7-05 暗黒と光の霊獣
暑くもなく寒くもない。
明るくもない暗闇。
それでいて、鮮やかな情景が見える。
夢だと分かっていた。
それでも、浸っていたかった。
温かく、切なくなる思い出にユートは身を委ねていた――。
マユが紙を漉いている。
今ではない遠い昔。
甘く切ない満ち足りた日々の記憶。
主な原料は、ガンピの繊維。
繋ぎとなるノリウツギ。
そして、裏山の洞窟からマユが掘ってきた岩石を細かく砕いて濾した泥。
「ほら、模様が広がっていくでしょう」
マユは簀桁を前後に揺すって水面が揺らぐ様子を見て言う。
同じ槽の水面を見ているユートには、何も見えなかった。
あの頃は、才能が無いのだとユートは諦めていた。
だから、曖昧にうなずいていた。
あの時詳しく聞いておけばと、ユートは悔いた。
だが、悔恨の記憶が連鎖するようにそれよりも前の記憶が蘇った。
深く、深く、記憶を辿った過去。
忘れていた遠い昔の記憶。
結婚して間もない頃だった。
紙漉きの師匠を亡くし、二人きりの生活に浮かれていた時期である。
あの日は、寝苦しかった。
蒸し暑い訳でもない。
それでもどことなく息苦しくなり、ユートは夜中に目を覚ました。
窓の外は満月に照らされ、明るかった。
ユートはぼんやりと月を眺めていた。
ふと、微かに水を揺り動かす音がするのに気付いた。
そっと寝室を出たユートは、工房を覗く。
真夜中の工房にマユが立ち、紙漉きをしている姿があった。
天井の明かりを点けず、窓の外から差し込む月明かりの下で、マユは真剣な眼差しをしていた。
浅い水槽に水を張り、そこに乾燥させた紙を慎重に入れていた。
墨流しのように紙に模様を写し取っているのだと思った。
精神を集中し、全身全霊を注ぐマユの姿があった。
ユートは邪魔をしないように、そっと母屋に戻った。
翌朝、マユは少し疲れた顔をしていた。
寝不足なのに、朝食を作ってくれていた。
新婚だから無理をして作ってくれたのだとユートには分かる。
師匠が存命だった頃は、一番下の弟子であるユートが食事を作っていたからである。
「無理するなよ、マユ」
「え? そんなことないよ」
「夜中にも、工房で仕事していただろう」
「あ、ばれちゃったか」
「明かりも点けずに、秘伝の技か?」
「ふふふ。そうだよ。ユート君にはまだ秘密なんだから」
マユはただ笑い、それ以上の言葉を発しなかった。
弟子であるユートは、その秘伝の技法を深く追求する資格はないと、その時は自重した。
だが、自重したと言い訳にしていたが、本気で紙漉き技術を習得したいという欲求がなかったのを、見透かされていたのだ。
マユを失い、中途半端な動機で紙漉きを習った愚かな自分をユートは呪った。
ユートは押し掛け弟子だった。
先代の師匠から正式に認められていないが、ふらりと立ち寄ったこの工房で紙漉き体験をして出会ったマユに一目惚れして、強引に居着いたからである。
掃除洗濯炊事という身の回りの雑用を続け、根負けした師匠に居候を認められたというのが正しい。
ユートは自称弟子でしかなく、実質的には使用人か小間使いといった立場だった。
その後、師匠が亡くなると、マユが師匠となった。
そして、妻にもなった。
ようやくユートは、紙漉き職人の弟子見習いとなったのだ。
だから、聞いてはいけない技術もあるのだと、一線を引いていた。
ただ、好奇心はあった。
ユートはその後、マユが何をしていたのか知りたくて、工房を調べたのだ。
すると、浅い水槽は既に水が抜かれた後だったが、隅に細かい粒子が残っていた。染料の一種かと思ったが、干し板に置かれた紙には、何の模様も写し取られていなかった。
何をしていたのか当時のユートには分からなかった。
その時は、探究を諦めたのだ。
