6-01 孤影と舞う風
悪路の森を抜けたメノスが、速度を緩めた。
鞍上で振り返ったリシアは、森の上に風の祭殿を囲む断崖を見て、徒労感を覚えた。
「まだ慣れていないからでしょう」
自分を慰めるように呟いたリシアは、視線を街道の脇に向けた。
一本だけ離れて木が生えており、その根元には座るのに適した石がある。
リシアは手綱を繰りその木へとメノスで近づくと、鞍上から飛び降り、手綱を木の幹に手綱を結んだ。
鞍の後ろに付けた荷袋の口を開け、木製の水筒を取り出し、一口飲む。
甘露のような水を味わい一息つく。
メノスとの間で精の循環を行い続けるのは、祭殿前の比較的平坦な場所を走るのと、実際の森で凹凸の激しい道を走るのとでは、疲労感がまるで違った。
感覚を整理するためにも、一度休憩が必要だったのだ。
水筒を荷袋に押し込み、荷袋の脇に押し込んでおいた紙を取り出すと、リシアは根元の石に腰掛けた。
背負っていたバックパックを降ろして石の上に置くと、折りたたんでいた紙を広げる。スケッチブックから切り離したその一枚の紙には、風の王宮までの概略地図が描かれている。
距離も地形も正確ではないが、目安にとプロソデアが描いてくれたものである。
リシアは、地図上の現在位置を推定し、風の祭殿からの距離を測った。目安でしかないが、ざっと五〇キロの距離があった。地図上では、ほんの指先ほどの幅でしかない。
目的地である首都ユーシエスは、遙か彼方だった。
脇に置いたバックパックのポケットに地図を仕舞ったリシアは、無意識に懐中時計を取り出し、蓋を開いて時間を確かめる。この世界は一日の時間が異なるらしく、日中の時間が日々ずれているため、当てにはならない時間だった。
それでも、経過時間の目安にはなる。
メノスが草を食む音を聞きながら、リシアは目を閉じ呼吸法を始める。呼吸によって気を練り血流を良くすれば、疲労を軽減できるのだ。
これも、武術の修練で体得した方法である。
だがいつしか、リシアの意識は忘憂に迷い過去を彷徨った――。
幼い頃からリシアは、変わり者だと言われていた。
一般的に女の子が好むとされている遊びに、一切興味を示さなかったからである。
傾倒したのは、古武術だった。
体が弱かった幼い頃に習わされ、のめり込んだのだ。
その後華道や茶道も習わされたが、好きになれず、密かに武術の師範の許を訪ねたほどである。だが華道や茶道に隠された武術の極意があると師匠に諭され、結果としてすべてを習得することになったのは後の話である。
そんなリシアは学業の成績も優秀だったので、古武術の道場通いを禁じられることはなかった。
だが、親に言われるまま大学へと進学したリシアは、失望した。
大学生活では好奇心を満たす何かが足りなかったのだ。
リシアは休学し、世界を知るために、放浪の旅に出ようと決めた。
兄二人姉一人の末っ子でもあり、どの道留学させる考えを持っていた父親は、鷹揚な性格もあって許容してくれた。当座の資金は持たせてくれたが、足りない費用は自分で稼がなければならなかった。
リシアは真っ先に欧州へと渡った。
初めは観光気分もあり、名所を巡り、英国へと渡った。
そこで旅費が心許なくなり、元貴族の家に住み込みで働くことになったのだ。そこではバトラーを雇っており、その仕事に触れたのが、リシアの人生の転機となった。
広範な知識と技能を高い基準で求められるバトラーの仕事に、やりがいを感じたのだ。半年間そこで過ごして適正を認められたリシアは、本気でバトラーを目指してはどうかと留学を勧められたのだ。
本来バトラーとは男性の使用人のことであったが、男女平等の流れから女性バトラーを増やしたいという社会的背景があったのも後押しとなった。
必要な知識と教養を習得するために留学を決意したリシアは、ビザを取得するために一時帰国したのである。
ところが、留学したければ費用は自分で稼げと言われ、半ば無理矢理、父の知人の娘を世話する侍女になるよう強要されたのである。
そしてリシアは、ルリと出会ったのだ。
これが、二度目の転機となった。
ルリは生まれながらにして原因不明の頭痛と発熱と吐き気に苦しんでいた。躁鬱のように、暴れては寝込み、目覚めては暴れるという、厄介な幼児だったのだ。
