6-07 子爵の望む心
緑瑪瑙が光を弾くように、長い髪がよそいだ。
吹き寄った風が美女の耳元で人となり、囁くように声を告げて姿を消す。
オジャスゥ・ユビキシュは身につけたドレスのように優美な戦闘服を揺らし、鞍上で断崖の先へと視線を向け直す。
先程、風の守人の守護騎士だった男が、獣車とともに走り去った方向である。
断崖の上は平坦と言っても山岳地帯と比べての話であり、車輪を転がせば凹凸によって激しく上下に揺さぶられ、速度を上げるほどに衝撃が増し獣車は破壊されるはずだった。
そのような地面の上を滑るように走り去ってしまうのだから、車輪の動きに合わせて整地する地の精霊の能力もまた恐ろしい。
しかも、断崖の縁から空を飛んだのだ。
驚嘆を通り越して唖然としてしまう。
精霊は嘘を吐かない。
それでも、偵察させた契約精霊が飛んだと言った言葉を、オジャスゥはにわかには信じられなかった。
「鍛え直してどうなる物でもないか」
呆れるほどに秀でた力を持つ存在を前に、オジャスゥは祭殿騎士を叱責する無意味さを知った。
岩から剥がれた石が落ちる音がして、オジャスゥは振り返る。
金緑石のような目を向ける。
緑から赤に揺らぐように色が変わる美しい眼差しの先に、騎士が一人、メノスに跨がって崖を登って来る姿を見た。
本来であれば筆頭の護衛騎士を務める男、ウシュビである。
目が合うとウシュビは、場違いなほどの笑みを浮かべてメノスを寄せてくる。
「鞍上のまま失礼致します閣下。ご無事でなによりに存じます」
「遅いわ!」
「これでも大急ぎで参上したのです」
悪びれずにさも自慢げに言うウシュビに、オジャスゥは苛立ちを覚えた。
「我が祭殿騎士で最大の地の精霊と契約したお前がこれでは、役立たずであろう」
「ですが、奴は我等を見て慌てふためき逃走したのですよ」
「惨敗だ。愚か者」
「いえいえ。私が登ってくるのを知って、恐れを成して逃げ去ったのです」
「そうか。ならその優秀な地の精霊で、わたくしが下に降りる道を作ったらどうじゃ?」
「お言葉ですが閣下、風の祭殿でこれ以上地の精霊を使うのは、不敬となりましょう」
「物は言い様だな。ならばその方は、精霊を使わずに降りて参れ。わたくしは先に行く」
オジャスゥは断崖へとメノスを走らせ、跳んだ。
風の精霊で落下速度を減じまた態勢を支えながら、わずかな断崖の出っ張りを伝うように飛び移り、緩やかに着地する。
見ていた祭殿騎士から感歎の声が漏れ聞こえた。一族の中で最も風の精霊を使いこなせるオジャスゥにとって、当然の賛美ではある。だが、プロソデアの能力を見せられた後では、虚しかった。
追い風を得て祭殿の門をくぐり階段の前まで進むと、ひらりとメノスから降り、そのまま風の精霊の助力を受けて精風門の前に登った。
工部の長としての作務衣姿をした老人が立っている。
オジャスゥの父イキーエス伯爵こと、イムカ・ユビキシュである。
「父上、わたくしは、命拾いしたようです」
「まったくもってプロソデアとは、恐ろしい奴だ。祭殿騎士一〇〇騎を手玉に取り、破壊した参道も元通りにして行った。しかも門柱を燃やさずにあれほどの炎を上げるとは、度が外れておる」
「その力が有っても精霊王には何もできないのでしょう?」
「そうだが、あの力は手元に欲しいと、やはり思うな」
「突出しすぎた力では、騎士団への編入は無理でしょう」
「飼い慣らして手駒に、と思っていたのだ」
「飼えますか、あの者を」
「最早無理だ。奴は祭殿の地下で、勝手に学び取っていきおった」
「餌がなくなりましたか」
