7-12 眠れる精霊の家
クロタフォ公爵の首都屋敷。
その場所が、残され森となっている。
森の中を、リシアと二精霊と三騎士は屋敷を目指して歩いていた。
無秩序に育った大木をラスピが倒し、下草の藪をディアンが払う。
進み続けて程なく、水面が見えた。
広大な湖のように広いが、人工的に作られた庭池だった。
対岸に広がる森の上には、わずかに赤い屋根が見える。
「迂回するしかないですね」
「オレが筏を作ろう」
「筏で渡るのは無謀です。狂った精霊が起こす強風で波が立ち、筏は転覆させられます。水の精霊と契約していれば別でしょうが」
「平気ですよトルプ殿。今のボクなら、この池の水面を抑える力だってありますから」
「そこまでとは――」
「決まりですね。ラスピ、お願いします」
リシアの指示を受けると、ラスピは嬉しそうに飛び跳ねながら、筏作りに取りかかった。
岸近くの大木を折って並べ、蔦を縄代わりにして縛り、まとめる。
一日あれば船も造れるのにと悔しそうに言いながらも、ラスピは手早く筏を作りあげたのである。
リシア達はそれに乗って対岸へと向かった。
途中で周囲の森から風が起きて水面を揺らそうとしたがすぐにディアンが抑え、何の問題も起きず対岸に着いた。
リシア達は大木の根に覆われて壊れかけていた桟橋から岸へとあがり、ディアンが広げた藪をくぐる。
抜けた先は、道だった。
枝葉や下草が刈り払われている。
緑のトンネルのようであった。
舗装のために敷かれた石は急成長した大木の根によって下から押し上げられ凸凹しているが、それ以外は整備された道と言える。
何者かの外的な力が加えられた証拠だった。
そして森の雰囲気は殺伐とした異常性はなく、穏やかである。
「先客がいたようですね」
リシアは緑のトンネルを見渡した。
道は弧を描き続く先は見通せないが、一方は森の外、もう一方は屋敷へと続いている。
「それによって、狂気の精霊は追い払われたようです」
「やはり精霊ですか。二人は感じましたか?」
「ボクは気付きませんでした。狂気の精霊に追われていた時かも知れません」
「オレも気付かなかったぞ」
「そうですか」
リシアは道端に落ちていた枝を拾った。
「折れた枝の断面はまだ新しいですし、屋敷に向かう方向に向かって枝が落ちています。中からではなく、外からですね」
「リシア様、今はそのような精霊の存在は感じません」
「森の中では感覚は鈍るが、オレも感じないな」
うなずいてリシアはトルプとその部下を見た。
「どう思います?」
「リシア殿の観察眼に感服致しました」
「いえ、そうではなく――」
「ご安心ください。この身はリシア殿の盾となります」
「隊長の言う通りです。騎士の名誉に懸けて。なあ、ロティタ」
「もちろん。隊長の下、セバステ共々最後まで戦ってみせましょう」
「どうも」
リシアは小さくため息を吐き、屋敷へと向かう道の先に視線を転じた。
「ディアン、ラスピ、警戒しつつ、急ぎます」
二精霊と共に、リシアは凸凹道を進む。
虫や鳥の鳴き声がそこかしこから聞こえるほどに、この周辺には自然の秩序が戻ってきていた。
しばらく進み、緑のトンネルの先が明るくなった。
屋敷があるはずのその先には、こんもりとした森が佇んでいる。
そう見えたが、違った。
屋敷は、木々に飲み込まれていたのだ。
屋根を突き破って木が生え、あるいは建物の壁を育ちすぎた枝が押し崩している。
何十年も打ち捨てられた廃墟にしか見えなかった。
屋敷の屋根を持ち上げている大木もあった。
精霊王が首都に現れてからの数十日で起きた変化がこれである。
大量の精が流れ込んだだけでなく、森を育む風の精霊が狂気に囚われたことで、森は無秩序に成長し人の営みを破壊し尽くす。
タタ・クレユとは、そういう世界だった。
元の世界では想像できない異常性にリシアは改めて脅威を感じ、精霊王に囚われたルリが無事でいられない可能性を想像してしまう。
だが、三騎士の視点は違った。
「精霊伯爵は屋敷を守る精霊と聞いていたが、これでは役目を果たしていないようだ」
