日を生き延びる事に必死だった彼らは、モッサから食料が提供されたからこそ、明日も生き延びられると希望を持てるようになったのだ。
そうして彼らは、食料の配給に合わせて毎日のようにエニアス・エクストーモの演説を聴き、感化されていったのである。エクストーモは、風の王を貶め責任を押し付け、モッサの正当性を語り賞賛した。明日を生きる希望を得た彼等は、理不尽な現状を嘆く代わりに、怒りを生きる糧として目先の希望に縋り、不便な避難生活を始めたのだ。
彼等の怒りは、風の王に向けられた。
風の王が首都から逃げ出した事実があったからである。
だからこそ、祭殿に閉じ込められていた精霊王が、風の王に対する報復のために首都ユーシエスに現れたのだと信じたのだ。
風の王は、精霊王を祭殿に閉じ込め、その権威と力を利用してきたというのが、隠された真実だと納得したのだ。そして、精霊王を風の王宮に閉じ込めてしまった事実こそがその証拠とモッサが言えば、人々は疑わなかった。
だからモッサは、解放者なのだ。
精霊王を解放し、風の王によって自由を奪われていた彼らをも解放してくれると信じたのだ。
そんな彼等も、首都ユーシエス壊滅の被害の実態を知らない。
死者と行方不明者がどれほどかは、誰も知らない。
そして、モッサが何をしてきたかも、知らずにいる。
それでも助けられた事実を根拠に、彼らはモッサの正しさを否定しきれないのだ。
結果として、リシアが期待した成果は上がらなかった。
無駄な努力だったと思う心を慰めながら、彼等も残され森に来た人々のように気付くようにと祈るのだった。




