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剣は巌の男谷  作者: 雪邑 基
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春・道場破り-壱-

 時は太平、天保(てんぽう)九年(西暦1838年)。晴天の下の甲州街道(こうしゅうがいどう)を、一人の男が歩いて行く。

 男の名は、島田虎之助(しまだとらのすけ)。六尺二十貫(おおよそ身長180㎝体重75㎏)の立派な体躯を持ち、長旅でぼさぼさに伸びた髪や髭が相まって、肩で風を切る姿はその名の通り虎のようだ。腰には大太刀、肩には樫の木刀。威風堂々とした若武者である。

 歩く虎之助が大きく欠伸をすると、どこからか雲雀(ひばり)の陽気な歌が聞こえた。

「春の歌か。いい声で鳴きよる」

目を細め、陽気な空を眺める。虎之助が郷里を離れたのはまだ寒い冬だったが、時節も随分と過ぎて、今日は実に良い日和。春の暖かさにやられたのは虎之助だけではないらしい。

 虎之助は文化(ぶんか)十一年(西暦1814年)に備前(びぜん)中津藩(なかつはん)(現・大分県中津市)に生まれた。幼い頃より藩の剣術師範堀十郎左衛門ほりじゅうろうざえもんから一刀流(いっとうりゅう)を学び、若くしてその頭角を現した。十五にして道場で敵なし、十六で九州一円にその名を轟かせた俊才が、次に江戸を目指したのも当然と言えば当然である。

 道を進むと、段々と人の往来が増え、世に聞く四谷大木戸(よつやおおきど)を抜ければそこは江戸の町。

「相も変わらずの活気で、結構な事じゃ」

 町行く人々を眺めながら、都の雑踏に感嘆の声を上げる。虎之助が江戸を訪れるのは二度目だが、やはりこの活気ある空気が性に合う。旅の道中で堺や京にも立ち寄ったけれども、堺の商人気質は小賢しいし、京の上方然とした態度はどうにも鼻についていけない。

 急く旅でもない。少しばかり店を冷やかしてやるのも悪くはないか。そんな風に思案して顎を撫でていると、おいらを先にしてくれと腹の虫が鳴いた。

「腹が減っては戦も出来ぬ、か。すると、まずは飯だな」

 通りに目を向ければ、右に左に飯屋の暖簾が揺れて見える。茶屋や食事処は勿論、天麩羅や寿司の看板もあった。田舎の村落ならば飯屋はおろか旅籠もない事もあろうが、流石は江戸の町だ。だがこうも店が多いと、さてどの店を選んだものか。

 まだ日も高いし、酌をしながら腹いっぱい食って高楊枝ともいかない。軽く腹に溜まる程度の簡単な食事で良いとは思いつつ、さりとて江戸に着いて最初の飯が不味いと言うのも験が悪い。

「ちょいとお兄さん、お店をお探しかい? だったらうちで一服どうだい。うちの団子は天下一品だよ」

 大通りを前にして木刀で肩をとんとんと叩いていた虎之助に、茶屋の店先から愛嬌の良い年増女が声をかけてきた。

 ふむ、と思案。茶の一杯と団子一盆、確かに今の腹具合からすると良い塩梅に思える。しかし、茶と団子なら旅の道中に峠の茶屋でいくらも食った。わざわざ江戸で最初に食うというのはそれこそ味気ないし、それなら屋台で音に聞く江戸前寿司でも食らった方がいい。何より、五十路(いそじ)過ぎの年増女に声を掛けられ、ほいほいとついて行くというのも面白くない。

「すまんな、女将。急ぐ旅ゆ――」

「今なら自慢の可愛い看板娘がお給仕もしてくれるよ」

「うむ、丁度喉が渇いていた所だ。茶と団子を一盆もらおうか」

 女将に案内され、店先の長椅子に虎之助が腰を下ろす。暖簾には『あかふじ屋』の屋号。青い富士ではなく赤い富士を屋号にするとは、いかにも洒脱で粋だ。そんな風に虎之助が感心していると、さっそく茶屋の看板娘が茶を持って来た。