「これを公爵が知れば、契約解除ですかね」
「セバステ、さすがにそれはないだろう。今回は精霊王が来るという異常事態だ。どのような精霊であっても抗えない。むしろ森を守ったと賞賛されるべきだ」
「ですが隊長、この有様を見ては、訪問した精霊も呆れて帰ったのではないですかね」
「ありえるな」
リシアはちらと三騎士に冷ややかな視線を向けた。
彼等とは価値観も違えば、常識も違う。
何よりも目的が違うのだと、リシアは改めて認識したのだ。
ルリを助けるというリシアにとっての第一の目的は、彼等三騎士にとっては副次的な要素でしかないと教えられた気がしていた。
不満を口にしたところでそれは変わらない。
無駄話と思える雑談に苛立ちを感じるが、リシアは言葉を掛けずに前を向いた。
彼等三騎士に抱いた不満や苛立ちが、ルリを助けられずにいる現状に対する自分の感情の転嫁に過ぎないとリシアが気付いたからでもある。
言葉や暴力で発散すれば一時的に苛立ちは解消される。
だがそれは、八つ当たりでしかない。
何の益もなくむしろ関係を悪化させる悪手であったと、すぐに気付いて後悔することになるのは分かりきっていた。
停滞によって纏わり付く負の感情から逃れるためにも、やはりリシアは進むしかなかった。
二精霊を伴ってリシアは、正門の跡を抜けた。
前庭に芽吹いて育った大木の間を抜け、役割を失った屋敷の玄関ドアを開けて中に入る。
ディアンは周囲に向けて微風を送った。
屋敷の隅々を巡った風が戻ってくる。
風の精霊が風を使って行う周辺探索であった。
この森のように精が満ちた領域でなければ使えない技であった。
「リシア様、屋敷に人の気配はありません」
「精霊伯爵は?」
「もっと奥に大きな精を感じますが、反応がありません」
「行ってみましょう」
屋敷の中は、想像よりも原形を留めていた。
床を割り屋根を突き破って育つ大木もあるが、屋敷全体を倒壊させるほどではなかった。
リシアはディアンに導かれるままに裏手にある庭園に出た。
向かう先は、庭園を囲む生け垣を越えた先であった。
剪定されずに壁のように茂る生け垣をディアンが押し広げ、道を開いた。
明らかに他とは異なる空間に出た。
直径にして百メートル。
中心に、塔のように聳える大樹がある。
森の中で見たどれよりも太く逞しい。
範囲の下草は、低く刈り揃えられていることから、無秩序な森の生育から守られているのが分かる。
「ディアンよ、どれほどいる?」
「たくさん。でも、怯えたように隠れている」
「精霊ですか?」
「はい、リシア様。おそらく、この大樹に宿る精霊伯爵を慕う精霊達です」
「この大樹が精霊伯爵の宿玉――御神体のようなものですね」
異様なのは、大樹の根元には瘤のような膨らみがある事だった。
高さ五メートルほどあり、蛸が獲物を掴み取るように、何本もの太い根が何かを覆っているためにできた膨らみである。向かって右側だけにあり、その根には異常なほどびっしりと蔦が絡みついた。
リシアは近づいて、根の隙間から中を覗いた。
根の内側に古びた小さな家が、無傷のまま残されていた。
大樹はこの家を護っているようであった。
ディアンが風となって大樹を一周してリシアの側に戻った。
「精霊伯爵は眠っているようです」
「オレが叩き起こしてやろうか?」
「失礼になりませんか?」
「地の精霊であるオレがここまで近づいても無反応なのだから、外界との繋がりを断っているのだ」
「極度の引きこもり状態でしょうか」
「狂気に侵されないよう、深い休眠状態に入ったのでしょう」
ディアンの言葉にうなずいて、リシアは更に大樹に近づいた。
瘤のような根に絡みつく蔦が、一箇所だけすだれのように垂れ下がっていた。
リシアが手に取って見た蔦の断面は、斬られたように鋭かった。
「リシア殿、触れてはなりません。精霊伯爵を怒らせてしまうかもしれません」
下草を踏みしめる足音と共に、トルプがリシアの隣に立った。
「分かっています。それより、この古い家は何なのでしょう」
「精霊伯爵にとって大事な、思い出かと思います」
