作者、近代魔術を語る 30 通り魔
こんな発想をしていると、私は頭のおかしなサイコパスに見えるかもしれない(´-ω-`)
と、迷ってしまうが仕方ない。書かなきゃ先に進まないし、
しかし、書く側に回ると、全く違う物語の世界が見えてくる。
特に、連続殺人鬼等を扱う場合、
読み手の時は、自分のまま、恐ろしい殺人鬼を
時に嫌悪し、
気持ちの悪い場面は読み飛ばしてしまえばいいのだが、
書く側になると、殺人鬼と一緒に色んな事を考えないといけない。
それは、探偵役もいっしょで、犯人になって、どうしてこんな事をするのかを考える必要がある。
真面目に人殺しなんて考えた事はないし、
あまり気持ちの良いものではない。
しかし、考えてみると、長く生きているので、殺意を感じたことくらいはある。
そんな時、テーブルにおあつらいむきにナイフがあれば、刺してしまうかもしれない。
と、これくらいは、誰もが心の中に持っている殺意だ。
人であれ、動物であれ、突然襲われて、子供の命が危ないとなれば、それは、武器をもって戦いたくはなる。
が、そこから腹を切り裂くとなると、この違和感と抵抗感は半端ない。
なぜか?
それは、必要ないからだ。
普通、自然界において、身を守るために戦うと言うのは、本能として生き物は大概もってる感情だと思う。
が、しかし、自分の安全を確保し、食べるわけでもないのに、死体を傷つけるのは本能を越えた行為で、
だからこそ、不気味に感じるのだと思う。
読み手として、自分と違う異質なものと思っているうちは良いけど、
書き手として、殺人鬼と視点をあわせて行動するのは難しい。
とにかく、理解できる方向に身近な物をモデルにするから、なんだか、とてもサイコパスな表現になる。
しかし、ここにきて、江戸川乱歩の作品が、どことなく嘘臭く、そして、安心できるのか、理解した気がする。
きっと、乱歩先生もこんな風に空想して作り出したから、最近の、本物の異常犯の物語と違う雰囲気になっているのだろう。
と、江戸川乱歩を仲間に引き寄せ、考える。
快楽殺人なんて、理解できないから、
臓器が必要だから持ち去った。
と言う動機付けで話を始める。
ダ・ヴィンチだって墓あらしをしたんだから。と、さらに、仲間を増やしつつ、死体を刻んだ動機を考える。
犯人は魔術を行うために必要だった。と、動機付けした。
その為に内臓が必要だったと。
で、その為にどうするか考える。
人間は分からないから、魚釣りをモデルに考えた。
事件の内容を見ながら、不思議に思ったのは、どうして三番目の被害者を失敗したのか?だった。
その時、知り合いが船釣りにはまった時の事を思い出した。
1メートル以上あるスズキを貰ったのだ。
これが、私にとって一番多きな獲物だったと思う。
魚をさばいた時の事を思い出す。
本当に困った。
まな板が役に立たない大物に、途方にくれ、新聞紙を辺りに引いた。
で、次に包丁。
ステンレスのペラペラでは、使い物にならなかった。
出刃包丁を探してきたら錆びまくって使い物にならないし、刃が短くて物凄くやりづらい。
一時間以上、複数人で格闘して、刺身になったときは、嬉しいというより、疲れた感だけが残った。
それ以来、スズキを貰うことは無かったけど、あの時の事は覚えている。
同じような魚が来るなら、前もって準備をするし、その時の反省を踏まえて、同じ失敗はしないようにすると思う。
それは、切り裂きジャックだって同じだと思う。
だから、二回目に成功し、成功体験の幸福と興奮のなか、待ちに待った三回目の犯行を犯すなら、あんな行き当たりばったりはしない気がした。
彼が、本当に四人を殺害したとしたら、秩序犯にあたると思う。
三人目までに一ヶ月近く空ける、つまり、我慢がきく人物だからだ。
そして、次の犯行まで色々と工夫を考えたに違いない。
釣りだとしたら、大物を釣り、それが嬉しいと感じたら、次の釣りまでに釣り場の情報を集めるにちがいない。
殺人を趣味にしている人物はいないけど、当時のホワイトチャペルは、娼婦を相手にする強奪犯は結構いたらしいし、それらの人物の情報を集めれば、穴場が分かるはずだ。
あんな失敗を本当にしたろうか?
と、いうことで複数犯にしてみて、
そんな事を考える自分にギョッとしたりした。
アガサ・クリスティーとかは、あんなに人殺しを考える事に抵抗なかったのかな…。
あーっ。私は、児童作家を目指してるんだけど……。大丈夫なんかなぁ。
ミッドナイトが呼んでる気がする。