螺旋怪談
「誰かいますか?」
扉の開かないトイレに、ノックを三回。返事はない。
その結果が彼を満足させた。
「よし。これで四〇〇個目だな」
事の発端は実に下らない。ある日の事。便意を催した彼がトイレに行った所、全ての個室に鍵が掛かっていたのだ。足元から内部を覗いたが、誰も居ない。スマホのカメラを使って内部の鍵を確認するも、何かが映り込む事は無い。
学校に限った話ではないが、災害などで鍵が歪み、中の人が出られなくなるという事態にならない為に、トイレの上部には必ず人が出入りできるゆとりがある。人が居ないにも拘らず鍵が掛かっている状況の真実とはさしづめ誰かの悪戯なのだろうが、ちょっと待て。
本当にそうか?
もしかしたら、違うかもしれない。彼は現行犯で現場を見た事はない。もしかしたらもっと別の…………何らかの作戦の為に政府の秘密組織が鍵を掛けているのかもしれないし、もっと単純な所で言えば、幽霊とか妖精とかがやったのかもしれない。
真実を調査するべく、彼は暇さえあれば開かずのトイレに手当たり次第ノックしている。基本的には勿論人が入っているのだが、それでも不自然に開かないトイレというものはまあまああるもので、このトイレが四〇〇個目。この市のトイレ全てとは言わずとも、二割くらいはこれで確認したのではないだろうか。
今までの開かずのトイレは、破損、異物による物理的阻害、鍵、劣化により開かなかったのが殆どだ。一つだけ本当に原因不明の場所もあったが、ある日突然開いてしまい、それっきり普通のトイレに戻ったので除外する。
目の前のトイレは確認したので、残りのトイレは只一つ。特別古臭い様子は見受けられないので、劣化による施錠は無さそうだ。軽くノブを回してみても―――開かない。開かずではあるらしい。
コン、コン、コン。
「誰か居ますか?」
返事はない。ある筈も無い。ほんの少しの興味と関心と悪ふざけがこの調査の原動力だ。もしかしたら、と言っている時点で、彼にとって求めている答えは無いも同然。ロマンや非現実的な話を好く反面、彼は一種のリアリストでもあった。
だから不思議な存在など信じていない。この世界は科学が全てであり、それ以外の道理は全て妄想か科学が発達しなかった地域で生まれたおとぎ話だと思っている。
矛盾はしていない。あり得ないと思うからこそ追い求める。届かぬと知っているからこそ手を伸ばす。リアリストの反面、彼は生粋の冒険家でもあったのだ。
「…………るよ」
―――え?
また随分と間の置かれた返事に彼は虚を突かれた。慌てて足元から内部を確認するが、人間の足は見えない。
もう一度、叩く。
「誰か居るんですか?」
「…………いるよ」
さっきよりも聞き取れた。しかしまだ分からない。これだけでは主語が不明だ。
「もしかして、トイレの最中ですか?」
「…………に、居るよ」
「え?」
「お前の後ろに、居るよ」
「―――っていう夢なんだけどさ」
「くっだらねえ!」
あまりの下らなさに俺は貰ったカップ麺を吹き出しそうになった。夢に文句をつけても仕方ないのだが、それにしても稚拙すぎる。怖がらせるつもりだったのか、それとも単に怖い話として聞いてほしかったのか知らないが、どちらにしても酷い。季節外れの怪談話を聞かせるなら、せめて話をもう少しだけ洗練してくれないものか。
「お前さ、今、十二月だぞ? 季節外れな上にセンスまで無い。『実は面白い夢を見たんだけど』って言われて期待してみりゃ、こんなクソ話の為にわざわざ遊ぼうぜって言ったのかよ!」
「いや、お前と遊びたかったのは本当だよ。全然、ツリとかじゃなくてさ。僕は単に思い出したから言っただけ。どう思う?」
「どうもこうも、夢らしい無秩序な話だろ。もうすぐ年越しだぞ? なーに酔い覚めにピッタリな話してんだお前はー! 罰としてもう一本缶持ってこーい!」
「やれやれ。あんまり飲み過ぎても知らないよ? 後で僕に『どうして止めなかった!』とか詰め寄らないでね。とは言ってみたものの、大分酔いの回った人に説得なんて暖簾に腕押し程の手応えもない。お前の事だからどうせ今日話した事とか全部忘れちゃうんだろう。いつものパターンがそんな所だ。救いようがないねえ、全く」
「うるせえーなー! お前も酒飲んでんだろおおッ? そんなつまんねえ話してねえでよお、もっと盛り上がろうぜもっと!」
「はいはい」
追加の缶が直ぐに用意される。俺はそれを掻っ攫う様に取り上げると、乱暴にタブを起こして呷り呑んだ。酔いが覚めた後はいつも辛い事など分かっているのだが、既に脳みそは半分以上酒浸りだ。危機感を盛った所で、その危機を未然に防ぐ為の対応などするものか。俺の場合、酒は心をおおらかにしてしまう。酔い覚めした場合の事など微塵も危惧しちゃいない。死んではいないし事故も起こしてないので、何とかなるだろうの精神だ。