「思い出ですか。不用意に触れてはいけませんね。ですが、この蔦は誰かが斬ったように見えます」
「どれ――」
トルプが蔦に近づいて観察しようとすると、場所を空けるようにリシアは隣の根に向かって歩いた。
「先客が、精霊伯爵を起こそうとしたのでしょう」
「蔦を斬ったのは、剣だと思いますか?」
リシアを追うように歩み掛けたトルプは、足を戻して再び蔦の断面に視線を戻した。
「そう見えます」
「こちらの蔦は斬られていません。起こそうとしたにしては、中途半端ではありませんか?」
「狂気の精霊に襲われて逃げ去ったのでしょう」
「風の騎士なら逃げるでしょう。なあロティタ」
「精霊王との戦いで契約精霊を失い、代わりに精霊伯爵を得ようとして、追い払われたというのが真相だろうな」
「それでは道を覆っていた枝葉を払った存在の説明ができないぞ」
「では隊長。こういうのはどうです。風を読むのに長けているだけに、モッサに寝返り分霊をもらった風の騎士という説です」
「モッサの分霊は自我が乏しいと聞いたが、それならば狂気の精霊に取り込まれる恐れがある。それを恐れて早々に逃げ去ったというなら、辻褄が合うな」
「ここに来て逃げ出すようなら、モッサに寝返った風の騎士が分霊を得ていても、恐れる必要はありませんね」
「我ら天の騎士の精鋭ならば、契約精霊がなくとも、蒙昧な精霊には負けはしません。安心してください、リシア殿」
聞くに堪えきれず、リシアは小さく溜め息を吐いた。
そして誤魔化すように自嘲する。
三騎士の言葉の節々から、侮蔑の感情が滲み出ていた。
天の騎士は、風の騎士を下に見ているのだ。
しかも風の騎士を貶める物語を、勝手に創作している。
仮に天の騎士がエリートで、技能や知能において優れているのが事実だとしても、その精神性は幼稚だった。
憶測に基づく中傷に辟易したリシアであったが、正面から向き合って彼等を咎めようとはしなかった。
批判できるほどリシアも潔白ではなく、似たような行いをしていたと気付いたからである。
少なくともあの男に対しては、どんな事実であっても、解釈を歪めて悪意が裏にあると断定してきたのだ。
自分の醜さに気付いたリシアは、目を背けるように来た道を振り返った。
生い茂る藪の上に見える崩れかけた屋敷の屋根が見える。
今はただルリの救出という目的に専念する事で、気付き欠けた真実から目を逸らしたのである。
「屋敷に戻り、王宮精紋についての文献を探しましょう」
「流石リシア殿。私には思い至りませんでしたが、公爵ならば、王宮精紋に関する記録を残しているかも知れないですね」
「私はまだ文字が読めませんから、頼りにしています」
「お任せくださいリシア殿。では、セバステ、ロティタ、我らのメンツに掛けて探し出すぞ」
トルプは息巻くように二人を連れ、勇むように藪を越え、壊れかけた屋敷へと向かっていった。
ふとリシアは、トルプの言動に違和感を覚えた。
そこには善意よりも好意、しかも特別な好意が動機となっていると思えたのだ。
あの男は「常套句」だと評した。
それが単なる妄言ではなかったとすぐに認められるほど、リシアは素直ではなかった。だが、気負い偉ぶって見せるトルプの姿には、憐れむほどの痛々しさがある。
「自惚れたくはないですが――」
視界から見えなくなった三騎士を追って、リシアも二精霊と共に屋敷へと戻った。
何十部屋とある広い屋敷の中を探しまわっても、書物があったのは、書庫のような部屋だけであった。
そこには既に三騎士がいて、書物のページをめくっている。
そこにあるだけでも膨大な書物の中から、王宮精紋に関する記述を見付けるのは、簡単ではない。
かといって、リシアに出来る事は少なかった。
「リシア殿、しばしお待ちを。必ずや王宮精紋についての記述を発見して見せましょう」
「書物が多すぎるようですが――」
「王立図書館に宿るような司書精霊でもいれば楽ですが、しかし比べればこれしきの書物、調べ尽くして見せます。リシア殿はその間疲れを癒してください」
「では、頼みます」
