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白猫と勇者~裏物語~  作者: 八陽
第1章 罠
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1-03 闇

 緒志おし梨詩愛りしあは山道を駆け登っていた。

 スカートの裾を両手で持ち上げ、パンプスを履く足で駆ける。

 胸の内は後悔に溢れていた。



「油断した――」



 瑠璃が統真に会いに行ったと知った時、それなら安全だと気を緩めた自分を呪う。

 行き場所が分かり、走って追いかけるのを止めた怠惰を悔いる。

 侍女として相応しい身だしなみを保とうとしたからである。

 我が身我が事を優先した結果、義務を疎かにしたのだ。



 何のための養育係か。

 何のための警護役か。

 何のための目付役か。



 瑠璃を護る役目を果たせなかった以上、解雇は覚悟していた。

 だがその前に、無事に救い出す決意を固めていた。

 それを、最後の務めとするためである。


 梨詩愛にとって、瑠璃を護る事が人生のすべてだった。

 無意味無価値と思っていた自分に、生き甲斐を与えてくれたのが瑠璃だからである。

 梨詩愛にとっての瑠璃は、肉親以上に大切な妹のような存在だった。


 不器用で意地っ張りで負けん気が強いが、瑠璃は優しい子だった。


 発熱と頭痛に苦しみ母親の愛情を受けずにいながら、笑顔を見せてくれる子だった。

 病弱で手が掛かるからと母親に疎まれ、父親からも厄介者扱いされていたにも関わらず、瑠璃は健気だった。


 両親から邪険に扱われていた境遇が似ていたことも、梨詩愛の心を揺さぶったのだ。

 そうした経緯があり、瑠璃を生かす道が、梨詩愛の生きる道となったのである。



「なんとしてもお嬢様を助ける!」

 固い決意を心に刻み、梨詩愛は駆ける。



 服装は問題ない。

 ピナフォア・ドレスは着慣れている。

 最低限の武器もある。


 ただ、パンプスがネックだった。

 湧き水でぬかるんだ道や岩場で滑る。

 何度か足を挫きそうになりながら、駆け登る。

 それでも誰にも負けない確たる決意が梨詩愛にはあった。


 規則的な呼吸を心掛けて山道を駆け登りながら梨詩愛は、少し冷静になった。

 肉体の動きと思考を切り離したことで、疑問が芽生えたのだ。


「どうして裏山の洞窟なのかしら――」


 脳裏に芽生えた疑問が、すぐに肥大化する。

 瑠璃を誘拐した犯人が、わざわざ山を登って洞窟に連れ込む、合理的な理由が見当たらないのだ。



「まさか――」


 別の可能性に気づいた梨詩愛は、焦った。

 この山の中腹にある洞窟は、あの男、久磨優途の妻が亡くなった場所だった。

 しかも、その死には疑惑がある。


 あの男は、洞窟に入った妻が戻ってこないからと、夜中に一人で捜しに行き、洞窟の奥深くで妻の遺体を発見したという。

 その後、一度家に戻ったあの男は、警察や消防に連絡せず、当時まだ幼い息子を連れて再び洞窟に入ったのだ。


 どう考えても、その行動は不自然だった。


 家から洞窟の奥までの往復には、六時間はかかるという。

 警察と消防が救助に向かって発見するまで、丸一日以上あの男は妻の死を隠蔽し、その遺体を冷たい洞窟の奥に放置していたのだ。

 しかも、妻の死因は心臓麻痺とされたが、殴られた痕もあったと言われている。


 警察が当初、あの男の犯行を疑ったのは必然だった。


 あの男は妻殺害を否認した。

 当然ながら警察は信じなかった。

 身柄が拘束され、捜査が続けられた。

 ところが最終的に検察は、嫌疑不十分として起訴を断念したのだ。

 詳しい事情は分からないが、あの男の義父が用立てた弁護士と調査チームによって、洞窟の奥は時間によって致死性のガスが充満すると立証したとそうである。


 あの男の妻は、事故死として処理されたのだ。


 しかし、あの男が致死性のガスが発生すると知っていて、妻を洞窟の奥へ行かせた疑惑が晴れた訳ではない。

 嫌疑不十分とは、法的に無罪とされるが、無実が証明されてはいないからである。

 山間の過疎地でもあり、その事件の噂はすぐに広まった。

 統真が通っていた学校でも噂となった。

 そのために統真は、妻殺しの犯人の息子としていじめられるようになったのだ。



「あの男――」



 人間性に問題があり、嫌悪しか感じない男だった。

 梨詩愛は、危険人物だと警戒していた。

 ただ、何事も無い平穏な日常によって覆われて行く中で、危機感は鈍化していたのだ。

 六年の交流によって瑠璃に危害を加える可能性は無いと判断していた自分を梨詩愛は呪った。

 同時に、戦慄した。


 あの男が、妙な性癖の持ち主ではないかと疑ったのだ。


