1-08 異
どれほどの時が経っただろうか。
意識が覚醒の領域に浮上する。
優途に、体の感覚が戻った。
風を感じる。
草の匂いが鼻孔に漂う。
指先に草と土の感触がある。
肌に感じる穏やかな温もりは、太陽にしては優しい。
優途はゆっくりと目を開ける。
視界はぼやけていた。
緩やかに目が慣れ焦点が合う。
草の中、埋もれていると知った。
優途は体を起こす。
草原が広がっている。
立ち上がって地平を見渡すと、遠く山が見えた。
遙か彼方まで見渡せるほど世界の全てが明瞭で鮮やかで、純粋だった。
優途は空を見上げた。
深く、どこまでも続いているような青空が続く。
雲は見あたらない。
優途は足元を見下ろす。
臑くらいの背丈の草花に埋め尽くされている。
豊かな色彩と色調を纏った草花が息吹く。
目にするすべてが、初めてだった。
それでいて、どこか見覚えがあるようでもあった。
ただただ、優途は眼前の景色に圧倒された。
「異世界、か?」
倒れていた場所の草花も既に起き上がっている。
生命力に溢れた世界だった。
既視感のある異質な世界を優途は見渡す。
こんもり丸く盛り上がった草の球が円周状に並んでいて、その中心に優途は立っていた。
ただ、空に太陽は見当たらなかった。
少し離れた場所に草に埋もれるように、梨詩愛が俯せに倒れていた。
ピナフォア・ドレスに防寒着を着てバックパックを背負ったままの姿だった。
優途は傍らに転がっているバックパックを拾い上げると、梨詩愛に近づいた。
「生きてるか?」
呼吸で僅かに草が揺れているのに気付き、優途は安堵の息を吐く。
傍らに膝をつき、肩を揺する。
三度繰り返すと、梨詩愛がゆっくりと目を開けた。
「ケガは無いか」
「え? はい。多分」
素直で可愛らしい反応だった。
これが彼女の本質なのだろう。
意識と記憶の混濁。
連続性の断絶。
感覚の困惑。
少し異なる体験が、知覚を惑わせているのだ。
梨詩愛はゆっくりと体を起こし、手で体に触れて状態を確かめている。
座ったまま周囲を見回し、まだ夢から覚めていないような表情を見せる。
一通り周囲を観察した梨詩愛から向けられた眼差しは、きょとんとしていた。
「外、なの?」
「君にはどう見える?」
「外ですけど」
「俺には、野外なのか、内なる世界の外側なのか、判断が付かない」
「何があったのです?」
「俺にもよく分からない。ただ落ちるという感覚があった」
「私もです。底知れぬ所に落ちていくような、それでいて浮いているような感覚でした」
「そこは一致している。二人で同じ夢を見ている可能性もあるが、俺は一瞬、別の場所を見たはずだが、気がついたらここだった」
「どういうことです?」
「分からん」
「あなたが何かをして、私を外に運び出したのでは?」
梨詩愛は自らの肩を抱き、おぞましい物を見るような視線を向けてきた。
体を触れられた可能性を想像したのだろう。
ようやく本来の調子を取り戻してきたようだと、優途は微笑んだ。
「そうしていたのなら、俺は困ってない」
「どういうことです」
「俺にもよく分からない」
優途は草の間に小石を見付けて手に取る。
立ち上がって肩の高さから落とす。
小石が落ちるまでおよそ〇・五秒。
もう一度繰り返すが、感覚的な落下時間は同じだった。
梨詩愛から変人を見る視線を向けられても優途は気にせず、腕時計を見た。
秒針は動いていないが、針は五時を過ぎて止まっている。
呆れたように梨詩愛が立ち上がって周囲を見渡す。
「でも、外ですよね」
「そう見えるが、昼間のように明るい」
優途は腕時計を叩き、耳に当てる。
どれほど時間が過ぎたかは分からないが、時計が止まった午後五時前後とすれば、太陽は山に隠れて見当たらないだけで、空が明るいのは納得できる。
だが、遠くに見える山肌は明るく、太陽の影になっているとは思えなかった。
「どうかしたのですか?」
「時計が止まっている。五時五分を指したまま、壊れたらしい。それに、夕方には見えないが太陽も見えない。かといって、感覚的に半日も気を失っていたとは思えない」
優途はスマートフォンを取り出して見たが、画面は黒いままで何の反応もない。
洞窟に入る際に電源を切っていたのだが、電源すら入らなかった。
梨詩愛もスマートフォンをポケットから取り出した。
「私のも画面が表示しません」
「壊れたのかバッテリー切れか、分からないな」
「誰かが洞窟の外に運び出してくれたのでしょうか」
「違うな。見たことのない景色だ。山並みも違う」
「どういう意味でしょうか?」
「俺たちは洞窟の女神の間と呼ぶ空間に入り、それから光に包まれ、落ちていく感覚がして、気付いたらここに居た。だとしたらここは、伝説にもある地下世界なのかもしれない」
「アガルタとか?」
「かもな。もっとも、科学的には地球空洞説は否定されているが」
「ですが、科学が世界の全てを解明し証明している訳でもありません。溶岩洞窟のように、地表近くの空洞は現実にあります。それに、よく見る地球断面図のように均一にマントルがあるというのは、仮説という名の空想です」
いつになく会話が弾み、優途は高揚した。
「その通り。科学とは、世界の事象を理解するための道具でしかない。観察と分析、仮説と証明によって世界の謎を紐解いていく学問。新発見とは気付きでしかなく、無から有を生じさせたのではない。だから、発見だ。発明も、発見だ。物理現象という法則の発見だ」
「くどい話は結構。それより、お嬢様は?」
梨詩愛は話を断ち切るように立ち上がり、スカートに付いた草を払った。