「話はちょっと似ちゃうんだけどさ。お前ってよく酔いつぶれて寝るじゃん? 現実と夢の区別がつかなくなったりしないのか?」
「あ? 夢なんか子供の時以来見てねえよ。何せお前と違って寝るのが早いからな!」
「もう十一時だけど」
「年越しの瞬間くらいは起きてたいだろうが!」
「正に羽目を外してるね。いやはや恐れ入った。僕はちょっとトイレに行ってくるから、冷蔵庫は勝手に漁らないでくれよ」
友人が席を立ち、一直線にトイレの方へ。最早何を考えているのか分からない、己でさえ理解出来ないまま俺は惰性でテレビを眺め続けていた。こういう時の特番は総じて面白い傾向にある。脳死で笑える番組は好きだ。
その時だった。番組を区切る形でニュースが流れてきたのは。普段なら気にも留めなかったが、今度ばかりは事情が違った。
『公衆便所から計四〇〇人の死体。被害者全員に共通点』
ニュースの内容を要約すると、市のトイレから男女無差別に四〇〇人の死体が一斉に見つかったそうだ。被害者は例外なく背中から滅多刺しにされているものの、血痕や犯人の手掛かりに繋がる物が何一つ見つからないらしい。それで情報提供を……というのが全容だが、少し似ている。
何って、友人の怪談話だ。季節外れでセンスの欠片も無い馬鹿話。偶然だとは思うが(世に陰謀論が蔓延っている以上、ある程度の道理はこじつけだけでも確保出来る)、少し怖い。このニュースを見越して俺に話したというなら、奴は天才だ。
「…………なあ! 聞いてくれよ! お前の夢の内容にそっくりなニュースが流れたんだ! 凄くないか!」
…………返事がない。
「……ん? おーい!」
…………やはり、返事はない。
心の底では僅かに恐怖を感じていた事もあり、またも俺の酔いは覚めてしまった。酷い冗談だ。もしくは俺を怖がらせようとしているのだろうか。確かにここで俺がトイレに確認へ向かい、ドアをノックすれば夢とシンクロする事になるが…………アイツは一つ勘違いしてる。
俺とアイツは親友だ。まさか親友の背中を刺す奴は居まい。
それに気づいた瞬間、心の中で燻っていた恐怖感は一気に消えた。演出の下手くそな漫画みたいなもので、絶対にそうならないと気付いた時、緊張感は一気に無くなる。緊張感のなくなったホラーなど茶番も同然なのだが、友達のよしみで、ここは一つ乗っかってやろう。
トイレの前まで移動し、ノブを回す。当然開かない。だって中に人が居るのだから。
「………………ッ」
わざとらしく唾を呑み込む。俺が背後を警戒するとでも思っているのだろうか。自宅に備え付けられたトイレに公衆便所と同じ仕様は殆どない。鍵が掛かっている時点でアイツが中に居るのは明らかなのだ。むしろ警戒する方が思うつぼ。大方背後に気をむけている所で前から現れるつもりだ。人間の意識は有限で、全方位には配れないのだから。
コン、コン、コン。
「おい、出て来いよ!」
そうだ、はやく出てこい。俺は背後なんぞ気にしない。普通に出て来ればいい。俺をあざ笑うつもりのアイツを、俺が逆に嘲笑ってやるのだ。
「―――居るよ」
「居るじゃねえか! 早く出て来いよ!」
後ろから声が聞こえる気がするが、それもきっとプラフだ。多分録音音声を流している。俺は騙されない。
「何で出てこないんだよ! ウンコでも漏らしたか!? ん?」
「―――に居るよ」
「いいから早く出て来いよ! 何か怖いじゃねえか、お前の夢と似た内容のニュースがやってたんだからさ! 安心させてくれよ―――!」
俺の演技力、中々のものではないか。次の就職先はどうしようかと思っていたのだが、ここは思い切って俳優にでもなってみようか。
「―――お前の後ろに、居るよ」
きたああああああああああああああ!
オチ、これがオチです! アイツのやりたかったオチ、そして俺が付き合ってあげたオチ。夢の内容が薄っぺらいので、茶番もこれで幕引きだ。
「ごめん。お前から足を辿られちゃしょうがないんだ」
否、そんなものはオチではない。茶番よりも早く人生の幕が引かれた。それがこの話のオチである。
「……………んッ」
背中から突き上げた衝撃をきっかけに俺は目を覚ました。どうやら夢を見ていたらしい。詳細な内容は流石に覚えていないが、親友と思っていた筈のアイツに殺される夢を見るなど縁起でもない。
今日の日付は一二月三一日。大晦日か。
そう言えばアイツも今日予定が無いとか言っていたっけ。
『なあ? 今日予定あるか?』
『実は面白い夢を見たんだよ。おまえにも聞かせてやりたいし、今日、一日遊ばないか?』
お誘いを残して、朝の支度を始める。財布と、車の鍵と、包丁。遊びに行くと言っても適当に駄弁って飯食うだけだし、大それた準備は必要ない。俺は只、普通に過ごしていればいいだけだ。何も気負う必要も、考える必要も無い。
今日はきっと素晴らしい一日になるだろう。
年末外れの心温まるいい話。