時影、近代魔術を語る 113
しばらくして、バイオリン弾きの男は良い感じに冷めたコーヒーをドジョウ髭に当たらないように一気に飲み干して立ち上がり、威風堂々とバイオリンを手にこちらを見ない店の客全体に手を宙で一回転させて挨拶をする。
著作権について緩かったこの時代、彼は私の渡した楽譜を自分の代表作にするべく全神経を集中していた。
コンサートなどで音や画像を盗作して売る行為は、現在では海賊版として犯罪ですが、
パガニーニも、コンサートで自分の曲を盗む人物たちには腹をたてていたようです。
まあ、この時代、録音機械なんてありませんから、聴いた曲をその場で楽譜に落として行くのですから、誰しもが出来るものでは無いようですが。
私の渡した楽譜はリストの『愛の夢』三番です。
現在でもテレビなどのBGMでそれと知らずに聴いている事があるだろう名曲です。
このバイオリン弾きが必死になるのも理解できるのですが、
残念ながら、次に彼が演奏するのは、20年も先の事。
1850年、リストの発表を待たなければいけません。
勿論、パガニーニの楽譜に夢中の若きリストもまた、この曲を今、知ることなんて出来ないのです。
まあ、しかし、
男のバイオリンの腕と商売魂は本物のようで、
一瞬、張りつめたような緊張で弓を握り、
それがバイオリンに滑るように流れると、
カフェの淀んだ空気に、アルプスの雪解け水のような清らかな音の清流を作り、泉のように穏やかな気を店全体に満たして行きました。
客の誰しもが、意識することの出来ないこの演奏に耳を傾け、静まり返る世界のなかで、
作者の思惑よりいささか甘めのビブラートを要所、要所にこれでもかと入れ込んだ曲は流れて行きました。
どうも、このバイオリン弾きは、我々を倦怠期の中年夫婦と勘違いしているようです。
それとも…リストのように、道ならない恋に何かの証を残そうとする…そんな年配の恋人とでも思われたのでしょうか?
私は、作者が好きではありますが、こんなに甘いビブラートを繰り出すような、そんな気持ちではないので、なんだか落ち着きません。
しかし…リストの曲への思いは……違うものかもしれません。
1848年。
リストは、ワイマールの宮廷楽士になり、
恋人のカロリーネとの愛と曲をこの場所で育んで行くのです。
『愛の夢』は、異なる作詞家による三部作の歌曲であったものをリストがピアノ曲にアレンジしたものです。
「こんな嫌みな事をしなくても…わかってるわ(T-T)
あの短編を書き終わらせなきゃいけないことは!」
作者は、私を睨みながら小声で文句を言う。
甘いこの曲を更に叙情的にアレンジが加わる曲に作者は少し照れているように口元が歪んでいる。
「それはなにより。
大体…貴女の考察好きが、物語を面倒にしているのですからね。自覚してください。」
私はすまし顔でそう言った。
1848年…この年、フランスでおこった革命は、
『レ・ミゼラブル』のコゼットの恋を翻弄し、
リストの道ならぬ恋路にひとときの光を与え、
そして、ショパンに恋と人生の終わりを予感させたのだ。
この年を理解するために、明暗を分けた二人の音楽家の人生に光を当てた短編を作るまではよかったのですが……『愛の夢』と題をつけた短編のエンデングを書けずにいるのです。
「わかって………いるわよ。でもさ、調べると、次から次へと面倒ごとにぶち当たるんだもん(T-T)
アーノルドは死んでしまうんだけどさ、それにしても…はじめの時は、
普仏戦争とか、考えてなかったもん。
オーストリアの万博を1870年だって信じていたし、薔薇色だったんだもん(T-T)
頭の中で、三波春夫さんが笑顔で『こんにちわっ』って手を振ってたんだもん(;O;) 」
作者がボソボソと言い訳をはじめました。
ウイーン万博は1873年。オイルショックの100年前が正解です。
「三波春夫……」
「今、三波春夫で一発変換されないんだよ(T-T)
時代を感じるわ…
『チャンチキおけさ』なんて…ほぼ外国語よね(T^T)」
作者は、リストの美しい調べの中に、三波春夫さんの優しい笑顔を思い浮かべながら、歴史に消えて行く思い出にため息をついた。
宙。中と間違えると、意味が変わってしまう。が、宙なんてあまり使わないから、間違えやすい感じである。