プロソデアが内に秘めた欲、分を越えた望みがあるというのは、これまでの内偵によって把握している。だが、その欲望を満たすために求めていた祭殿の秘密も、意図せず勝手に現地調査して持ち去ってしまったなら、餌としての価値は失われたのだ。
高く売ろうともったいぶって、商機を失ったのと同じだった。
「では、邪魔ですね」
「扱えぬ強大な力ならば災厄にしかならぬ。惜しい人材だが、首輪と鎖を付けられぬ猛獣となる、奴の未来は定まったのだよ」
イムカが団扇代わりに顔を扇いだのは、紙の束だった。
オジャスゥは見慣れないそれに気付いた。
「父上、それは何ですか?」
「ああ、これか。ノイ・クレユ人の男がくれたのだ」
「守護騎士と共に居た黒髪の男のことですか?」
「会ったか?」
「父上と取引したと言っておりました」
「取引などしておらん」
「妙ですね。黒髪の男がそう言ったのですが」
「あの男の勝手な妄言だ」
「どのような妄言ですの?」
「楔を持ってきてどうにかするのを期待してくれと言うような話だ」
「楔とは、分かちの楔ですか。聖剣と呼び変えた」
「そうだ。救世の勇者が遠路はるばる取りに行ったそうだ」
「では、間に合わないでしょう」
「当然だ」
四属性の精霊と契約した守護騎士プロソデアであっても、離宮を発って境界の淵へと風の守人を送り届けて戻るまでに、一ヶ月以上かかったと言われている。仮に祠の守護精霊が聖剣の持ち出しを認めたとして、二ヶ月で戻ってきたならば驚愕すべき結果だと言える。
だがその間、何もせずに待つなど論外だった。
いつまでも風の精霊王を首都ユーシエスに留め置いていては、風の領域は荒野と化し、領民は飢え死ぬことになる。
「それでもあの男はそれを差し出したと? 父上が奪ったのではないのですか?」
「ああ。勝手にくれおった。よほど命が惜しかったと見える」
「珍しい紙なのですか?」
「ノイ・クレユの紙束なのだから珍しいのだろうが、それよりも、祭殿の地下迷宮、つまり裏祭殿紋の地図が描かれていると言っていたな、あやつは」
「見てもよろしいですか?」
「構わんよ」
オジャスゥは差し出されたスケッチブックを受け取り、開いてパラパラとめくった。
祭殿紋の地下形状が克明に描かれている。
「家伝の絵図と少し違うようです」
「本当か?」
「はい。付き合わせて確認しませんと確かなことは。ですが違えば、今後の祭殿紋の扱い方に問題がでるかもしれませんね」
「全く、面倒な事を残していく。それがやつの狙いか?」
「時間稼ぎのための、嘘だと?」
「そうだ。祭殿紋の調査ができる機会など、次は永遠にないかもしれないのだからな」
「そこまで器用な人物には見えませんでしたが――」
「ノイ・クレユ人を見立てで評するのは危険だな」
「それで父上は、どうなさるのです?」
「領民を救うのが第一義だが――」
イムカの視線が上に向いた。
断崖の上に何かが揺らぐのが見える。
突風が吹き、巻くようにして風が集まり人の姿を成す。
優美な風の衣を纏う精霊が姿を現した。
歴代の風の王と契約する勅使精霊だった。
精霊が認める風の王からの正式な通達をもたらす精霊である。
「新王陛下より風の領域の全領主へ通達する」
「なんでございましょう。イシュコフォンイザック殿――」
「今般イズラ陛下は退位され、新王としてウザラ殿下が即位さることをここに伝える。次いで新王ウザラ陛下の要請を伝える。首都奪還のためユーシエスへ集結せよ」
「なんと――」
イムカは嗤った。
「風の精霊王の承認を得ずに新王とは、驕ったか彼奴は」
勅使精霊は答えずに居直る。
