ダ・ヴィンチの偽コード 21。
なんだか、まともに絵画を語り出した私。
突発的に作り出したマルコの話なんて、本来一話で終わらせるつもりだった。
がっ。
調べてゆくうちに、なんだか、マトモな話になってきて、三話目になっても終わらない…
私にはショートショートなんてかけないな(-_-;)
と、説明の長さに悲しくもなるが、しかし、適当に書いていたこの話が、なんだか、ちゃんと話になってくるのを考えるのは愉しい。
しかし、あんなにダ・ヴィンチの作品なんて見たり、聞いたりしたのに、人間なんていい加減なもんだ。
まさか、食堂の壁絵だったなんて、考えもしなかった。
まあ、19話を書いていたときは、マルコはイタリア人しか決めてなかったし、免罪符のエピソードの教会はサンピエトロ寺院…(私は、それくらいしか思い付かなかった)で、適当に考えていたのだけれど…
ここにきて、「最期の晩餐」ネタで終われるなんて、なんだか、ちょっと嬉しくなる。
けれど、よくよく調べると、これをかかれた時代や、社会情勢、設置場所など、色んな疑問がわいてきた。
いまでこそ、「最期の晩餐」なんて聞くと、ありがたい名画であるが、食堂の壁絵なら、どちらかと言うと、名画というより、公共事業のイベントネタみたいに感じる。
このサンタ・マリア・デ・グラツィエ教会の食堂が、どんな場所かの正確な資料を知らないが、教会の食堂は本来、坊さんたちの食事はもとより、旅人や、食べるのに困った人に食べ物を施す場でもあっただろう(この食堂、VIP専用かもしれないけど)。
なら、貧しい人や、一般市民に向けてのメッセージも込められていたはずだ。
それに、食堂に絵画を飾るなんて、画家は嫌がるのではないか?なんとなく、そんな話を昔読んだ記憶がある。
20世紀にはいり、レストランのチェーン化や、一般大衆化の中で、お店の雰囲気を良くする為に、あるオーナーが店に飾る絵画を探していたのだが、湯気やタバコの煙など、劣悪な環境に飾られる事を殆どの画家が嫌って仕事を受けなかったんだそうだ。
その中で、それでも、質の良い芸術作品を市民に見せたいと一人の画家がその仕事を受けて、後に有名な人になる…なんて、話、なかったかな…。なんだか思い出してしまったが、ともかく、劣悪な環境に自分の大作を飾るなんて暴挙をダ・ヴィンチはなぜしたのだろう?
いや、多分、漆喰壁と同化するフレスコ画なら、それほど問題はないのだろうが、油絵に近いテンペラ画の巨大な壁絵がどうなるかなんて、ノストラダムスじゃなくても、当時のミラノの左官のオヤジだって予言したはずだ。
「先生よぉ…これ、あんた長くもたないぜ。普通にフレスコ画にしたらどうだい?」
なんて、喧嘩した職人さんもいたのではないだろうか。
あやふやな記憶だが、90年代に、日本でもイタリアの左官の壁が流行っていた気がする…。なんか、高級なイメージがあるな。
調べてみると、イタリアは大理石などの石材の調達が他国より難しく、漆喰であたかも大理石の壁のように施工する技術が発展したらしい。
イタリアン・スタッコと言うらしい。
日本の左官職人さんは、仕事に誇りと経験があるから(少なくても、私の知り合った人は)、自分の作り出した美しい壁に膜をはるなんて言われたら、喧嘩になりそうだが、イタリアの職人はどうなのだろう?
ブチキレないまでも、文句は言ってそうだよなぁ…
だって、教会の壁なんだから、信心深い職人なら自分の最高の技術を捧げたいだろうし、そうでなくても、近隣の人間が自分の仕事を見るのだから、それはやる気満々なはずだ。
後生に残る仕事なんだから。
ダ・ヴィンチと左官職人…色々あったろうなぁ…
なんて、また、脱線したくなるから、話が長くなるのだ。
しかし、このあたりのやり取り、聞いてみたいな。
95年に作成をはじめて、98年完成したこの作品は、まるで、世紀末に間に合うように作られた気がしてならない。
考えすぎだろうが…いいじゃないか、ここは、「なろう」なんだから。
それに、調べてみると、ダ・ヴィンチさん、未完成画家らしい。
この「最期の晩餐」は、完成した…珍しい例にあたるみたいだから、しかも、三年という、ダ・ヴィンチにしては早い完成作品。なんて聞いたら、話を膨らませないわけにいかないじゃないか。
当時の社会情勢は、没落したメディチ家と、イタリア半島を狙う外国勢力。
なんだか、1990年代より、ミラノ市民はモヤモヤしていたのではないだろうか?
