1-05 諍
瑠璃の父親の愛人である。
梨詩愛に対するそうした噂が囁かれたのは、瑠璃が転校してきた当初からだった。
病気療養のために親元を離れた瑠璃の、世話役だという事実が告げられても噂は消えなかった。
統真が小学四年の二学期。
参観日があった。
その時点で瑠璃は、父親のお手付きによって生まれた、梨詩愛の実子だというのが真実のように陰で囁かれるまでになっていた。
当時二三歳の梨詩愛が一〇歳の瑠璃の母親というのは少し無理があるのだが、だからこそ、明かせない事実だとされたのである。
田舎の小学校に転校してきたのも、正妻から遠ざけるためだというもっともらしい理由も付け加えられていた。
優途はそれを、大人達のやっかみだと想っていた。
若く美しい梨詩愛を貶めることで、満たされない心を癒しているのだと、見抜いていた。
他者を貶めることで相対的に自己の立ち位置を上にして、矮小と化す自己を否定し、心の平安を得ているのだ。
虚しいイジメである。
優途はそうした邪推が嫌いだった。
似たような境遇を、経験しているからである。
妻殺しの男という噂である。
今でも陰で口の端に上る程に燻り続けている。
裏でこそこそ好き勝手な仮説を妄想して、それが事実のように噂をばらまく陰口だった。
どうして人はそうまでして自分より不幸な存在を生み出したいのかと思う優途の心は、怒りを通り越して虚しさに満ちていた。
自分のことは放置していてもいいと考えていた優途だが、体調が良くなり学校に通えるようになった瑠璃に、余計な負担を強いる情況を看過できなかったのだ。
だから、参観日に姿を見せた梨詩愛を見て、親同士で囁く噂を耳にして、優途は苛立ちを覚えていた。
子供の前で範を示す親の態度ではなかった。
参観日とは、保護者が子どもを見る場であると同時に、子が大人達を観察する場でもあるのだ。
そうした噂の中、梨詩愛は毅然とした態度をしていた。
事実無根ならば、憶測の噂は消えると信じている態度だった。
だが、否定しなければ偽りが事実認定されるのだと、優途は知っていた。
嘘の芽は早めにかつなるべく公に摘み取るのがいいのだ。
大人の世界では本音と建て前が使い分けられる。
そのため、公然の場における発言は真偽を抜きにして尊重される。
だからこそ、憶測に過ぎない噂は、真実の言葉によって公衆の面前で否定するのが効果的なのだ。
それでも地下茎のように陰口が囁かれるだろうが、公然と言えない言葉となれば力を失う。
そう思って優途は、居並ぶ父母の列から一歩進み出た。
衝動的な行動だったが、舞台に立った役者のように、優途は噂を消し去る役をアドリブで演じたのである。
失礼は承知である。
場違いな言動だというのも理解している。
公の場で言葉にするのが、重要だと信じていたからである。
「君は瑠璃ちゃんの父親の愛人なのか?」
「いいえ。私は旦那様、つまりお嬢様のお父上に雇われた、侍女に過ぎません」
梨詩愛は冷静だった。
目にこそ屈辱と嫌悪と敵意が込められたが、口調は落ち着いていた。感情的にならない態度がより否定の言葉を強めることになると、優途は心の内で頼もしく思った。
「お体の弱いお嬢様の静養のため環境のいいこちらに移住致しました。ですが旦那様と奥様にはお仕事がございますので、私が身の回りのお世話を仰せつかっているに過ぎません」
「そうか。君は、単なる世話係の侍女という訳だ」
「はい」
「ならいいんだ」
遅滞なく語る梨詩愛本人の言葉は、父母の間に響いたようだった。
だが彼女は、愛人と見なされたのを、大いなる侮辱と感じたのだ。
優途の想像力の欠如であり、配慮不足だった。
後悔したところで、発した言葉は取り消せなかった。
「ですが、あなたは何を根拠に、私が旦那様の愛人だという噂を広めるのでしょう」
「噂を広めてはいないが、君が着飾っているから、誤解を招く」
「この服装は、お嬢様のためです。参観日に誰も姿を見せなければ寂しい思いをさせてしまうでしょうから、今日は母親代わりを務めさせて頂いているだけです」
「それは立派なことだ」
剣幕に圧倒され、優途はたじろいだ。
梨詩愛は予想よりも強い女性だと、思い知らされた瞬間だった。
「参観日に親が来てくれないお嬢様の寂しさを、あなたは想像できないのですか」
「分かっているつもりさ」
「いいえ理解していません。私一人だけが立場を示す服を着ていては、お嬢様のご両親がいらっしゃらないと明らかになります。悪意が無くとも同級生から親が来なかったと言われて心は傷つくのです」
「そうだろうな」
優途は分かっているつもりだった。
多くの生徒は、その母親が参観している。そうした中で、父親しか来られない情況を統真がどう感じているか、理解しているつもりだった。
「あなたは分かっていないから、私にわざと大声で問いかけたのです。ですから私は事実を告げなければなりませんでした。その結果、私の努力は無駄になりました」
「無駄とは、大げさな――」
「いいえ。こうして私が自分の立場を表明したことで、お嬢様のご両親がお見えになっていない事実が公になりました。失礼なあなたのせいです」
風向きは一気に変わり、居合わせた保護者は梨詩愛の味方をした。
無神経で無思慮な無礼者として、先ほどまで一緒に愛人の噂をしていた母親達から、批難の声が優途に向けられた。
優途は立つ瀬を失った。
自分の席で後ろを向いて睨んでくる統真の視線を痛く感じながら、優途は梨詩愛に向かって深く頭を下げるしかなかった。
「大変失礼しました。どうか許してください」
優途の謝罪で、大半の母親連中は溜飲を下げた。
罪人を批難し断罪し貶めることでまるでそれまでの自分達の悪行に対する免罪符を得たように、誇らしげだった。
そして優途は、ダメな父親と見なされた。
統真は、そのダメな父親の息子だと、クラスメートに思われてしまったのだ。
それでも、成果はあった。
その日以来、少なくとも表向き、梨詩愛が愛人と後ろ指さされるような状況は無くなったからである。
その代償として優途は、統真からも梨詩愛からも恨まれるようになったのだ。
ただ一人、瑠璃は感謝の言葉をくれた。優しい子だから、気遣ってくれたのだ。
そしてこの日を境に、梨詩愛は常にピナフォア・ドレスを着るようになった。
自分の立場と覚悟を様式によって世間に示したのだ。
愛人ではない証明として。
そして、全身全霊で瑠璃に仕える覚悟を表明するためであった。