母親は育児放棄し、養育係として雇われた者はルリの性情を持て余し、それまでに何人も辞めてしまっていた。そこで、見習いとは言えバトラーの経験をした経歴に目を付けられ、親同士の利害関係によって、リシアは侍女として仕えるように強要されたのである。
初めはリシアもルリとの意思疎通に苦労した。
ただ、リシアに武術の心得があったことが、扶けとなった。
どんなにルリが暴れても、リシアは受け流しあるいは受け止めるなど、お互いが怪我をしない方法で対処できたのである。
そうしてルリと向き合う中でリシアは、ルリが暴れるのは不調を訴える方法が分からないからだと見抜いたのである。そのように相手の心理を察するのも、武術の内であった。
不調を言葉で説明できないルリの心情を察し、リシアが適切に対処することで、少しずつ信頼関係を築いた。
数ヶ月してルリは痛みや不調について言葉で伝えられるようになった。暴力衝動は、語彙不足と表現力不足によるものだったのだ。
意思疎通が出来るようになるとリシアは、ルリの体質を改善すべく食事から見直し、症状を緩和させることができたである。
だが、完治はしなかった。
それでも諦めずに、親身に献身的にルリを治そうとし続けた。
次第にリシアは、ルリに対して母親と姉の中間のような感情を抱くようになった。
そうして、ルリを護るのがリシアの生き甲斐となったのである。
そんなリシアに、恋愛経験はない。
好意を抱かれる事は多かったが、リシアにとって大抵の男はクズだった。底が浅く、知識の受け売りばかりで独創性のない会話ばかりされた。親から受け継いだ地位と財力を誇るだけで、外面で温厚を装うも、枷から解放された私的領域では、狂気を発現させるような連中ばかりだった。
それが、リシアにとっての、男の定義となった。
そのような人生の中で、唯一異質なのが、あの男だった。
ルリがトーマと親しくなったため、その父親であるあの男と会うことになったが、未だにその人物像がよく分からない。
常に本心を偽るような態度で、妻殺しの男だという声にさえ、薄ら笑いを浮かべていた。冤罪に怒りもせず、表層の言葉だけで否定するだけなのが、却って怪しかった。
陰を纏い偽りで生きる男。
底知れぬ危うさを感じる警戒すべき男。
誠意が感じられない謝罪をする男。
とにかく、嫌悪すべき男なのは間違いなかった。
だが、この世界に来て、少しだけ評価は変わった。
冷静に一つずつこの世界の本質を解き明かそうとしていく手法は、リシアの好む真理の探究に通じていた。
頻繁に腹が立つ言葉を掛けてくるのが鬱陶しく怒りや敵意で拒絶しても、反発されずに肩すかしされたように受け入れられてしまう。
リシアが反論し意見を通そうとすれば、これまでの男なら、最後には黙れと高圧的な態度をとって終わりだった。
だが、あの男は違った。
無謀さを自覚しつつも、それでもルリを助けに行くと主張すると、頭ごなしに否定するどころか、あの男は手助けしてくれたのだ。
知識と技能を得る機会を作ってくれたのだ。
実際に教えてくれたのはプロソデアだが、あの男がお膳立てしてくれたのは事実だった。
感謝すべきなのだろうか――。
リシアは漠然とした感情の流れを拒否するように目を開けた。
呼吸法による疲労回復と感覚の整理は、いつしか記憶と感情の整理になっていたのだ。
メノスが草を食む音が、リシアの意識に登ってくる。
街道から逸れた石の上に座っていた。
リシアが周囲を見渡しても、周囲に人の気配はない。
懐中時計を見ると、十五分ほどが過ぎていた。
それ以外は、何も変わっていない。
街道を来る者は、いなかった。
少しだけリシアは、期待していたのだ。
あの男が追いかけてくるか、こっそりと尾行してくる事を。
だが、そうした気配はなかったのである。
リシアは大きな溜め息を吐く。
「私はあの男に何を求めているのだろう――」
リシアは立ち上がると、バックパックを持ち上げる。
不慣れな世界で一人。
少しだけ不安の感情が芽生えたのだと、リシアは自分を納得させる。
一度あの男にバックパックを返したのは、これ以上借りを作りたくなかったからである。
だが、パンプスより動きやすいトレッキングシューズは、返そうとしなかったのだ。
整合性がないが、合理的な判断のはずだった。
そこに矛盾があると、リシアは自覚していた。
荷袋よりはバックパックの方が携帯性に優れている現実を、無視していたからである。