こんな状態で、マグダラのマリアの暗号なんて本当に入れ込んだのか…
一般市民と左官屋の気持ちの方が、天才画家より理解しやすい私には、どうも納得いかないし、書けないから、ここは、思いきってすっかりキリストもマグダラのマリアも忘れてしまうことにした。
98年辺りになると、悪い噂も流れてきただろうし、フランスや他国の人間は、ミラノを喰らうために…他のイタリア半島の公国や共和国、神聖ローマ帝国に、戦いを傍観するように根回ししていたらしい。
情報が命のミラノ商人のなかには、既に財産を他国に分散したり、投資を始めたりしたろうし、職人は、職人のネットワークがあったはずだ。
左官職人は、建築関係の仕事の職人全般に知り合いがいるはずで、戦争が近くなれば、城や城壁を補修するから、色んな情報が流れてきだだろう。
世紀末を前にして、腐敗した教皇の噂話を聞きながら心に沸いてくるこの嫌な予感は…
私の感じた90年代のうすら暗い気持ちよりも、なお鮮明に恐ろしかったに違いない。
これらの情況を胸に詰め込んでから見上げる「最期の晩餐」で、私は、真ん中のキリストにダ・ヴィンチを見た。
うろ覚えだが、長くなったからそのまま書くけど、
メディチ家に愛されたダ・ヴィンチは、後にその寵愛をミケランジェロにうばわれて、ロレンツォに政治的な意味合いも含めて、ミラノに行かされている。
ミラノでダ・ヴィンチは、沢山の画家を育て、やがて、彼らはミラノ派と呼ばれる独自の世界を作り、その名を知らしめるのだ。
ダ・ヴィンチにとって、ミラノは、愛すべき場所ではないだろうか?
99年には、さっさと引っ越して、フランスについたチェザーレ・ボルジアにいち速く会いに行ったとしても、その事に代わりはないはずだ。
いや、ここは寧ろ、ミラノの大商人の息子にでもお膳立てしてもらおう。
不安定な社会状況のなか、未確定ではあっても、何か、そんな予感を胸に秘めて、「最期の晩餐」を描くことにしたとしたら、作品の劣化とか、自分の評価ではなく、最後に、自分の教えられる最期の授業の一面があったのではないだろうか?
ご存知の通り、最期の晩餐とは、キリストが貼り付けになる前に、弟子たちと夕げを囲む最後のひとときなのだ。
弟子に別れを告げるキリストに、これからの不安定な自分の立場に、この場を離れる可能性のある自分を重ね合わせたのではないだろうか?
ダ・ヴィンチは、画家で有名だが、兵器開発もしていて、ある意味、本当に命の危険もあったのかもしれない。
そう考えるなら、苦手な壁絵に挑戦したり、劣化を恐れずに新しい試みに挑戦した気持ちが理解できる。
ダ・ヴィンチが描いたと言っても、これだけの大作となれば、それを補佐するクリエイターは必要になる。
彼らは、かつてのダ・ヴィンチの弟子かもしれないし、弟子になりたかったひとかもしれない。
キリストのこめかみに釘を打ち、紐をはり、一点透視法を使った斬新な構図の取り方や、手の表情、顔料の選定から、配合を弟子と作り上げていったのではないか。
ああ、違うのだろう。
史実はいつだって残酷だ。でも、今回は「ダ・ヴィンチの偽コード」と、書いてある。
そう、これは偽のサイド・ストーリーなんだ。
でも、私は、こちらの方が好きだ。
未完成上等で、天才として移り気な彼が、奇跡に近いくらい早く完成させた…現在でも心打たれる名画なのだから、沢山の人間の善意がこもっているのは確かだろう。
劣悪な環境の中で、それでも、新しい試みに挑戦したその作品が、どうなるにしても、自然科学の心をもって、冷静に作品の将来を見てほしいと、ダ・ヴィンチ先生は考えたのかもしれない。
嫌いな壁絵に挑戦したのは、略奪されない為なのか…
ミラノの芸術はミラノのもの。奪って逃げることは出来ない。
みたいなメッセージが、あるのかもしれない。
なんだか、学園ドラマみたいになってきたな。
随分、長く語ったけど…
しかし、この話はその後のマルコの話に繋がるのだ。
イタリア戦争はなんとか切り抜けた「最期の晩餐」しかし、湿気や劣化には勝てずに現在、補修費用が必要になる。
さて、次回で本当に終わりたい…
ダ・ヴィンチの偽コード。