1-02 陰
優途は紙漉き職人である。
妻と共に師匠の家と工房を受け継ぎ、和紙造りを営んできた。
だが妻は七年前に他界したことで、優途にとっての工房は、妻との思い出の場所でもあった。
それが、奪われたのだ。
完成品の在庫は元より、仕掛品、失敗品、仕込み品、材料の下処理中の物、だけでなく、道具なども一切が失われている。
以前、狭くて汚いと梨詩愛に評された機能的密集状態は、見る影もなかった。
残されていたのは、土間に据え付けられている水槽と、重くかさばる長櫃だけだった。
その長櫃も蓋は開けられ、中身は空になっている。
中に入れていた優途の妻が書き残した作業ノートも奪われたのだ。
「あら、廃業したのですか?」
冗談を装った嫌味を言う梨詩愛を、優途は疎ましそうに見た。
普段なら軽口で応じるのだが、その余裕すら失っていたのだ。
優途の脳裏には、一連の記憶が蘇っていた。
それは二年前の来訪者の記憶だった。
その男は、奇術師毛房我願と名乗った。
だが、受け取った名刺に書かれていたその名をネットで検索してもヒットせず、記されていた住所は実在しないものだった。
すべてが怪しかった。
服装も独特で、黒のスーツを着て、禿頭にシルクハットを被っており、薄暗い工房の中でさえ丸いサングラスをかけ、杖を突き片足を少し引き摺るように歩いていた。
そして、男が欲しがったのは、雁皮紙だった。
これと同じ物が欲しいと言って男が優途に差し出した雁皮紙は、取引先を黙らせるために納めた、優途の妻が漉いた紙だった。
優途は同じ物だと言って自分が漉いた紙を差し出したが、それは使えないと毛房に言われたのだ。
今年の春毛房は再び現れ、改めて優途は自分が漉いた紙を見せたのだが、やはり違うと言われたのだ。それなら売る物はないと優途は断ったが、売ってくれないなら製法を教えろと凄まれたのだ。
奇術をするためにどうしても必要だと、鬼気迫る雰囲気を毛房は纏っていた。
奇術師と言うが、表ではなく裏の稼業の者だと優途は確信し、身に危険が及ぶ可能性を危惧し、もう二度と来るなと毅然と断ったのである。
だが結果として、拒絶は何の効果もなかった。
奇術師なら、紙漉きの道具をごっそりと略奪する方法を編み出すのも簡単なはずだった。
こうした事情から優途は、毛房我願の仕業と確信したのである。
「統真! いたら返事をしてくれ」
優途は息子の名を呼びながら、工房と繋がる母屋へと向かった。
母屋の中は、ゴミ屋敷のような有様だった。
あらゆる収納から物が引き出されて床に散らばり、その中には食器やガラスなどの破片も混じっている。
一瞬ためらうも優途は、荒らされた室内に土足のまま上がる。
優途は生活の場を破壊された怒りを噛み締める。
居間も台所も寝室も浴室もトイレも。
すべての部屋が荒らさされている。
そして、統真の応答も、姿もない。
工房に戻った優途は、焦った表情の梨詩愛に迎えられた。
「どういうことです? お嬢様は?」
「統真と一緒に上の高原にいると思いたいな」
「連絡してみます」
梨詩愛はスマートフォンを取り出した。
「安易にかけるな。万が一を考えるんだ」
「誘拐されたとでも?」
優途はうなずいた。
スマートフォンを隠し持っていた場合、連絡すれば所持を犯人に気付かれるかもしれないのだ。
そのリスクを避けるべきであった。
「さっきの暴走ワゴンだ。あいつ等、俺の工房の物をごっそりと持って行ったようだ」
「でしたら、追いかけましょう」
「当てもなくか?」
「悠長なこと言ってはいられません。お嬢様の窮地なのですよ」
梨詩愛は言いながら駆け出していた。
軽ワゴンの運転席に飛び乗ってドアを閉めた梨詩愛は、ハンドルを握らずに手をさ迷わせた。