それでもリシアは、あの男に、借りを作りたくないという意思表示をしたかったというのが、無自覚の本音だった。素直になろうと思っても、あの男の顔が思い浮かぶと瞬時に敵愾心が溢れてしまうのだ。
だから違うのだ。
借りでは無く、ルリを助けるために、あの男も利用しているだけなのだと、リシアは考え直した。
非礼を働き侮辱したことへの償いであり、弁済である。
受け取ってもなんら負い目は感じる必要のない、代償なのだ。
そう結論づけ、リシアは心の平衡を保つことにした。
リシアは、メノスの首筋を撫でながら、鞍に積んだままの荷袋を開け、パンプスを出してバックパックに戻した。
その時、リシアの耳元に、微かな音が風に運ばれてきた。
視線を転じたリシアは草原の先、遠くで何かが動くのを見た。
目をこらすと、人のような姿が見える。
それが精霊王の移動に伴う暴風によって住む場所を失った、避難民だとリシアは直感した。
直後に、プロソデアの忠告を思い出していた。
飢えた人々が集まる難民キャンプのような地域を通るのは危険だから、避けるようにと言われていたのだ。
リシアはバックパックを背負い、手綱を解きメノスに跨がった。
難民を助けたいという想いはあっても、ルリを助けるために先を急ぐとリシアは決めていた。彼らに関わって本末転倒の結果になれば、生きる目的すら違えてしまうからである。
その想いを胸に刻み、リシアはメノスに乗って街道に戻る。
接近を許す前に離れるべきだとリシアは決意して、走らせた。
草原では駆けながら地面の凹凸を見極められず、窪地に落ちたり湿地に嵌まったり危険な生物がいたりと、リスクが多いからである。
だがすぐに、街道もリスクだと悟った。
街道を行けば姿を晒すだけでなく、進行方向も限定され、狙いが定められるのだ。
何やら叫ぶ声が聞こえた。
だがリシアには意味が分からない。
襲われるかも知れないという恐怖心から、メノスの速度を上げていた。
前方、道の両側に茂みが揺れた。
風ではない。
揺れる方向が様々ある。
異変を感じ、速度を上げて駆け抜けようとし矢先、茂みで人が立ち上がり、何かを投げてきた。
何かが回転しながら飛んでくる。
ロープの端には錘が付けられた武器、ボーラだった。
飛び越えようと手綱を繰るが、メノスの反応は鈍かった。
修練不足と調教不足である。
ボーラが脚に絡まり、メノスが倒れる。
リシアは咄嗟に鐙から足を外し、鞍を蹴って跳んだ。
空中でバックパックを前に回して抱きかかえる。
着地と同時に前方へ受け身を取って転がり衝撃を逃がす。
二回転して立ち上がるや、リシアは草原へと駆け入った。
バックパックを背負いながらちらと振り返る。
乗っていたメノスは、立ち上がろうとしてすぐに倒れた。
骨折したのだ。
「ごめん――」
メノスを見捨て、リシアは駆けた。
ざっと左右を見る。
腰ほどの背丈の草がいくつも揺れている。
腰をかがめて走る、人だった。
多勢に無勢の不利を悟り、リシアは止まらずに走り続けた。
周囲を見つつ何度か方向を転じ、投げてくるボーラを避けながら尚も止まらずに走ると、次第に追っ手の数が減った。
それでも駆け続けた。
荒れ地に出ると、追ってくる人の姿が見えた。
皆痩せて、野獣の目をしている。
振り切れると確信して、リシアは再び草原へと駆け入った。
不思議と、精の循環の呼吸をしていると疲労が少ない。
呼吸のリズムを崩さなければ、体が勝手に走り続けてくれる感覚に満ちる。
リシアは走り続けた。
追い掛けてくる人の姿が見当たらなくなっても走った。
風でそよぐ草さえ、襲撃者に思えて恐ろしく、駆けた。
長い時間駆け続けると、さすがに息が苦しくなり喉も乾いた。
振り返るともう、追っ手の姿はなかった。
リシアは走る速度を落とした。
まだ走り続けようとする体を抑え、歩いた。
気が緩むと呼吸が乱れ、忘れかけていた肉体の疲労を感じるようになる。
足を止め呼吸が整うのを待ちながら、リシアは見捨てたメノスを想った。
助けられる可能性を自問して、助けられなかったと結論づけて自分を納得させる。
襲撃者が飢えた難民なら、メノスは食料と見なされる。人の命の糧となったと考え、心の痛みを癒すのだった。
喉の渇きを感じ、バックパックのサイドポケットを手で探る。
左右に入っていたはずのペットボトルが一本、無くなっていた。
