表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

作者: 香坂律稀

溝に落ちていく。何が? 誰も知りえない答えを探しても空しさで満たされるだけ。


あまりにも深すぎた溝だった。あまりにも大きすぎて、もう埋まることは無いだろうと分かる程の溝だった。その溝に、一つ、一つ落としていく。何を? 僕には分からない。



人っていう生き物は涙を流すんだって。誰から聞いたのか覚えていないけど、ずっと僕の中に残ってる。普通、悲しい時に泣くんだって。その「悲しい」が僕には分からないんだけどね。



───何時だっけ、「あれ」を見たのって。正確には思い出せない。感情なんて知らない僕なのに、「あれ」は美しいと確かに感じた。すらりとした肢体に長く、色素の少し薄くて、人というよりは僕に近いような感じがした。「あれ」は長い手足を楽しそうに、美しく動かしていた。それは「舞」と呼ばれるものらしいけど、僕はそれがどんな意味を持つのか知らなかった。「あれ」を拘束するものは無かった。自由に、美しく「舞う」「あれ」はとても良いものなのだと、何故か僕にも分かった。「あれ」はいつも何かに囲まれていた。とても幸せそうだった。幸せそうな「あれ」を見る度に僕の胸の中は何か抱いているような感覚になった。


「あれ」は僕が見てるのを知らない。僕も知ってもらおうなんて思わなかった。ただ美しい「あれ」を見ているのが「いつものこと」になっていった。毎日が過ぎるのが早くなった。



何回「毎日」を繰り返したのか、僕が分からなくなった日、「あれ」は泣いていた。どうしてだろう。何かあったのだろうか。そんなことが僕の胸の中を渦巻いていた。何故かいつも「あれ」を囲む何かが一つも無かった。白い肌をつたう二筋の水。普段なら何も思わない。思うという感覚も分からない。何でだろう。「あれ」が泣いていると思うと、何時もほんのりと桃色に染まっている頬に「涙」がつたっていると思うと、いてもたってもいられなくなった。



「あれ」にかかる影。僕はその影を通してじっと「あれ」を見ていた。どれだけそうしていただろう。不意に「あれ」が頭を上げた。濡れた頬が動いた。小さく桜色の唇が開いて、声にもならなかった息が漏れた。


「……………………なんで」

「え?」

「なんで泣いてるの」


考えれば、この時初めて声を出した気がする。多分初めて聞いた自分の声は高くて、幼くて、それがどうしようもなく悔しいような、情けないような気持ちになった。僕はこの時自分に「気持ち」があるのを知った。


「なんでって…………言わなきゃいけないのか?」

「うん」

「…………何でか知らないけど、話だけ聞いてくれるんだったら話すよ。───私は、親が居ないんだ。親を知らない、どうやって産まれたのかどうして生きてるのか知らない妖怪。でも、何でか知らないけど、どうしたら死ぬのかは知ってるんだ」


「あれ」は淡々と、少し自嘲気味に話した。呆れたような笑いと涙は普段の「あれ」の姿からは考えられないし、似合わないように思えたけど、それでも「あれ」は美しかった。


「………………それで」

「私は名前を他の生き物に知られたら死ぬんだ。なら言わなきゃいいって思っただろう? …………心苦しいんだよ。私には大事なものが居る。大事に思ってくれるものが居る。それなのに…………私は名前さえ教えられない。大事なのに、何でもしてあげたいのに、本当にあの一団の望むことを言えないんだ」


涙は「あれ」の頬を流れ続けていた。「悲しい」音が響いていた。思わず言葉が僕の口から飛び出ていた。


「大事なんだったら、信じなきゃ。大事なんだったら、許してくれる。お互いに大事、なんでしょ?」


弾かれたように「あれ」は顔を上げた。僕の顔を見ると嬉しそうに、満開の笑顔を咲かせた。


「ありがとう。お前、優しいんだな」


「あれ」は笑っているのに、その頬には涙が流れていた。どうして? その時の僕を一言で現せば、「困惑」だろう。


「どうして、泣いてるの」

「どうしてって……嬉しいからだよ」


さっきと同じ質問をしたのに、答えは全然違った。「あれ」の顔も、僕の「気持ち」も違って、違いすぎることに僕は戸惑うしか出来なかった。


嬉しそうに笑いながら涙を流す「あれ」は、今まで僕が見てきたどんな「あれ」よりも美しかった。僕に「あれ」の「気持ち」は分からなかった。「あれ」は何よりも美しいものだということしか分からなかった。


不意に「あれ」の身体からぼんやりとした白い光が出ているのに気が付いた。まさか。いや、間違いない。全身から血の気が引いていくようだった。少し開いた唇がみっともないくらい震える。今さら思い出すなんて。「あれ」の身体に纏っていた光が心臓の部分に集まり、球を作る。嫌だ、行かないで。突然、爆発したように白い光が空に打ち上がった。


「嫌だ…………行かないで!」


叫んだなんて僕は意識していなかった。白い光は僕にしか見えない。「あれ」は急に震えだし、叫んだ僕を怪訝そうな顔で見ていた。


「お前、どうしたんだ? 急に叫んだりして……」

「嫌だ!!」


思い出したのだ、僕の「使命」を。白い球を追いかけるように飛び上がる。僕よりも数瞬早く目的地へと向かい出した球は空に吸い込まれるように飛ぶ。早く。少しでもあの球よりも早く。そしたらきっと───



僕の願いは届かなかった。他の全てのものと同じように、白い球は深く、大きな溝へと吸い込まれていった。僕の「使命」を果たすべき場所に。僕の「使命」───それは「全てのものの涙の帰るところを見守り続ける」こと。過去も、きっと未来永劫、全ての涙はここに帰ってくる。僕の「使命」が変わったことなんて無かった。だから、何時でも忘れないはずだった。


無駄だと分かっていても、止められなかった。溝へと身体を投げ出す。「あれ」から出た白い球だけは誰にも譲りたくなかった。だって、僕はあんなに白い光なんて見たこと無かった。他の涙はもっと汚かった。「あれ」の涙が汚されるのは我慢ならなかった。


そんな僕の願いも叶わなかった。僕の身体は何かに弾かれて溝には入れなかった。白い光は何かよく分からない色に揉まれて見えなくなっていった。


嗚呼、皮肉なものだ。今まで大事なものも感情も無かった僕の「特別」は僕の手に入らない。僕の望んだことは叶わない。きっと、僕が「あれ」に対して抱いた感情はきっと、何の不純さも無い「恋」だったんだ。でも、二度と手に入らない。それなのに消えて無くなってくれない。身体が冷えていった。この久しぶりの冷たさは、もともとの何も思わなかった頃の僕のようだ。でも、確実にそれは違う。頬を何かが滑っていった。僕の頬を滑っていった「何か」は、僕が見守り続けるべき僕の「使命」を果たす場所へと吸い込まれていった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 僕が何者で、「あれ」がなぜ死ななければならなかったのか? 僕はなぜ死ねないのか? 結末は“答え”ではなく、“疑問”を残すのですね。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