優途の軽ワゴンには、エンジンのスタートボタンはなく、昔ながらのキーを捻ってセルを回すタイプだったからである。
すぐに気付いた梨詩愛は、ドアを開けて半分体を乗り出して優途を睨んだ。
「鍵は!」
「盗まれないための習慣さ」
優途は、キーホルダーを指先で回してみせる。
「貸しなさい」
「断る」
「あなたは、お嬢様を見殺しにする気ですか」
梨詩愛は車から降りると、肩を怒らせながら優途へと迫った。
彼女は瑠璃の侍女であり、炊事洗濯掃除、家庭教師に母親代わりという万能な才能を持っている。そうした役割には身辺警護も含まれており、当然ながら武術も身につけている。
対する優途には、喧嘩の経験さえほとんどなかった。
あるのは、衝動的に暴力での解決を試みようとする人への、反骨心だけである。
「瑠璃ちゃんが誘拐されたなら、統真が初手を打っているはずだ。それにファロウもいる」
「猫に何が出来ると言うのです」
「ファロウには影が無いんだ」
「猫に陰日向があるわけないでしょう」
呆れたと言うように梨詩愛は大げさな溜め息を吐いた。
戦意を喪失させた効果に優途が微笑むと、梨詩愛は不機嫌そうに眉を顰める。
「そう言えば、あのワゴン車が来る前、あなたに着信がありましたね。誰からです?」
「そういえば、あったな。忘れていた」
優途はジャケットからスマートフォンを取り出して確かめた。
メッセージアプリを使わないと頑なに拒む優途に合わせて、嫌々ながら統真が使う携帯メールの着信だった。
文面は短い。
「洞窟に入る。左奥隠し穴見ろ」
それだけだった。一瞬で読み終え、反射的に家屋の裏手にある山の中腹に視線を向けた。
「どうしたのです?」
「統真からだ。洞窟に入るとだけ」
「洞窟? お嬢様と?」
「そこまで書いてないが――」
優途が言い終わる前に梨詩愛は走り出していた。
「困ったお嬢さんだ」
梨詩愛は工房へと駆け込み、反対側の勝手口から出ていく。
優途はすぐに追い掛けたが、梨詩愛の後ろ姿は登山道へと入って行き見えなくなった。
追跡を諦めた優途は立ち止まり、裏山を見上げた。
すぐに背を向けて工房へと歩みながら優途は統真に電話をかけたが、電波が通じないという案内が聞こえてくるだけだった。
裏山の中腹に、洞窟の入口がある。
そこには入るなと、統真が幼少期の頃から優途は何度も言い続けている。
だが統真は、言いつけを破り、何度も洞窟へと入っている。
優途はその事実を知っているが、統真は未だに知られていないと思っているのだ。
ただ洞窟に入るだけなら、統真は無断で入っている。
優途に断りの連絡を入れた事こそが、普通の状況にないと物語っているのだ。
つまり、瑠璃が毛房我願に誘拐され、統真は自分一人では助けられないと判断したのである。
荒らされた母屋に入った優途は、散らかった家財の中から必要な道具を探し集め二つのバックパックに詰め込んだ。
工房に出ると、空になった長櫃にバックパックを入れ、その縁に両手を掛けて押した。
ズリズリと土間を削りながら長櫃を動かし、庭先に残っていたシャベルで地面を掘り、地中に埋められていた木箱を取り出した。
中に入っているのは、優途の妻、真結が漉いた、残り最後の雁皮紙とその原料だった。
「奴はこれが欲しいはずだ」
優途は雁皮紙を自分のバックパックに入れて背負い、もう一つを抱くように前に掛ける。
深呼吸して気を引き締めると、母屋と工房の間にある神棚に近づいた。
倒れた遺影を立て、変わらぬ若き姿の妻を見る。
「真結、俺に力を貸してくれ」
目に見えぬ何かに祈りを捧げて優途は外へ飛び出す。
そして木々に遮られて見えない裏山の中腹にある洞窟を目指し、山道へと駆け入った――。