1-06 慮
過去の参観日を思い返す度に、優途は悩んだ。
梨詩愛の心情を思えば、軽薄な一言でしかなかった。
もっと別の上手い方法がなかっただろうかと考えもする。
ただ、どんなに最善だったと自負しようとも、発した言葉には責任を取らなくてはならない。
やり直しが利かない人生である。
梨詩愛による優途への人物評価は、マイナス側に振り切れた。
その日以来、敵意を向けられ続けている。
謝罪に対し言葉の上で赦しを優途は得たが、梨詩愛が負った心の傷が癒やされた訳ではない。表向き封じ込まれた感情は、何かにつけて敵意や侮蔑となって優途へと向けられる。
そうした梨詩愛の態度を、優途は言行不一致と批判することは無かった。先に傷つけた負い目もあるが、梨詩愛の言動に都度反発しても無意味だと優途が考えているからである。
その代わりに誠心誠意を尽くし、適切な距離感を探りながら、押しつけにならないよう、良かれと思う最小限の償いをし続けるだけだった。
友好関係を再構築ためにも、何事も日々の積み重ねである。
優途は熱くならずに、冷静さを保った態度で、バックパックを突き返してくる梨詩愛をまっすぐに見た。
「君には不要でも、瑠璃ちゃんには必要かも知れない」
「それを言いますか――」
屈辱を噛み殺すように、梨詩愛は口を噤んだ。
個人的な感情を抜きにして考える理性が、彼女にはある。
梨詩愛は理屈で納得したのだ。
とはいえ無条件ではなかった。
バックパックを岩の上に置き、中身を確かめてから、ようやく受け入れたのである。
それでも尚、心情的な不服は消し去れないためか、未使用のポリ袋を取り出し、脱いだパンプスを入れ、バックパックのサイドネットに押し込んだ。
その行為が優途には気になった。
荷物は最小限にすべきというのが、常識だからである。
「靴は邪魔だから置いていったらどうだ?」
言葉にした途端、梨詩愛の目つきが険しくなる。
それに気付いた優途は、違う言い方をすべきだったと反省した。
だが、訂正するには、手遅れだった。
既に、梨詩愛は侍女の矜持を、踏みにじってしまっていたのだ。
「万が一靴擦れしたら、履き替えるのです!」
「それなら好きにしてくれ。あと、これを頭に」
優途は話題を逸らすために、自分のバックパックからヘッドランプを取り出して差し出した。
「嫌です」
梨詩愛は更にムッとした表情で横を向く。
今度は優途が想定していた反応だった。
「似合うと思ったんだが」と心にもない言葉を呟きながら、代わりに懐中電灯を取り出した。
「だったらこれを。自分の足元くらい、自分で照らしてくれ」
「ご親切にどうも」
梨詩愛は奪うように優途の手から懐中電灯をもぎ取った。
小さな勝利を得たように、梨詩愛は満足そうである。
それは優途の意図でもあった。
自分の歩む先を見定めるための道具は、自分で持つべきだからである。優途はバックパックを背負い手袋をつけると、意味深に梨詩愛を見た。
「では、お先にどうぞ。レディーファーストと言うことで」
「ご冗談を。転ばぬ先の杖にはあなたがなりなさい」
「仕方ない。それなら、俺が先鋒だな」
道案内のため、また、背後から襲う意志がないと証明するため、優途が先に入るべきは自明であった。だが、自ら先に行くと告げ、先回りする悪意を邪推されては困るから、あえて先を譲ろうとしたのである。
天邪鬼だと優途は内心で思いながら、積み石の階段で窪地に降り、その先の洞窟の入口へと登る。
その瞬間を見計らったようだった。
「ひとつ、教えてください」
背後からの梨詩愛の声に、優途は振り返る。
傾きかけた太陽の陽射しに目が眩む。
優途は日差しに向けて手をかざして陰を作り、梨詩愛の鋭い視線を受け止める。
戦いとなれば不利な位置だった。
そして、冷ややかな彼女の声は、疑惑に満ちていた。
「犯人はなぜ、お嬢様を連れてわざわざこんな洞窟に来たのです?」
「その理由は、俺が知りたい」
「本当にこの中に、犯人がいるのですか?」
「それはただの勘だ。不確かな情報は先入観を生む」
「ですが、工房の道具をごっそり短時間で持ち出すだけの人員を用意できる組織力と、この洞窟を目指す不可解な行動。並の相手ではないとそう判断しますが」
「今の俺にその答えはない。ここで議論しても状況は改善しない。先に進むか、別の可能性を探るかだ」
「あなたは、統真君が危険に曝されているかも知れない状況で、なぜ平然としていられるのです?」
「俺はこれでも焦っているんだぜ。それに君が突っ走ったせいで、少し狂った」
溜め息交じりに優途が告げると、梨詩愛が身構えた。
彼女に嫌われているからでもあるが、批難めいた言動に過剰反応し、何かと敵対心を表に出すのが梨詩愛だった。
「どういう意味でしょうか?」
「忘れ物をしたのさ。ここで妻が死んだという話は前にしたと思うが、覚えているか」
「ええ」
優途は自嘲気味に笑む。