だからそうした工程があったことを、ユートは完全に失念していた。
思い出したその記憶は、今までは行ったことがない作業だった。
早く試したい。
ユートの心に、その情熱が芽生える。
明確な意志だった。
過去のまどろみに落ちたままでいるのを拒み、今に立ち、先へと歩み出そうとの感情が溢れる。
今なら出来ると、困難へ立ち向かう闘志が燃え上がる。
急激に、ユートは意識が目覚めた。
だが、暗闇だった。
見渡しても、何も見えない。
体のどの部分も、何にも触れていない。
闇の中に浮いている。
そう解釈するのが正しいように思えた。
上下の感覚はすでに、失われていた。
〈ちょうだい〉
声が聞こえた。
それが、声であるのかも定かではない。
ユートは声を出そうとしたが、声は出なかった。
目を見開けても何も見えない。
ただ、感覚はあった。
手を重ねればそこに手を感じ、顔や体や足に触れるとそれらを感じる。
ユートは、右手が何かを握り締めているのに気付いた。
マユのお守りの中身、八角形に折られたガンピシである。
右手を顔の前に持っていき、そっと手を開く。
波打つ模様が見えた。
そして、お守りの内側から光が漏れている。
闇に潜む精の流れだった。
周囲から精がお守りへと集まり、肉眼では見えなかった幾つもの経路に沿って、内へと流れ込んでいく。その精が放つ光が、模様を描き出している。
模様にどこか見覚えがあったが、ユートはすぐには思い出せなかった。
〈ちょうだい〉
再び声が聞こえた。
だが、果たしてそれが本当に声なのか、ユートには分からない。
何かがマユのお守りにまとわりついてくる感覚だけがある。
意識に割り込んでくる何者かの意識だと、ユートは思った。
「これは、あげない」
〈ちょうだい〉
「ダメだ!」
〈ならよこせ〉
豹変するように、高圧的な言葉となった。
そう聞こえた。
だが、より正確には、感情の起伏のようであった。
通訳精霊のディミが、何者かが発した感情を言葉に翻訳してくれているのだとユートは思った。
「お前は、誰だ?」
〈ダレ?〉
「そう。お前は、何者だ?」
〈オレは、ワタシは、ボクは――〉
混乱している、というよりは、混濁していた。
多重人格のように、複雑に複数の感情と自我が入り交じった存在のように全く異なる感情の波がユートの意識を揺さぶった。
混沌と呼ぶのが相応しいような存在である。
闇の精霊かもしれない、とユートは思った。
「お前の名前は?」
〈ナマエ……、ナノリ、オナマエ、ナマエなに? ナマエない〉
「俺が持っているこれが欲しいのは、誰だ?」
〈オレ、ワタシ、ボク、オラ……〉
「何人も欲しがっているようだが、これはひとつしかない。どうする?」
〈オレのだ、ワタシのだ、ボクのだ……〉
ユートはあらゆる方向からの声を感じていた。
闇の精霊に取り囲まれ、それぞれが身勝手に語りかけてくるようだった。
それでいて、その存在が単体なのか複数体なのか判別できない。
「俺を境界の淵まで戻してくれた者と、優先的に交渉しよう」
突如、大きな波に揺り動かされるような衝撃にユートは襲われた。
周囲が騒がしくなる。
言葉にならない感情の起伏が、意識の波となって襲ってくるようだった。
怒りがせめぎ合い、争っているようだった。
そんな時、遠くに光が走ったように感じた。
光った方を見るが、すでにすべては闇だった。
一瞬だったため、見間違えだとユートには思えた。
ただ、無数のざわめきが消えていた。
感じていた闇の精霊の気配が怯えるように散っていく。
何かが動いた。
まだ、残っている何者かがいるようだった。
風の流れというよりは、皮膚の表面近くに静電気を帯びた下敷きを近づけるような感覚だった。
