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白猫と勇者~裏物語~  作者: 八陽
第1章 罠
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1-01 失

 軽ワゴンが山道を登っている。

 住宅の姿は見えなくなり、右手には段々畑が続いている。

 新緑が穏やかな陽射しを柔らかく弾いていた。


 運転席の久磨くま優途ゆうとは、窓を開け山の空気を吸った。


 山間の谷筋を流れる川のせせらぎが、管楽器を奏でるように聞こえる。

 風が流れると、若草から香り立つ息吹を運が運ばれてくる。

 畑の先に広がる森から命の育みを競う鳥たちのさえずりが、初夏に向かう命を湛えていた。


「おや?」


 優途は前方に、場違いな服装をした女性の姿を見付けた。

 長い黒髪を頭の後ろでまとめ、ピナフォア・ドレスを着ている。

 俗にいうメイド服の女性。

 凛とした姿勢で歩く後ろ姿も美しい、梨詩愛りしあである。


 息子の統真とうまの幼馴染み、瑠璃るりと共に暮らす自称侍女であった。

 優途は車の速度を落とし、梨詩愛の歩みに合わせると、窓から微笑みを向けた。

 その途端彼女は苛立ちを堪えるように目を伏せ、露骨に溜め息を吐き出す。

 冷ややかな眼差しを向けられた優途は、そうした彼女の振る舞いに気付かない鈍感さを装っていた。



「乗っていくかい。うちに用があるんだろう?」

「やはり、お嬢様はそちらにお邪魔していましたか」

「朝にね。それより、瑠璃ちゃんも知恵を付けた訳だ」

「悪しき人間に感化されたのです」

「色々な人間がいると知るのは――」


 いい経験になると言いかけた優途の声は、スマートフォンの着信音に遮られた。


「品のない音ですね」

「聴き方次第さ。ちなみに俺の作曲だ」


 優途が車を停めると、梨詩愛も立ち止まる。

 優途を嫌っていながら無視して歩き去らないのが、梨詩愛という女性だった。


 優途がスマートフォンを取ろうとコンソールボックスに手を伸ばした時、けたたましいクラクションの音が鳴り響いた。

 スマートフォンを手にした優途は、視線を上げ、前に向いた。


 道を登った先にある森の奥で、激しく明滅するライトが見えた。

 道を開けろと威嚇する、パッシングだった。

 直後、薄暗い森から、厳つい影が現れる。

 真っ黒なワゴンだった。

 スピードを落とすどころか、逆に加速しながら坂道を下ってくる。


 この道にはすれ違える道幅はなく、衝突すれば、優途が乗る軽ワゴンが弾き飛ばされそうだった。

 スマートフォンをジャケットのポケットに押し込むと優途は、ハンドルを握りシフトノブに手を乗せた。

 身の危険を素早く察知したらしく、梨詩愛は道の脇に連なる段々畑の畦へと飛び移っていく。


「私を巻き込まないでくださいね」

「分かっている」


 優途は後ろを向き、素早くリバースギアに入れアクセルを踏み込みクラッチをつないだ。

 タイヤが鳴り、蹴り飛ばされるような衝撃を受けながら、優途は軽ワゴンをバックさせる。


 エンジンが唸り、ギアが鳴りわめく。