妻を失った悲しみは未だに癒えていない。殺したのはお前だと言われる度により深く心が傷つき、感情が消し去られるように悲嘆は底に沈んで行った。
梨詩愛から向けられたのは、殺人犯に向ける眼差しだと優途には分かったからである。
優途はただ統真に、母親がきれいな姿を保っている状態で、最後の別れをさせたかっただけなのだ。
死因不明の遺体は、警察によって検視され、司法解剖される。
遺体にはプライバシーはなく、尊厳は無視される。
服は剥ぎ取られ写真を撮られ、あらゆる状態を記録される。
体が切り開かれ、必要に応じて内蔵や眼球などの臓器が奪い取られる。
それが嫌だったのだ。
傷つけられ穢された母親を統真に見せたくなかったのだ。
母親の死を統真に理解させるためでもあった。
棺に入った作り物のように化粧された母親を見ただけでは、統真はその死を受け入れられないかもしれないのだ。
統真は母親が洞窟で遭難して行方不明になっただけと考え、一人で洞窟の隅々まで捜索するようになる。そして、母親を探して洞窟の奥で遭難して死ぬ可能性すら、優途は考えていた。
それを未然に防ぐための行いだった。
だが、その結果、想定していなかった事態を招いたのである。
優途は妻殺しの犯人との疑惑を抱かれ、警察に拘束されたのだ。
加えて、母親の死と洞窟の闇が結びついて統真のトラウマとなり、闇と洞窟を恐れるようになったのだ。
さらに、優途は梨詩愛から、新たな犯行を疑われたのである。
そうした意識を向けられ傷ついた心を庇うために、優途は感情を殺すのだ。
そのため、優途の口調は淡々となる。
「無味無臭の致死性ガスが洞窟の奥に充満している。だから、本来検知器が必要なんだが、忘れた。俺らしくない話だ」
「――あとひとつだけ」
「何だ?」
「あなたが想定している相手は、強者でしょうか」
「暴力団よりたちが悪いだろう。危険だからと言っても君は入って行くと思って言わなかったが。待つか?」
優途は梨詩愛を見詰める。
妻の死によって優途は、臆病になっている。
あの日妻と共に一緒に洞窟に入っていればと、後悔しない日はこれまでに一日としてない。
素人の優途でさえ、妻の死が異常な状況だったのは分かる。
無味無臭の致死性ガスが一酸化炭素だとされ、周期的に特定の空間に充満するという調査結果が出されたが、納得はしていない。
あの日、洞窟の奥は、ヒカリゴケがあるわけでもないのに、仄かに光っていたのだ。
人知を越えた異変が起きて妻は、死んだか、殺されたのだ。
そう確信していながら、証拠がないため優途はこの事実を誰にも語っていない。統真を連れて戻った時には、そうした現象は消えていたからである。
そして、警察にその事実を告げれば、狂人と疑われより殺人の疑惑が深められると分かっていた。
だが間違いなく、この洞窟には未知の危険がある。
それを予想しているからこそ、梨詩愛を伴うのは本心では望んでいなかった。
身近な人が傷つき、あるいは死に至るような場面を、優途はもう見たくなかったからである。
「いいえ。行きます」
期待とは逆の言葉を聞いて、やはり梨詩愛は天邪鬼なのかと優途に疑った。
だが予想通りの言葉でもあった。
そして、リシアの決断を、優途は否定しなかった。
「そうかなら、行こう。だが、その前に――」
優途は統真からのメールに書かれた言葉を思いだし、梨詩愛に事情を告げて待たせると、洞窟に入って左へと登った。
すぐに行き止まりとなる。
奥に積み上げられた石を退かすと普段統真が洞窟探検のための装備を隠している穴があるのだが、そこにポリ袋に入れられた葉書大の紙が入っていた。
優途はそれを引っ張り出すと、入口に戻り、太陽の明かりで確かめる。
達筆すぎる文字が、墨書されていた。
「娘を預かった。洞窟で待つ」
そう、書かれていた。
文字を読むや優途は「犯人からのメッセージだ」と告げ、梨詩愛に向けてポリ袋を差し出した。
梨詩愛は用心深く近づき、優途が持っているポリ袋の中を覗き込み、すぐに鋭い眼光を向けた。
「俺の子だと勘違されたんだろう」
「大いに迷惑な話です」
「そうだな」優途はポリ袋をバックパックのポケットにしまいながら答えた。
「周到すぎますね」
「知っていたんだろう。犯人はここに洞窟があるのを」
「あなたの奥さんが亡くなられたというのも?」
「殺されたんだ。俺の妻は」
「殺された? でも、致死性のガスとさっき――」
「加害者が人間だろうが自然だろうが、俺から見れば殺されたことに変わりはない。違うか?」
何も出来なかった苛立ちを吐き出すように、優途が発した言葉の語気が強くなっていた。そんなつもりは無かったのだと、誤魔化すように優途は頭を掻く。
だが、梨詩愛は珍しく視線を逸らした。
「――そうですね」
梨詩愛の口調はいつになくおとなしい。
彼女には少し感情的な言葉の方が通じるのかもしれないと、優途は思った。