リシアは三騎士が書物を調べる部屋を出たリシアは、力強く廊下を踏みしめながら歩いた。
「でもお嬢様の苦しみを思えば、休んでなどいられません」
足を止めたリシアは、壊れかけた階段を見上げた。
「屋根に登ります」
二精霊に支えられて二階に上ったリシアは、バルコニーに出て、ラスピを踏み台にしに、ディアンの風を受けて屋根に登った。
正面側は二階建てで奥は三階建てとなっている。
屋根を伝いながら敷地を見て歩くと、屋敷の横手に木が生えていない開けた空間があった。
「ディアン、あれは何でしょう」
「畑です」
「どうしてあそこは残っているのでしょう」
「精霊伯爵を慕う精霊が守っていたようです」
「あの大樹を中心としてこの周辺に被害がないのは、それが理由ですか」
「そのようです」
「共に戦ってくれる精霊はいないでしょうか」
「無理でしょう。昨夜現れた精霊が、一番力のある精霊だったと思います。そうでなければ、ボクたちが動き回るのを見咎めて姿を現していますから」
「協力を求めるには、精霊伯爵に起きてもらうしかないですか」
「あまり期待できません」
「そうですか――」
リシアは屋根の上から大樹のてっぺんを見上げた。
残され森の木々の先端から一段抜き出た大樹である。
「そう言えばディアンよ」
「なんだい、ラスピ」
「精流脈の流れが減っているようだが、気付いていたか?」
「ボクたちが地中に閉じ込められている間に、この森に流れていた精流脈の一部が王宮へと引き込まれたせいだよ」
「やはりな」
「そうなのですか?」
「あ、すみませんリシア様。言い忘れていました」
「いえ。モッサが引き込もうとしていたのは分かっていましたから。守護精霊を強化するつもりなら――」
後から来たトーマの妨げとなって守護精霊が立ち塞がり、ルリを助けられなかった場合を想像してしまう。
その場合、無謀に挑んだ行為を、リシアは生涯悔いるだろう。
「だがそのお陰で、大量の精を浴びて酔った精霊達も、醒めてきたようではある」
「ラスピ、たまにいいことを言う。それでこちら側は精霊伯爵を慕う精霊達が勢力を取り戻し、昨日ボクたちが入った側に狂気の精霊が追い立てられたから、より殺気立っていたんだ」
「たまにとは余計だが、そうなると、じきに精霊伯爵が目覚めるだろうな」
「もしそうなら、もう一度行って、呼びかけてみましょう」
リシアと二精霊は、屋根から裏庭へと飛び降りた。
歩きながらリシアは考えていた。
「どうしたのです、リシア様。精霊伯爵の起こし方を悩んでいるのですか?」
「それもありますが、精霊の力を合わせれば、精霊王からお嬢様を助け出せるようになるのか疑問に思ったのです」
「難しいと思います。まだ契約精霊を失っていない風の騎士団が精霊王の進行を留めようとして、出来ませんでしたから」
「対抗できるとすれば我らが地の精霊王だが、宿玉として取り込まれたのが人間でなかったとしても、取り出せはしないだろう」
「そうなるとトーマ君、いえ、救世の勇者を待つしかないのかもしれません」
「リシア様、それでは――」
「だからと言って、何もせずに待ちはしません。そこで思うのですが、モッサに従う人達が――」
唐突に、森がざわめいた。
そして静まりかえる。
鳥や虫が鳴くのを止め、風が吹き森が揺れた。
張り詰めた雰囲気の中、喧騒のような人の声が遠くから微かに聞こえた。
「何です?」
「リシア様、大樹の方です」
「何かが暴れているようだ」
「行ってみましょう」
リシアは二精霊と共に駆け出し、裏庭を突っ切って大樹の前に出た。
どこから現れたのか、無数の風の精霊が飛び交っている。
男女四人の若者が大樹の根に、蔦によって縛り付けられ、抗議するように風で締めつけられている。
若者達の顔は青ざめていた。
「ディアン、ラスピ、あの人達を助けます」
ディアンが風の精霊を遠ざけると、リシアは駆け寄って蔦を斬って捕らわれた若者を解放した。
ラスピが地面を抑え地中から生え出ようする蔦を封じ、四人を担いで大樹から離れた。
縛られて圧迫されていた若者達は、解放されて呼吸ができるようになり、喘いだ。