 段々畑へと登る畦道を目がけ、ハンドルを切る。

 軽ワゴンはバックで畦道を登ったが、右後輪が畦から落ち、車体が激しく揺れた。

 荷室に置いていた買い物袋が倒れて食材が転がり出し、車体の底が地面にぶち当たりガリっと車体の底を擦る音が響いた。


 優途は慌ててブレーキを踏んだが、クラッチを切り忘れ、エンストしてガクンと車体が震えた。

 フロントバンパーを掠めるように黒のワゴン車が走り抜けていく。



「あいつら――」

 優途は無事であることに安堵しながら、通り過ぎた坂の下を鋭い眼差しで睨み付けた。

 走り去った黒のワゴン車は、三台連なっていた。

 どの車輌も、前部座席の窓に色の濃いスモークフィルムを貼っていて、運転手の姿が見えなかった。

 見るからに怪しい連中であるが、関わりたくないいくつかの事情から、優途は警察に通報しようとはしなかった。

 代わりに、暴走ワゴン車が事故を起こして誰かが巻き込まれないように祈るのである。


 耳を澄まし事故が起きたような音がしないのを確かめてから、優途はエンジンを掛け直した。

 慎重にクラッチを繋いで前進させ、脱輪した後輪を畦道へと乗り上げることに成功すると、ギアをニュートラルにしてパーキングブレーキを掛けて優途は車から降りた。

 車の後ろに回った優途は、畦の縁が崩れただけで、植えられていた麦が無事なのを確かめて、胸をなで下ろした。


「あとでお詫びに行かないとな――」

 優途は空を見上げ、「やれやれ」と呟きながら髪を掻き上げた。

 普通の人なら笑って許されることであっても、優途は例外扱いされることが多い。事実無根であっても悪しきレッテルを貼られた優途への風当たりは、未だに厳しいからである。


「惜しかったですね」


 嬉しそうに弾ませた声が聞こえた。

 視線を上げた優途は、梨詩愛が小憎らしい微笑みを浮かべながら近づいてくる姿を目にしたのである。


「何が? と、あえて聞いておこうか」

「色々と。奥ゆかしい私には、あえて口には致しかねます」

「気を遣わせたな。なら聞くのはやめておこう。それでどうする? 乗っていくか?」



 優途は試すように梨詩愛を見る。

 車ならここから家まで一〇分かからないが、歩けば一時間近くかかる。

 梨詩愛の目に移ろう心の葛藤が浮かんでいた。


 困惑し、

 敵意を示し、

 理性を取り戻し、

 打算的合理性を纏う。


 最後にすべてを隠すように冷めた眼差しになったが、露骨な警戒心を表情に残していた。



「では、虎穴に入る覚悟で乗せて頂きます」

「狼の巣窟かも知れないぜ」

「悪しき狼なら、私が退治します」

「絶滅したと言われているんだ。見付けたら保護してくれよ」

「でしたら、檻の中に隔離して差し上げましょう」


「保護という名の飼い殺しか?」

「害獣駆除です」

「それは無用だ。普段は人畜無害だからね」

「今夜は満月ですので、正体を暴いてさしあげます」

「お手柔らかに」



「夜まで居座るつもりなのか」と揶揄しかけて、優途は運転席に座った。紳士を装って助手席に回ってドアを開けるような気の利いた行為は、しない。彼女は望んでいないし、むしろ警戒されると知っているからである。