 瑠璃と二人きりになる瞬間を狙い、計画的犯行を行った可能性を想像した。

 それを仮定すれば、統真からだというメールの受信すら、アリバイ作りの偽装工作であるように見える。


 嫌な想像をして自己嫌悪に陥りかけて、梨詩愛は冷静になった。

 あの男が車でどこかに出かけていた事実を踏まえれば、犯行を終え、洞窟まで往復する時間的余裕はないはずだからだ。


 あの男が瑠璃に手を掛けた可能性が減ったことに、梨詩愛は望みを繋いだ。

 だが誘拐犯が瑠璃を洞窟に連れ込んだ理由を、説明できなかった。

 そもそも、誘拐犯が実在することも、疑問だった。


 情況証拠は、誘拐を決定づけることはない。

 走り去った三台の黒のワゴン車。

 工房の道具の消失。

 荒らされた母屋。

 そして、統真からとされるメール。


 様々な可能性を想像し、色濃く浮かび上がったおぞましい可能性に梨詩愛は身震いした。



「あの男、まさか私を?」



 梨詩愛はかつて、あの男とは別だが、襲われた経験があった。

 幸いにして古武術を習得していたため、すべて撃退している。

 その時は、体力に余裕があった。


 だが、今回は異なる。

 裏山の洞窟まで駆け登って体力が削られ、そのまま洞窟の中を探し回る事を強いられ心身の消耗が強いられるのだ。

 そうして疲れて弱ったところで拘束され、暴行される可能性を、梨詩愛は想い戦慄した。


 誘拐犯が瑠璃を洞窟に連れ込んだというのが、罠だと思えた。

 あの男のテリトリーとなる洞窟に誘い込むための策略だと思うと、梨詩愛には納得できた。


 あの男から時折色目が向けられているのに、梨詩愛は気付いていたからである。

 歪んだ情欲を向けられていたと思うと、梨詩愛は狂いそうになる。

 気持ち悪さに怖気が走る。

 人を避けるように山中で暮らしているあの男の存在自体が、そもそも怪しいのだ。



 紙漉き職人というのも怪しい。

 生計を立てられるほどに売れている様子がないのだ。

 たまに紙漉き体験をさせて日銭を稼いでいるのを知っているが、梨詩愛が目撃したのは、女子大生相手に相好を崩しながら手を取って密着するように教えている姿だった。


 目つきも気にくわない。

 たまに鋭い眼差しをするのを見たことがある。

 隠し事をしている人間の目つきだった。

 思い返せば、殺意に似た狂気を抱く目のようだった。


 それも、犯罪者としての心の疾しさがあるのを前提とすることで、梨詩愛は納得できた。


 初対面で梨詩愛は、あの男は只者ではないと感じた。

 弱そうに見えるが芯が強く、豪胆な性格に思えたからである。

 それがいつの間にか、性格の悪さと無神経さと愚かさを見せられて、間抜けな愚か者という認識で上書きしていたのだ。


 梨詩愛は走るペースを落とした。

 体力温存のためである。

 そして、心を決める。

 体力を残したまま先に洞窟に入り、どこかに身を隠してあの男が来るのを待ち、捕まえようというのだ。

 捕まえて、瑠璃の居場所を吐かせる方が、簡単なのだ。


 登山道が木立を抜けた。

 視界が開け、ガレ場に出た。

 この先に、山腹の窪地にぽっかりと口を開けた洞窟が見える、はずだった。

 だが、そこにあり得ない人影を見て、梨詩愛は立ち止まった。


 あの男が、洞窟の入口となる窪地の縁に立っていたのだ。

 バックパックを一つは背負い、一つは前に掛けている。

 準備は万端整えていながら、自分より早く着いている。

 梨詩愛が教えられていた登山ルートとは別に、近道があったのだ。



 洞窟だけでなく、この裏山全体がこの男のテリトリーだった。

 気付かずにいた愚かさを悔いながらも、梨詩愛は疑惑を確信した。

 それに、架空の誘拐犯より、見える敵ならば対処が楽だと自分に言い聞かせるのだった。


 梨詩愛は、深呼吸して心を鎮めた。


 過去も含め、悪事の証拠を掴む絶好の機会だと考えてみた。

 この男、優途が犯罪者と判明すれば、その息子である統真との関係を瑠璃に絶たせる大義名分ができるのだ。

 瑠璃が統真と別の高校に進学しただけでは断ち切れなかった関係も、これで整理が付くのは歓迎すべきであった。

 統真が瑠璃にくれたお守りの効果で元気になったという迷信も、終わらせるいい機会となる。


 ただし、瑠璃が無事だった場合の想定である。


 万が一の可能性、想像したくない仮定を元にした覚悟も、梨詩愛は決めていた。

 最悪の事態となっていた場合にはこの手で報復すると、冷静なまでに想定していた。

 固い決意を胸に抱き、梨詩愛は男を睨み付けた。



「どうしてあなたが居るのです」



 梨詩愛の冷たく問う声が、洞窟の奥へと吸い込まれていくように、静かに響いた。


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