また体が運ばれているようにユートは感じた。
ゆっくり、ゆっくりと。
しばらくしてユートの足が何かに触れた。
ユートは足元を見るが、暗い。
だが、次第にぼんやりと足が見え、その下に岩がうっすらと見えてくる。
暗いが、闇は遠退いていたのだ。
目が慣れたのか、ユートは視力を取り戻した。
ゴツゴツとした岩が突き出したような稜線の上だった。
闇の領域から、境界の淵に戻ったのだ。
だが周囲は暗く、夜になっていた。
何かの気配を感じてユートが視線を上げる。
ゆらゆらとゆらぎながらぼんやりとした黒い影が漂っていた。
その手は、ユートの手の内にあるマユのお守りに伸びている。
初めからこいつだったのだとユートは悟った。
ずっと、お守りを奪おうとしているのだ。
「その手を放せ」
〈イヤだ。よこせ〉
「交渉すると言った。が、今お前は奪おうとしている」
〈奪わない。くれ〉
「ダメだ。名も分からない相手と交渉はできない」
まるで幼稚な駄々っ子のようだった。
しかも、いじけたように黙り込んでしまう。
それでいて、その手は、指の隙間から忍び込むようにして、お守りを握り締めたままだとユートは感じている。
「俺はユート。お前は?」
〈ナマエ、無い〉
「無いのか。それは困った。名無しとは交渉できない」
〈イヤだ〉
「俺が名付けてやろうか?」
〈ナマエ、くれ〉
「だったら、俺が名付け親になってやる。お前はカクレだ。闇に隠れている存在だから、カクレ。どうだ?」
〈カクレ、カクレ。オレの名は、カクレ〉
繰り返し自分の名を呟く朧な影は、少しだけ人らしい姿になっていた。
「気に入ったようだな」
〈ユート、それ、カクレによこせ〉
「何を以て俺に寄越せと言うんだ、お前は」
躾されていない野生児のようである。
ユートは厳に戒めるために、だらしなく漏れ出すままに向けられた欲望を拒絶する。
〈カクレ、それ欲しい〉
「欲しいという欲求、それはいい。だが、よこせと言うのは、強奪の意図を伝えている。一方的にお前は、俺からこれを奪うのか」
〈カクレ、奪わない〉
「俺はお前に名前を与えた。代わりに俺に何をくれる?」
〈カクレ、ここに連れてきた〉
「連れてきた対価は、俺との優先交渉権だ」
〈ユウセンコウショウ?〉
「最優先でカクレと交渉することだ」
〈分かった。カクレ、ユートの言うこと聞く。だから、それよこせ〉
「違う。名前を与えた対価として、カクレは俺がこの世界にいる間、俺の手助けをするんだ」
〈分かった〉
「その結果を踏まえて、このお守りをどうするか、交渉しよう。だから、今はその手を放すんだ」
〈それ、カクレのモノ――〉
闇の精霊カクレがもう一本の腕を伸ばし、ユートの右手にあるお守りに触れようとする。
その姿は、先程よりも輪郭がはっきりとしている。
だが、その背後には幾筋もの線が伸び、闇の奥へと続いている。
それに気付いた瞬間、カクレは闇の領域と繋がっている一部であり、個に見えるが全だとユートは悟った。
広大な闇の領域に湛えられた精が、名を得て自我を芽生えさせつつあるカクレへと入り込もうとしているのだ。
〈危ない〉
何かの声が聞こえ、光が走った。
まばゆい光が空間を切り裂く。
弾けるように闇が遠退き、世界を揺るがすような精の大波に揺れた。
境界の淵の先から闇が払われ、稜線の裾野が闇の領域の更に先まで続いているのが見える。
強烈な閃光に怯えるように、闇はいつもよりも遠巻きに構えている。
カクレの姿も、消えていた。
光は宙を舞い、ユートの脇に降り立った。
振り返ったユートはそこに、真っ白な獣の姿を見た。
細長い斜面の上であり、丁度顔が向き合う高さにいる。
白く光を放っており、周囲を照らし出している。
その姿を、ユートは知っていた。