「他にも居たか。儂の庵を荒らす者よ」
声のした方をリシアが見上げた。そこには、大樹の前に長い髪に長いヒゲを伸ばした、ソクラテスの石像のような風貌をした精霊の姿があった。
「あなたが精霊伯爵ですか」
「儂の尊きを穢す者に答える名はない」
リシアは助けた四人を見た。
「あなた達は、何をしたのです」
「あの小屋に入ろうとしただけだ」
「それはまずいですね」
「使えそうな小屋を探していただけなのに、どうして?」
「誰であっても、他人の大切な物を踏みにじる権利はありません。謝りましょう」
「問答無用!」
精霊伯爵が、鞭のように蔦を振り払う。
「ラスピ!」
「承知」
ラスピが強固な体を盾にして、鞭の蔦を受けた。
「地の精霊とは、こしゃくな」
「待ってください」
叫ぶリシアに、鞭が飛ぶ。
ディアンが強烈な風を起こすと、蔦の鞭が吹き払われ、大樹に巻き付いた。
「なんと、強い風を放つ精霊か」
精霊伯爵は大樹の太い枝の上に逃れた。
「リシア様を襲うなら、容赦しないぞ」
「その大樹、根から掘り返してやってもいいのだぞ」
「ディアン、ラスピ、やめなさい」
身を盾にして立つラスピの背後から出て、リシアは精霊伯爵を見つめた。
「精霊伯爵、争う意志はありません。話をしましょう」
「ですがリシア様を殺そうとしたのは赦せません」
「そうだな。完全な殺意があった」
「それでも二人のお陰で私は無事です。ですから精霊伯爵、話をしましょう」
「――お前さんは何者かね」
「私はリシアと申します。ノイ・クレユから来ました」
「見慣れぬ黒髪だと思うたが、ノイ・クレユからとは珍しい」
「まずは、この人達が不用意にその小屋に触れようとしたことをお詫びします」
「リシアと言ったか。お前さんの部下か、その人間どもは」
「いいえ」
「ならばなぜ、お前さんが謝る」
「同じ人間として謝るのです。無知であれば私も同じ行いをしていたでしょう」
「で、その者らは詫びぬのか」
「ええと、すみません」
「大切な物とは知らなかったのです。申し訳ない」
「ごめんなさい」
「どうか、赦してください」
「ううむ。素直な若者だな。悪い人間ではないようだ」
若者達が安堵の息を吐いた。
「だが、他にも儂の領地に踏み入った者がおる。許し難きことだ」
不意に風があらゆる方向から吹き抜けた。
知らぬ間に、周囲の茂みや木々の間に無数の精霊の姿が見える。
それぞれが思うままに「出て行け」「立ち去れ」「あっちいけ」と発する言葉が風となって飛び交う。
「それは――行く当てもなく、食べる物も雨露を凌ぐ場所も無い避難民です」
若者達は怯えながらも、懸命に訴えている。
精の流入が減り狂気の精霊が減ったのを知った人々が、避難場所を求めてこの残され森に入ってきたのだとリシアは察した。
「精霊伯爵は、この周りがどのようになっているか、ご存じないのですか?」
「知っている。儂はこの領地を守る者だ」
「人が住めないくらい荒れ果てたのもご存じなのですか?」
「なに?」
「どうぞ森の外の様子を御覧ください」
「うむ。よかろう」
風となって枝葉を揺らし、精霊伯爵が空に飛び上がった。
「なんと、どういうことなのだ!」
ザザザッと大樹の枝を何本かへし折りながら地に降りた精霊伯爵の元に、何体かの精霊が近寄って風の声を囁き合う。
「事情は分かった」
「この惨状を御覧になり、精霊伯爵はどう思われるのですか」
「儂の領地は無事であるのは、幸いだった」
「それだけですか? この世界を守るために、力を貸してください」
「無理だな。精霊王に誰が抗えようか」
「ではせめて、協力してください」
「お前さんが世界を救うとでもいうのか?」
「救世の勇者が来ます」
「そのような人間がいるなど、信じられるか」
「勇者とは、困難に挑む勇気を持つ者です。何もしないで閉じこもって隠れているだけでは、世界は救われません!」
リシアの言葉は、精霊伯爵へのあてつけだった。
挑発でもあった。
偉ぶるような誇りがあるなら、何もせずに内に閉じこもっていたのなら、少しでも手を貸したらどうかと煽ったのだ。
