時影、近代魔術を語る 112
二杯目のコーヒーを飲み終えて落ち着いたところで私は、暇そうにしていた流しのバイオリン弾きを呼びました。
楽譜を渡し、小銭を見せて彼に確認します。
「この曲を、お願いできるかね?」
バイオリン弾きは、通常より多く散らばるテーブルの小銭を見つめながら、少し、思案した風に楽譜を読み込みます。
まあ、読み込むのは楽譜よりも、私と私の財布の具合の方に重きをおいているようですが。
少し年配のその男は、煮詰まる作者と私を軽く見て、それから、甘すぎる愛想笑いを浮かべて
「もちろんですとも!」
と、あまり焦らして私の気が商売敵に向かないように結論を先に突きつけ、
「旦那さんの作曲ですか?聴いた事の無い曲なんでね、少し難儀をしそうではありますが……。」
と、ちらりと私を見てもう少し小銭が増えないかを期待する笑顔を押し付けてくる。
私がどうしょうか迷っていると、バイオリン弾きは慌ててこう付け加えた。
「勿論、私のような名人になれば、出来ないと言うわけではありませんよ。
ええ、
なにしろ、私は、プラハの町でも一番の人気者で、このバイオリンだって、その時にある職人から『是非使って欲しい』って頂いた代物ですからね。
私の相棒は、そんじょそこらのバイオリンとはわけが違います。
あのイタリアのアマティの一族に弟子入りした男が作り上げた名器ですからね…。」
自慢げに商売口上をのべる男を…私は、切ない気持ちで見つめました。
アマティ…。ニコロ・アマティは、16世紀辺りの楽器の職人で、彼の血族や弟子の作る楽器は名器として現代でも語り継がれています。
確かに、男の持つバイオリンは、質が良いもののようですが、職人から貰ったと言うのは、パガニーニの名器イル カノーネの伝説から思い付いたホラ話でしょう。
でも、プラハ近辺は、バイオリン製作の工房が多いことや、ニコロ・アマティの売り口上に、この一年の作者の物語への思いが滲んで見えて胸をつきます。
頑張れば頑張るほど、
調べれば調べるほど、
エタの沼から這い上がれなくなる…
これは、創作活動を始めた人物なら、一度は経験する試練なのかもしれません。
でも、こんなちょい役の男ですら、こんなに生き生きと動き出す世界を作れるのです。
私の作者は、きっと才能があるのだと思うのです。
私は、給仕を呼んだ。
「この男にコーヒーを一杯頼む。」
そして、驚く男に良く見えるように銀貨を一枚追加してテーブルに置き、
「コーヒー一杯分の時間をやろう。
最高の演奏とやらを頼む。」
と、言った。
バイオリン弾きは、一瞬驚いた顔をしてから、急にすました自信顔をして、ニヤリと笑うと
「ありがとうございます。」
と、近くの空席に座って楽譜をすごい集中力で読み出した。