8-04 異変と来襲の仇敵
失敗すれば人生が終わる。
そんな勝負を挑んだ経験が、ユートにはない。
結婚の承諾を得るために義父に会った時でさえ、拒絶されても人生の終わりではなかった。その時には既に、マユと想いが通じ合っていたからである。
マユにプロポーズして断られても、絶望することはなかった。
嫌われていない確信はあったし、多少なりとも好意を抱いてくれている自信があったからである。
障害となるのが家柄の違いであり、それを乗り越える覚悟をすればいいだけだった。
だが、今回は違う。
失敗は時間を浪費させる。
時を失えば、聖剣の鞘と柄を作れなくなる。
それがなければ、トーマは死ぬ。
ルリも助け出せなくなる。
リシアは悲嘆する。
そして、世界はモッサが望む方向へ導かれる。
重責のすべてを、ユートが背負っているのだ。
全力で人に頼り可能性を広げても、物として具現化するには収束させ締めくくらなければならない。
要点を押さえるためにも、ユート自身には本質の理解が欠かせなかった。
夜、境界の淵に立ち、ユートは水を張った水槽に、鉱石を砕いて作った染料をたらし、油を水面に置く。
水に馴染む染料が水と混ざらずに浮く油によって区切られるように模様を描き出す。
染料に含まれる鉱石に精が集まり、微かに光って見える。
「カクレ、頼む」
「ワカッタ」
闇の中から手が伸び、染料で描かれた模様を精紋の形に整えていく。
それをユートは、プロソデアが作ったガンピシモドキに写し取る。
それを何度も繰り返す。
ユートの作業は夜通し続くのだった。
境界の淵から、夜闇が遠退いた。
また一日が過ぎ去ったのだ。
そして夜の間の成果が、テーブルの上に置かれている。
向かいの席に座るユートは、守人がガンピシモドキを手にして評価する様子を、緊張の面持ちで見つめている。
何枚ものガンピシモドキを熱心に見比べているその姿は、真剣であった。
「全体としてはかなりいいようですが、ばらつきが大きいです」
「これでもダメか――」
ユートは拳を握り締め、歯を噛み締めた。
闇の精霊カクレの力を借りて作った、渾身の出来だとユートは自負していたのだ。
それでも足りなかった何かを探して、ユートは頭の中で工程の見直しを始めた。
「着実に仕上がりは良くなっていますよ」
「努力して誉められるのは、せいぜい小学校に上がるまでだ。その後は段階的に成果が求められる。今の俺に求められているのは完璧な完成品だ」
「厳しいのですね」
「こっちの世界だと違うのか? 俺たちの世界だと社会に出れば、成果なき努力は無駄として、評価されないんだが」
「すみませんユート殿。わたくしそうした世の中の仕組みは存じ上げないのです」
「そっか。王女様だったね。悪い」
「世間知らずなのは自覚しています。ただ、二度と知る事もないという現実を淋しくは思ってはいるのですよ」
「そうだな。経験の総取りはできないから、自分の手の届く範囲で何かを見付けて積み重ねるしかない」
「そうです」
「だから、今はプロソデアと君と俺は、共同作業をしている。世界を救うためにね」
「はい。すごく楽しいです」
「それで、この紙は何が悪い? 紋様が歪んでいたか?」
「それもありますが、精の流れが途中でぼやけているようです」
「精紋に沿って精が流れないということか?」
「そうです」
守人が周囲の精を集めて精紋に流し込むと、途中で薄れた精紋の辺りで焦げたように変色し、そこからガンピシモドキは枯れたように茶色くなって朽ち、ボロボロと崩れ落ちる。
テーブルの上に落ちたガンピシモドキの破片を摘まんだユートは、指先で揉んだ。
破片は柔軟性もなくバラバラと砕け灰のようになる。
「今の技法が良くないんだろうな」
ユートが用いる墨流しという技法は、マーブリングと同様である。
水面に描いた模様を紙に写し取る技法である。
染料と染料を油の膜で仕切って線が混じらないようにするのだが、微細な線を正確に描くのは自然現象任せでは不可能である。
そこでカクレの力を借りて模様を整えるのだが、闇の精霊は触れた精を吸い取る性質があり、染料に含まれる精を通さない鉱石にも影響を与えるようだった。
ただ、一度プロソデアの精霊に同様の作業を試してもらったが、他の精霊では精紋の影響に敏感で、紋様を描けないのだ。
「朝餉にしましょう。休憩も重要ですから」
「そうだな」
ユートは、守人の後に付いて断崖から降り、屋敷へ戻った。
いつものように守人は別の部屋で食事をする。
プロソデアは既に素材採取のために出かけた後であり、ユートは一人で食事を採った。
リビングには、試作の鞘と柄が置かれている。
失敗したガンピシモドキを使い、プロソデアが接着する工法と強度を試してくれているのだ。