「新王ウザラ・ノルティン陛下より、イキーエス伯爵イムカ・ユビキシュ閣下への書簡を預かって参りました」
蔦で編まれた筒に入った書簡だった。
風の王が出す、最も格式の高い様式である。その蔦には王冠精霊によって封印が施されており、宛てた当人しか開封できないものである。
イムカは王権に対して恭しく拝跪し受け取った。
イムカが様式に則り開封の呪文を告げると、蔦が解けて落ちる。丸められた書簡を開き、目を通してすぐに、鼻で嗤った。
「返答や如何に」
「相分かったと新王陛下にはお伝え願おう」
「承った」
勅使精霊はまた風となって去った。
イムカは知能と見識と胆力を備えており、通常は即断する。
しかし考えている様子を見て、オジャスゥは訝った。
「父上?」
「娘よ、どう思う? イズラ陛下は退位し、ウザラ殿下が即位したなどと」
「ヨニシャが喜びそうで、悔しいですわ」
「混乱に乗じて計略を用いたのだろう」
「あの無能のウザラ殿下が計略を?」
オジャスゥは意味深な笑みを浮かべてイムカを覗くように見つめた。
「イチュオンエカ家が裏で糸を引いているのだよ」
「そのためにヨニシャはウザラ殿下に嫁いだのでしたら、納得できますわね」
「当然だ。奴らは昔から、史実を盾に事実を否定する連中だ」
「ですが父上、困ったことにユビキシュ家の伝承に、間違いがあるかも知れないのですよ」
オジャスゥがスケッチブックをちらつかせると、イムカは表情を険しくした。
祭殿の建設に関する伝承は、ユビキシュ家にはない。祭殿を維持管理し、精紋に精通し、式典全般の儀礼を伝承するための家系だからである。祭殿建設には携わらず、建設後に役割を与えられたのがユビキシュ家だった。
家柄としては、歴史伝承を役割としている、イチュオンエカ家の方が古いのである。
「いずれにせよ、風の精霊王が認めぬ内は、風の領域の王ではない。が、その風の精霊王は不在なのだ。即位典礼は行えぬ。よって、ウザラの即位は自称でしかなく、公にはイズラ陛下が王位のままだ」
「その精霊王も、我らが一度天にお返しすれば、ウザラ殿下の即位は認められないと?」
「その通りだ、娘よ。何の実績もなく、ただ王になったと触れ回ったところで、儂等が義務を果たせばそれまでだ。諸侯の忠誠は得られず、あの無能はすぐに譲位することになる。イズラ陛下が復位なさらねば、あの有能な弟殿下が、次の王となる」
「ですが父上、王冠精霊が認めたのですから建前であっても王です。そのウザラ新王陛下から命令はどうなさるのです?」
ウザラが全くの無能だとは、オジャスゥは思っていなかった。
能力を認めて競い合ったヨニシャが王太子妃になると決めたほどの人物である。ぼんくらでは鼻であしらわれて終わりだし、無才であれば無能と評判の王子との婚姻が成り立つ理由がないからである。
「王とは、領域支配の秘密を握る、共謀者だ。イズラ陛下の御心次第だが、当面ウザラ如きには建前論で面従腹背となろう」
「では、こちらは予定通りでよろしいでしょうか?」
「他にやりようもないからな」
「そうですわね」
「災いは具現化する前に、排除せねばならぬ」
「ウザラ殿下を?」
「言うまでもない」
「失脚の種をまきましょう」
「お前がか?」
「いけません?」
「いいや。だが、お前は気まぐれだからな」
「父上に似たのでしょう」
「ならば、お前が表に立て」
「よろしいのですか?」
「どのみちお前に継ぐのだ」
「では、楽しませて頂きましょう」
オジャスゥは浮かべた笑みを扇子で隠した。
一度直接会ってみたいという好奇心が満たされる瞬間を、彼女は待ち望むのだった。




