ダ・ヴィンチの偽コード 19
ルターの話を書いているうちに、免罪符の別の側面を垣間見た私は、新しい視点でルネサンスを考え始めていた。
改宗したキリスト教徒とか、何か政治的に混乱がおこると、弱い立場に立たされる人たちからしたら、ローマ教皇からの免罪符は、それだけで現世利益に…異端として迫害されないためのキリスト教徒としてのお墨付きになったのではないか?
こう考え出すと、拝金主義の汚いシステムと切り捨てるのも違うような気がしてきた。
なんというか、例えるなら、現在のアイドル選挙だって一人一票というわけではなく、票が買えるから、拝金主義と言われれば、それもそうなんだが、でも、そんな言葉でスッパリと切られて批判されるのも違う気がするような…
免罪符も、もっと奥行きがあるシステムの気がしてきたのだ。
そう、この免罪符、寺院の改修に使うお金を集めるためのものらしい。
と、するならば、寺院を飾る沢山の絵画が必要になる。
当時、文字の読めない信者のために分かりやすく聖書や神の教えを説明する意味も寺院の絵画にはあった。と、私は聞いた。
そこには、肉眼で見ることのできない、天使や天国を絵画として見せていたのだと。教会と絵画の関係は強い。
と、するならば、沢山の絵画が必要になり、それを描くにはモデルが必要になる。
で、少し前なら、メディチ家や、金持ちの貴族がモデルをしたに違いない。
が、免罪符なんて売らなきゃ、資金が集まらないとしたら、モデルもまた、貴族から、免罪符として課金した人間に権利が動いたとは考えられないだろうか?
拝金主義といわれようとも、スポンサーが力を持つのは、世の常だ。
この時点で、教会の絵画にも、新しいシステムが…加わっていったのではないだろうか?もし、そうなら、ある意味、金さえ払えば身分も関係なく絵画に影響を与えられるシステムでもあったと言えないだろうか?
そう考えると、免罪符のうたう天国やら、罪の話も違うニュアンスを含んでくる。
確かに、本当の天国に行けるかは分からない…
が、教会や寺院の壁のフレスコ画の天国の住人には、金を払えばなれたのではないか?
まあ、そんな史実はないだろうし、これは空想だけれど、でも、嫌らしい話だが、集金に理由があるなら、集める人にもノルマはあった可能性はある。
まあ、最低限は、みんな支払うだろうけど、そんなに沢山免罪符なんて、一般市民に買う理由はない。
死んだあとの地獄も嫌だが、明日、ご飯が食べられない方がよりリアルに嫌なものだからだ。
そんな彼らから、より多くの課金をさせたいなら、なにか熱狂するような、そんな話を作るのが一番だ。
例えば、純朴な青年を、当時のご当地アイドルのような領主や、村名主の娘さんの姿を、寺院の壁絵に残せるなんて誘ってみるのはどうだろう…
この奇想天外な考え方は、私の頭に一人のイタリア人を作り出した。
あるミラノの小さな町の傭兵マルコである。