残った一本のキャップを開け、一口飲む。
少しだけ生き残った感覚が芽生えてきた。
現在位置を確かめるため、リシアは地図を出した。
休憩の際に、バックパックのポケットに入れていたのが幸いしたのだ。
ただ、略地図では街道を逸れた現在地は特定出来なかった。
無意識に、リシアは手をスカートのポケットへと入れていた。
指先に触れたのは、あの男がくれたお守りだった。
逃げ切れたのがお守りの効果だったとは想わないが、バックパックをくれたあの男にリシアは感謝するしかなかった。
鞍に積んだ荷袋だけなら、水も食料も失っていたからである。
草を踏み固めて平にすると、バックパックの中にあったエマージェンシーシートを敷き、リシアは座った。また、保存用の乾パンのようなレデーブを見付け、一口かじる。一気に食べたい欲求を抑え、ゆっくりと噛み締めながら食べ、水を飲む。
それから目を閉じ、少しだけ仮眠しようとした。
だが、寝付けなかった。
周囲を警戒し、人影が見えないのを確かめると、荷物を仕舞い、歩き出した。
徐々に速度を上げ、軽く走り出す。
精の循環をイメージしながら歩調に合わせた呼吸を心掛けた。
少しずつ体に何かが満ちてくるのを感じた。
これが精なのかと思いながら、少し速度を上げる。
草が払われた走りやすい筋のような道を見付け、リシアは走った。
慣れた頃だった。
不意に地面が揺れ、リシアは慌てて横に飛んだ。
湿地か軟弱地盤かと思ったが、違った。
その地面が盛り上がり、土塊が人の姿になったのだ。
ゴーレム、ではない。
地の精霊である。
リシアは驚きつつも身構える。
低く唸るような抑揚の音が聞こえた。
言葉として認識はできなかった。
敵ならば逃げるしかないが、それは難しい。
だが、契約精霊の助力なくして人間が戦えば必ず負ける、というのがプロソデアの話だった。
リシアが戦って勝てる見込みはない。
精神力や意志力による戦う方法もあるようだが、精霊自身が自己否定するような精神状態まで追い込まなくてはならず、そのためにはそもそも会話が成立しなければならないのだ。
土の手が伸びてきた。
反射的にリシアは飛び退く。
次々と地面から手が飛び出し、掴みかかってくる。
背を向けるのは危険であるため、地の精霊を見ながら地面から伸びてくる手を避け続ける。
リシアは距離を取ろうとしたが、飛び退いた分だけ地の精霊も間合いを詰めてくる。
ただ、繰り返される攻撃は、単調だった。
何が目的なのか不明だった。
段々苛立ちを覚えたリシアは、スカートのポケットに右手を入れ、シークレットファスナーを開けて内側に差し込むとガーターベルトに仕込んでいた暗器の鉄針を一本抜いて地の精霊に向けて投げる。
土塊の胸に刺さった。
地の精霊は動きを止め、人真似をするように首を傾げる。
ただ、それだけだった。
リシアはもう一本鉄針を抜いて右手に隠し持ち、身構える。
動揺する心を落ち着けるように左手は無意識のままポケットをまさぐっていた。
「何の用?」
元の世界の言葉でリシアは問うていた。
だが地の精霊は首を傾け、土塊で形作られた眉をしかめている。
この世界には、大きく五つの言語体系がある。
プロソデアやトルプが話すのは天の種族の言葉であり、イウスンジやこの領域の人々が話すのは風の種族の言葉である。リシアが通訳精霊のディミから言葉を学んだのは、風の種族の言葉だった。
「ヨーワー・カツマイティ・ブラインガ」
地の精霊が発した声は、言葉のようだった。
だが、分からなかった。聞いた事があるようで知らない言葉は、イウスンジが使う風の種族の言語とは違い、プロソデアやトルプが話す天の種族の言葉とも異なっている。
リシアは、習得した数少ない定型文を思い出した。
「あなたの言葉が分かりません。イアーサドゥク・ウーサナッ・アボトゥック・オンヌ・イーザック・ユコズーシュ(風の種族の言葉で話してください)」
「デン・ヨー・イル・ペリシ」
地の精霊の不気味な声が低く響く。
やはり、耳慣れない言語だった。
不意に、地中から石の槍が突き出てくる。
リシアは大きく後ろに飛んで避ける。
地の精霊が立つ足元の地面から、幾つもの石の槍が次々と生み出される。
それらが同時に投げ放たれたなら避けきれないとリシアは死を予感した。
その瞬間、唸るような風の音が頬を掠めて行った――。




