ダ・ヴィンチの偽コード 20
彼は漁師の息子で大家族の三男だ。
15才の時、家を出て傭兵になる道を選んだ。
喧嘩好きな性格もあるが、下の妹弟を食べさせてゆくには、効率よく稼げる事も強い動機になっていた。
中世・ルネサンス時代のイタリアの傭兵を人々はこう呼んだ。
コンドッティエーレ
残念なことに…あまり、強いという評判はない。
が、暴力と武功より、古代ローマ人を模範に、戦術や交渉にたけた人たちだった(いい意味でも、悪い意味でも)。
そして、コンドッティエーレは、成り上がることが可能だ。
パン屋のせがれが、ベネチアの陸軍の総司令官にだってなれたのだ。
とはいえ…、マルコは生来やる気のある方でも、人を扱う才能があるわけでもないので、そこそこの場所で、なんとなく流れに任せて生きている。
そんな彼が、久しぶりに実家に帰った時の事だ。
免罪符に付与される特典について聞いたのは。
今回の免罪符の発布の理由はあの、レオナルド・ダ・ヴィンチの壁絵の補修らしい。
それは教会の食堂を飾る「最期の晩餐」という作品。
学は無くても、マルコだってダ・ヴィンチくらい知っている。
が、この420cm×910cmの巨大なものだと言う事を知っていても、壁絵で定番のフレスコ画でないことは知らない。
勿論、作者の私すら説明出来ない一点透視図法なんて知るはずもない。
だから、サンタ・マリア・デ・グラツィエ教会の食堂の壁を飾るこの絵画が、完成した1498年から10年ちょっとしか経過していないのに補修が必要な事を理論的に納得することは一生かかっても無理なんだと思う。
ダ・ヴィンチが、時間の制約のあるフレスコ画が嫌いだったとか、多様な色を重ね塗りをしたいから、テンペラ画にこだわったとか、そんなことは大した問題ではない。
ここで大切なのは、その絵画が、マルコが子供の頃、教会の行事で見学した懐かしいものである事と、課金の特典だ。
テンペラで描かれ、湿気の多い劣悪な環境である食堂に飾られたこの「最期の晩餐」は、すでに絵の具が剥がれて惨憺たる状態だ。
修復に向けて、絵画の人物の新しいモデルが必要になる。
え?そんな勝手なことをしても良いんですかって?
だって、1498年に完成した翌年、イタリア戦争が勃発して、ダ・ヴィンチ先生はさっさとミラノをはなれてしまったのだから、良いんじゃないですかね…
ダ・ヴィンチコードを読んだときは、マグダラのマリアだとか、絵画の暗号とか、ロマンチックな話に浮かれてしまった私も、マルコとミラノに取り残されて、辺りを見回すと考えが変わる。
この「最期の晩餐」絵画発注の経緯はよく知らないが、美術館に飾られるような、御大層な芸術作品を知らなくても、おかしいと考える。
天才と言われた…自然科学にも精通していたあの、ダ・ヴィンチが、テンペラ画が、食堂なんかの劣悪な環境でどうなるのか…考えてないなんて、おかしすぎる。
私のキャラの奈美なら、こう表現するだろう。
「それって、風呂屋の富士山を油絵で書くようなもんでしょ?いくら、偉い先生の発案だって、職人が止めるでしょ?大体、高いところから、絵の具が落ちてくるなんて、不衛生だよ。」
確かに。工務店の娘の視点は違う。ダ・ヴィンチも職人と言い合ったりしたのかもしれない。奈美に書いてもらいたいが、長くなるからそれはやめよう。
剥離した絵の具が粉末化して食堂を舞うなんて…機能的に問題だ。カビも発生したらしいし。
では、なんでこんな、やっつけ仕事をしたのだろう?
それは、戦争が近いことを知っていたからではないだろうか?
ときは、1490年代。
私たちも、1990年代には、世紀末を色々考えたが、ダ・ヴィンチの時代、92年に亡くなったロレンツォと共に、メディチ家も衰退を始めるのだ。
メディチ銀行は赤字を膨らませていて…
弱り出したティラノサウルスを狙うように、諸外国が動き出す。