普段通りの彼女らしい反応に、優途は苦笑した。
ただ、当初の目的を失念仕掛けていた優途にとって、貴重な話題の転換であった。
「分からない。手掛かりは無い」
「では、急ぎましょう」
「何処へ?」
「どこって、お嬢様を助けにです。当たり前でしょう」
「目的は分かっているが、手掛かりがない。それで何処に行くんだ?」
「ここに居続けても、何も得られないでしょう。だからこそ、手掛かりを探すために、まずは行動しないといけないのです」
「それには同意するが、少し待ってくれ。重要なことがある」
闇雲に歩き回って迷子になるのは困ると優途は考えていた。
何事においても未知の問題に遭遇したならば、現状を把握して課題を見いだして一つずつ答えを出していく必要がある。
未知でも既知でも現在位置を起点としたマッピングをしようと考えたのである。
優途は自分のバックパックから、コンパスを出した。
針を回して何度か止まる位置を確かめるが、毎回違う方角を指してしまう。
「コンパスが使えないから、方位が分からないな」
「遠くに山が見えるのですから、目印になるでしょう」
「そうだな」
優途はコンパスを仕舞い、スケッチブックと鉛筆を取り出した。
「何をする気ですか? まさか暢気にスケッチですか?」
「もちろんスケッチだ。己を知り敵を知れば、というのが重要なら、今知るべきは己のこと。どこかに向かうには、今どこにいるかを知ることが大事だ」
「だからって、悠長に絵を描くなどあり得ないでしょう」
「落書き程度さ。絵画展に出す腕もないし」
「仕方ないですね。では私が上着を脱いで畳んで仕舞うまでに済ませてください」
「努力しよう」
優途は周囲の山麓の形状を描き、時折、動かなくなった時計を視線の前に置き、メモリを指標として目測でそれぞれの山の山頂までの角度を書き記す。アナログ時計の文字盤にある一分は、角度にすれば六度である。目算で六分割して、おおよそ一度の精度で角度を測ることができる。
優途は三角関数を暗算できないが、計測しておけば後からどうにかする余地があると考えていた。
言うなれば保険である。
梨詩愛の態度も、少し普段と違っていた。
未知の領域に立っている事実を前に、少しは気遣いをしているようであった。
というのも、上着を仕舞い終えても、優途のスケッチが終わるまで文句を言わなかったからである。
「何を書き込んでいるのですか?」
「測量のまねごとだ。三角法って、習っただろう?」
「ああ」
梨詩愛は納得したようにうなずいたが、すぐに無駄だと蔑むような目を優途に向けた。
だが、真剣な表情でスケッチを続けるだけで無反応な優途に呆れたのか、あるいは見飽きたのか、梨詩愛は視線を巡らせ、周囲を歩き回っていた。
五分ほどしてスケッチブックを閉じた優途は、こんもりとした丸い草の前にしゃがんでいる梨詩愛を見た。
「どうかしたのか?」
「丸い草の下に、紙が埋められています」
「紙? そういえば、女神の間で壁に貼られていた紙を君が剥がしたら、急に光り出して、気付いたらここに来ていたな」
「それはつまり、私が悪いとでも言いたいのですか?」
梨詩愛は怒ったように口調を荒げた。
糾弾されたと感じ、理不尽さに反抗しているのだ。
過剰な自己防衛の反応だが、その根底にはトラウマとなる心の傷があるのだろうと、優途は推測していた。
「そうは言ってないが、原因と結果の仮説だ」
「同じ事でしょう」
「それより、剥がした紙を君はどうした?」
「さあ、その後は気付いたらここにいましたから」
梨詩愛が虚空を見つめた。
その間に優途は周囲を見回す。
丸く草が茂る箇所が円周状に点在している。
その中心にいたことから、何者かの作為が込められているように優途は想像していた。
優途は丸く茂る草の一つに近づくと、しゃがんで草を掻き分ける。露わになった地面の土を慎重に払うと、埋められていた紙が見えてくる。
罠か結界か。
明らかに人為的な仕業だと確認した優途は、スケッチブック開き、茂みの位置関係の記録を始めた。
配置に意味がある可能性を想ってのことである。
「あ!」
唐突に発した梨詩愛の声に、優途は鉛筆を持つ手を止め、振り向いた。
彼女はバックパックを降ろし、上着を取り出してポケットを探っていた。
「どうした?」
「思い出しました。上着のポケットです。ほら、ありました」
梨詩愛が取り出した紙を自慢げにひらひらと振る。
それは、洞窟の壁から剥がした紙である。
彼女を才色兼備にして冷静沈着な女性だと思っていた優途は、意外にも子供っぽい一面を持つ意外性を新鮮に感じた。
驚きを隠した優途は、微笑みも消した。
認識のすれ違いと誤解の根底に、参観日の過ちが根ざしていると悟ったからである。
「何か仕掛けがあるかも知れないから、大事に持っていてくれ」
「嫌よ。それならあなたが持ってなさいよ」
紙を持った梨詩愛が手を突き出したまま優途へと迫ると、不意に、一陣の風が吹いた。
梨詩愛のスカートが広がり、抑えようとした手に持っていた紙が吹き飛ばされる。
「あ、ちょっと待ちなさい」
梨詩愛が飛ばされた紙を追いかける。
「止まれ、梨詩愛!」
梨詩愛が踏み出した足は、地面に埋もれた紙を踏みにじっていた。
突然足元が揺れた。
またどこかに飛ばされるのかと優途が身構え、梨詩愛は驚いて飛び退いて警戒する。
突如、周囲にあるすべての丸い茂みが盛り上がり、地面を割って蔦が空に向かって生えて行く。
蔦が檻のように伸びつつある状況に、優途は焦った――。