 梨詩愛は用心深く慎重に助手席のドアを開けると、安っぽいシートが気になるらしく、手で触れながら慎重に状態を確かめている。

 罠がないと納得したように、小さくうなずいて車に乗り込んだ。

 体の収まりが悪いのか、梨詩愛は何度も座り直してから、ようやくドアを閉めシートベルトを締めた。



「悪いね」

「なんのことでしょう」

「高級車じゃなくて」

「分相応でいいと思います」

「そりゃ、どうも」



 優途はゆっくりと車を走らせた。

 安全第一で運転する山道を走行する間、二人に会話はなかった。

 ただ梨詩愛の表情は硬く、口を結び、腿の上に乗せた手を握り締めている。


 優途はドアミラーを見る振りをして梨詩愛の様子を確かめた。

 警戒心を露骨に示して妙な気を起こすなと警告する様子を見た優途は、気付かない鈍感さを装い、緊迫した雰囲気から逃れるために口を開いた。



「ところで、君はどうして徒歩なんだ?」

「お嬢様と散歩に出かけたのです。ですがお嬢様は途中に隠していた自転車に乗って、私を置いて行ってしまったのです」

「瑠璃ちゃんも、やるようになった」

「どなたかに悪知恵を付けられたのです。お嬢様の交友関係を正さなくてはなりません」

「高校生になったんだ。自立する訓練も必要さ」

「程度問題です。高校生になったばかりなのですよ。それもこれもあな――」

「いい変化だ」



 優途は定型句になりつつある梨詩愛の言葉を遮った。

 年齢が上がったことで優途の息子である統真は、瑠璃にとって幼馴染みの友達というだけの枠組みから外れ、異性の男として要注意人物に格上げされたのである。

 保護者代わりでもある梨詩愛は、責任感によって統真を遠ざけようと試みているようであった。

 だが当の瑠璃は、自然と自立の道を歩き始め、大人へと成長している。



「相変わらず無責任ですね」

「元気になったことを、喜ぶべきだ」

「人目を盗んで男に会いに行くのは、ふしだらな行為です」

「それは言い過ぎだ。ちゃんと俺に挨拶してくれたぞ」

「あなたが鈍感だからです。お嬢様の清さが損なわれたら一生涯の汚点です」


「まだ高校一年だ」


「いいえ。若さ故の過ちだってあるでしょうし、世の中には早い子もいるのです。そんなことも知らない無知だから、あなたは無責任なのです」

「大丈夫さ。統真には遠慮深くあれ、と教えている」

「それは聞き捨てならない言葉です。お嬢様は浅はかだというのですか?」

「言葉の通りだよ。君は裏読みしすぎだ」


「全く――」

 梨詩愛は溜め息を吐く。

「親が親だから心配になるのです」

「悪かったな」

 優途は急ハンドルを切り、車が大きく揺れた。


「だからって!」

「舌噛むぞ」



 優途は何も、梨詩愛の悪態に報復したのではない。

 話に気を取られ、自宅へと向かう未舗装の斜面へと曲がり損ねそうになっただけである。


 軽ワゴンは左右と上下に大きく揺れながら、整地されずに凹凸が激しい砂利の斜面を登っていく。

 左側は踏み外せば転落を免れない急斜面、右側は枝葉が突き出る藪となっており、軽ワゴンが通るのがやっとの道幅だった。

 優途は異変に気付き、「まさか」と呟いてアクセルを踏み込んだ。

 路面の凹凸で車が大きく跳ねる。

 荷室にある、返品された紙の束が大きく飛び跳ねる音が追従する。

 大きく体を揺すられ、天井に頭を打ちそうになった梨詩愛は手を天上に突いて体を支えた。



「ちょっと! 子供染みた報復ですか?」

「そうじゃない。この道を車が通った跡がある」



 優途は右側の藪へと顎を向けた。

 右側の藪から突き出た枝が、坂の上に向かってすべて折れている。

 左側を見れば斜面の縁が明らかに崩れており、そこには真新しい太いタイヤの跡が残されていた。

 明らかに大きい車が通った痕跡である。


 狭い斜面を登りきると、木立のトンネルを抜け、空が開けた。

 切り開いて作った畑と平屋の家屋が現れる。


 明るさに目がくらむ。

 何事もないように見えた優途の家だが、目が慣れるにつれ、異変が明らかになる。


 母屋の前の畑が車のタイヤと足跡で踏みにじられており、玄関脇に止めてあった瑠璃の自転車がひしゃげて倒れている。

 そして何より、母屋の左側に建つ工房の戸が、内側から爆発したように外側に向かって壊れている。

 極めて異常な状況が目の前に広がっていた。



「くそ。油断したか――」

「何が? どうしたのです?」



 梨詩愛の問いに答える余裕も無く、優途は畑の手前で車を停めてエンジンを切り、ドアを開けて降りながらキーホルダーリングに指を引っかけて鍵を抜きながら、戸が開け放たれた工房へと走って中へと入っていく。

 だが、薄暗い工房に駆け込んだ優途は、愕然と立ち尽くした。


 そこにあるはずの物がすべて、失われていた――。


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