「うぬぬぬ。だが、儂はこの領地から離れられぬ」
「では、家を壊されて行く当てのない人々を保護してください。人を助けるのも、世界を守り救う事になります」
「ならぬ。この屋敷を守るのが、儂と公爵との契約だ」
「壊れた屋敷、荒れ果てた庭。それらをあなたは、人の力を借りずに元に戻せるのですか」
精霊伯爵は沈黙した。
大樹の周りを浮遊し、三周して元の場所に戻ると、リシアに顔を向ける。
「ノイ・クレユから来た黒髪の美しき者よ。お前さんが勇敢にこの困難に立ち向かうのならば、認めよう」
「感謝します」
精霊伯爵に向けて深く頭を下げると、改めてリシアは若者達に向き直った。
「良かったですね。しばらくは精霊伯爵がこの森に留まるのを認めてくださいました」
「ありがとうございます」
彼等はフホ村の若者で、男はチナンとダリュア、女はキュセとプラエナと名乗った。
「あ、あのう――。リシア様も救世の勇者のお仲間ですか?」
「ただの知り合いです。それより、残りの避難民はどこです?」
「こちらです。案内します」
四人の男女は先に立って歩き出す。
「ところでリシア様。もう一人仲間で、ラルガという男がいたのですが、知りませんか」
「この森で見知らぬ人と会ったのは、あなた方が初めてです」
「そうですか」
「どうかしたのですか?」
「森の様子が変わったと言って、三日前にここへ来たはずなのですが、戻ってこないのです」
「ディアン、何か分かりますか?」
風がそよいだ。
「この森の精霊がようやく口を利いてくれたのですが、一昨日偉大な精霊を連れた風の騎士が現れて、連れて行ったそうです」
「風の騎士? それでか。向こうの連中が、風の騎士にこの森に避難するように言われたと言っていたが、首都にいる風の騎士は、モッサの軍門に降った連中しかいないはずだから、半信半疑だったのです」
リシアは、蔦が剣で切断されたのを思い出した。
「おそらくそのラルガという人は、あなた方のように蔦に絡まれて根に縛り付けられていたのでしょう。そこに入ってきた風の騎士に助け出されたのだと思います」
「よかったあ」
キュセが胸をなで下ろした。
「まあ、あいつはそう簡単に死なないとは思ったがな」
チナンは笑みを漏らした。
「にしてもあいつ、風の騎士に助けられて、そのまま仕官したいと付いていったんじゃないだろうな」
ダリュアが呆れた奴だと苦笑する。
「ありえるね」
プラエナは呆れ顔になった。
だがすぐに、誰とはなく、彼らは笑いだす。
そういう冗談を言える関係と、心理的余裕が彼らにはあるのだ。
そこから少し歩き、若者達は茂みの前で立ち止まった。
「この先ですが――」
若者達はためらうように、小声で相談を始めたが、すぐに意見はまとまったようである。
「すみませんがリシア様、少しここで待っていてください。避難民を驚かせてしまいますから」
「わかりました」
四人が茂みをかき分けて進んでいく。
リシアは茂みの隙間から、様子を見た。
茂みの向こう側は、畑だった。
四人の若者が畑の畝の間を歩いて進んでいくと、数十人の避難民が向こう側の茂みから姿を現した。
だれもが疲れ切り、頬が痩けている。
「どうだった、屋敷には住めそうだったか」
「屋敷はかなり壊されていたので、大がかりな修復作業が必要です」
「そうか。せめて生まれたばかりの子と、身重の女は、床と屋根のある場所で寝かせたかったのだが」
「東屋でもないかと探して、木の根で守られた小屋を見付けたのですが――」
「おお、そうか。でかした」
「いえ、それが近づいたら精霊に襲われ、蔦に巻き取られて捕まってしまったのです」
「なんだと。こっちは陛下の許しがあると風の騎士から言われたのだぞ」
「その小屋は精霊伯爵の宿玉だったので、怒りを買ったのです」
「それはまずい。だが、どうやって逃れてきたのだ」
「助けられたのです」
「誰に?」
「今呼びますが、みなさん驚かないでください。では、出てきてください、リシア様」
声を受けて、リシアは茂みをかき分けて畑へと入った。
その瞬間、避難民からどよめきの声が起きた。