試行錯誤の結果、今は外枠となる型を作り、それに紙を敷き、重ねていく方法である。
食後、ユートは試作品を手に取って眺めた。
それから再び断崖の稜線へと登った。
石のテーブルを背もたれにして椅子に座り、腕組みをして虚空を見つめる。
想い描く漠然とした理想と、現実に作り出せた物を、頭の中で比較して俯瞰する。
両者の間には暗黒の闇が横たわり、両者を結ぶ道筋は一ミリ先さえも見えない。
下の試し平から聞こえるトーマとフラグミが石の剣を交える修練の音を聞きながら、ユートはいつしかまた、うつらうつらと夢と現をさ迷い始めていた。
夢は混沌とする記憶。
溺れるように藻掻きながら、暗黒の泥の中で足掻く。
精紋の図柄、守人のアイデア、技法の改善、様々な想念が混じり合い、新たなアイデアが産まれては消えて行く。
茶器が石のテーブルに置かれる音に意識は現実に引き戻され、ユートは目を開けた。
音のした方を振り向いたユートの視線先には、守人がいつものように湯を沸かす姿があった。
ティーポットに茶葉を入れ、緩やかに沸いた湯を注ぐ。
精の流れを導いて、茶葉を湯の中を泳がせる。
少し置くと、湯は黄金色に染まる。
それを守人は、カップに注いでユートの前に差し出した。
ユートは座る向きを変え、カップを手にした。
いつもと違う香りに一瞬手が止まったが、すぐにユートは少し口に入れる。
適度な渋みに甘みがある茶であった。
「疲労回復の効果があります。少しお疲れのようでしたので」
「気を遣わせたようで、悪いな」
「いいえ。わたくしは楽しいのです。こうして人と毎日話せるのも十七年ぶりですから」
「屋敷に側仕えの女性が居たはずだが?」
「あの者たちは社殿に宿る精霊です。代々の守人の世話を生き甲斐とする精霊なのです」
「驚いた。俺は人にしか――」
突然守人は立ち上がり、境界の園を見下ろす縁へと走り眼下へと視線を向けた。
「フラグミからの声が途絶えました」
「声?」
正確な意味が分からなかったユートにも、明確な異変は感じた。
体がざわつく感じ。
この山々に根ざすフラグミを成す精が乱れた波動であった。
「わたくしはフラグミと、いつでも話ができるのです」
「常にインカムを付けてる感じか」
「インカムというのは存じませんが、この山々全体がフラグミですから。わたくしたちは、フラグミの中にいるとも言えます」
「つまりフラグミに何かあったのか?」
「信じがたいですが、そう思います」
「やばそうだな」
ユートも席を立ち、境界の園を見下ろした。
試し平は見えないため、状況が分からない。
周囲の山々と広大な樹海を見渡しても、プロソデアらしき姿は見当たらない。
「プロソデア異変が起きた。今どこにいる?」
ユートは叫んだ。
祭殿の地下迷宮の時のように、ディミが声を届けてくれるのを期待するが、返事はなかった。
「ディミ、プロソデアと連絡を取れないのか?」
「すみません、ユート様。今はできません」
「そうか、ならどうするか――」
「ユート殿、誰かが園に登ってきました」
守人は境界の園へと視線を巡らせ、指さした。
丸池の近くを動く小さな点が見える。
ユートはすぐに単眼鏡スコープを出して覗いた。
「見覚えがあるローブ、ゾネイアか?」
「遠目でしたので確信が持てませんでしたが、ゾネイア先生なのですね。ですがなぜ――」
「トーマが案内役を頼んだとは聞いたが――まさか聖剣を?」
「ゾネイア先生では祠の扉は開けられません」
「ならいいが――」
「そうとも言えません。フラグミが許さなければ園には立ち入れませんから」
「やはり異変か」
「プロソデア様が来ました」
守人の弾む声には全幅の信頼が込められているように、安堵の韻を含んでいた。
ユートが彼女の視線の先を探した。
向かい側の山の方向に、小さな点が見える。
見る間にその姿は大きくなり、翼を広げた獣車だと分かる。
飛行してきた獣車が境界の園に近づくと、御者台からプロソデアが飛び降り、精霊に抱えられて試し平へと降下していく。
崖の先で姿は見えなくなり、御者を失った獣車は精霊に支えられて園に着陸し、滑走しながら速度を落としてゆく。
稜線の麓近くまでかかって獣車を停止させた精霊達は、すぐにプロソデアを追って断崖から試し平へと降りて行く。
「何が起きたか分からないが、もう大丈夫そうだ」
「はい」
ユートは状況が見えない事に焦りつつ、プロソデアを信じ、トーマが無事であるように祈った。
境界の園から試し平へと落ちる断崖の縁が煙るのが見えた。
砂煙である。
ほぼ同時に園の草花が大きく揺れる。
猛烈な風が試し平から吹き上げて来た。
その直後、大きな精霊が断崖から姿を現した。
その腕に、黒服の男が抱えられていた。
シルクハットをかぶり丸いサングラスを掛け、手に杖を持つ男。
ガガン・モッサだった。