「黒髪だ」
「――魔女だ」
「黒髪の魔女!」
あわてて向こう側の茂みに逃げ込む者。
立ち上がって手に棒を持ち身構える者。
地面に落ちている石を拾う者。
様々だったが、友好的な態度を示した者は皆無だった。
「落ち着いてくれ。黒髪だからって、悪い人じゃない。救世の勇者も黒髪なんだ」
「またその話か。そもそも黒髪の少年が救世の勇者だという証拠はないんだ。世界を滅ぼそうとしているという噂もあるくらいだ」
リシアは困惑していた。
彼等が口にした「黒髪の魔女」が、彼女を指した言葉だというのは、状況から明らかだった。
だが、そう呼ばれる理由に、リシアは心当たりがなかった。
「ですから、何度も言いましたが、救世の勇者は周りの精を集めて精霊を生み出したのです。救世の勇者以外に、誰にそんな事ができるでしょう」
「いや、怪しい。そもそもお前らがフホ村から来たというのも奇妙な話だ。誰もがユーシエスから避難しているというのに、逆に出て来るなんて、あり得ない」
「そうだ。お前らも、この世界を破壊する黒髪の手先だな」
「違います」
「それに、おかしいじゃないか。陛下の許可があると、風の騎士に言われたのは確かだ。証人はたくさんいる。なのに、精霊に襲われたというのは、変だ」
「そうだそうだ。都合よく黒髪の女が助けに現れるというのも、こっちを信用させるための策略に違いない」
「そもそも、その黒髪は剣まで持っているじゃないか」
不毛な会話に苛立ちを覚えたリシアは、一歩踏み出した。
すると、勇んで身構えていた者達が、後ずさる。
「私が何だというのです?」
「あんたが、我々の味方か敵かって話だ」
「敵味方の二元論で語るには、定義が必要です」
「なんだ、ごまかしか?」
「ややこしい事を言う」
「ごちゃごちゃと、言葉で誤魔化すのか」
「そうだな。敵でないというなら、武器を捨て身の潔白を示せ」
「嫌がるなら少なくとも敵だ。黒髪の魔女かどうか、身ぐるみ剥いで念入りに調べてやる」
「なんなんですか、あなたがたは」
リシアはおぞましさを感じると同時に、呆れた。
身ぐるみ剥いで、どうやって敵でないと判断するというのか。
理屈が分からない、理不尽な定義であった。
無抵抗のまま身を委ねて受け入れれば、味方と判断するとでも言うのだろうか。
「とにかく、その見慣れない服が怪しい。恐ろしい武器かも知れない」
「そうだな。敵でないなら、まずは武器を捨て、服を脱げ」
「正気とは思えませんね」
「やめーい!」
叫び声と同時に、ガサッと茂みを抜ける音がした。
駆けつけてきたのは、三騎士だった。
先頭にトルプ、左右にセバステとロティタ。
手に抜き身の剣を持ち畑の畝を踏み潰しリシアの側に駆け寄るや、民衆を威嚇するように剣を水平に薙いで見せた。
「て、天の騎士だ」
「間違いない。ということは、天の王の陰謀というのが真相か」
「黒髪の魔女も天の王が招いたのか、天の王も黒髪の魔女に操られているのか、どちらかだ」
「リシア殿、これは一体」
「あなた方が不用意に現れ、しかも剣を抜いて敵対してみせたから、ややこしくなったようです」
苛立たしさを吐き出してトルプの軽挙を制しつつ、リシアは進み出た。
「こいつらを殺せ。俺達の家を家族を奪ったのは、黒髪の魔女とその仲間だ」
民衆の誰かが、リシアに向けて石を投げた。
どこで拾ったのか、彼らは槍や剣を持ち出していた。
「ディアン! ラスピ!」
リシアが呼ぶと二精霊が姿を現した。
疾風によって石がたたき落とされ、地面から腕が生えて自由を奪うと、渦巻く風が彼等の武器を奪い取って地面に投げ捨てた。
そして、リシアの左右に、ディアンとラスピが立った。
「せ、精霊!」
「しかも、風と地?」
「ありえん。風と地を従えるなんて、非常識だ」
民衆の間に、動揺が広がっていった。
リシアは深呼吸して心を落ち着けると、避難民を見渡した。
「落ち着いてください。話をしましょう」
ベルトに吊していた剣を鞘ごと外すとリシアは、警戒する彼等の前に、放り投げた。
争う意志がないと、示したのである。