「どうぞ」

「おう、すまんな」

 虎之助が茶を受け取って手刀で礼を言うと、娘はにこりと笑って軽く頭を下げた。

 茶を啜る。甘さのある茶だ。茶屋と名乗りながら、ほとんど白湯としか言えないような出涸らしを出す阿漕な店も多い中、この店は当たりらしい。そんな事を考えている間に、今度は団子の一盆が運ばれた。

 皿に積まれた山の団子は甘さ控えめだが、茶が甘いからむしろその位が丁度良い。頬一杯に団子を詰め込んでもぐもぐやりながら、忙しなく働く娘の様子を眺める。看板娘と言うだけあって、成程器量は悪くない。年は十五を過ぎた頃だろうか、田舎娘のように垢抜けない様ではなく、かといって遊郭の女のように擦れてもいない良さがある。朱色の小袖を襷掛けにして、その裾から覗く二の腕がなんとも魅力的だ。惜しむらくは、もう少し尻の肉付きが良い方が虎之助の好みではある。

 そんな風に看板娘を値踏みしている虎之助の隣に、店の主人だろう前掛けをした初老の男が饅頭の乗った皿を置いた。

「ん? おいはこんなもん頼んでないぞ」

「これはあっしからの奢りでござんすよ」

 人好きのする笑みを浮かべて、主人が言う。虎之助にとってそれはありがたいお話であるが、訝しい。

「江戸のお人にしてみりゃ、おいみたいな田舎者はみすぼらしく見えるかも知れんがね。それでも、縁もない方に恵んで貰う物乞いの様なみっともない真似は出来んわい」

 むっとした顔で虎之助が言うと、主人は吃驚(びっくり)した顔をする。しかしそれも僅かばかりで、すぐに大きな笑い声を上げて破顔した。

「実に立派な心意気、いやぁ気に入った。武士たるものこうでなくっちゃ。確かに、今のはあっしの不躾でござんした」

 しきりに笑って、頭を下げる。

「お兄さんは剣の修行で江戸に参ったのでごぜぇやしょう。あっしも剣が好きでね。と言っても下手の横好きって奴でござんすが。ですから、店を参った武者修行の方には一つ餞別代わりに、この饅頭を出しているのでごぜぇやす。なぁに、これもお節介ばかりではございやせん。この饅頭は自慢の一品でして、一度食べた方の多くが常連になって下さいやす。特にお武家様は義理堅い方も多い故、損して得取れと言うやつでさぁ」

 この気風の良さが江戸気質か、ここまで言われて食わぬは無粋。虎之助はむんずと饅頭を手に取り、大きな口で頬張った。

 厚めの皮の中に、しっかり練られた餡子。そして餡子に混ぜられている歯応え。

「こりゃ栗か」

「勝負に勝栗ってね。縁起が良うござんしょ」

 餡の中に刻んだ栗の甘露煮が混ぜであるのだ。団子だとて不味いとは思わないが、この栗饅頭の方が甘い中に風流がある。主人が自慢げに言うだけあって、確かに美味い。

「時に、親仁(おやじ)よ。剣が好きなら、ここいらの道場についても詳しいのか?」

 茶をずずずと飲みながら、虎之助が聞く。すると主人が嬉しそうに口を開いた。

「へい。幼い頃は赤石郡司兵衛(あかいしぐんじべえ)先生の道場で直心影流(じきしんかげりゅう)を学び、先の大老松平定信(まつだいらさだのぶ)様(1759年~1829年)の時分から広まった武芸奨励に倣って、神道無念流(しんとうむねんりゅう)一刀流中西派いっとうりゅうなかにしはの道場にも通いやした。この年にもなると道場を巡って一手指南とはいきやせんが、そいでも御前試合があると聞けば商いもほっぽり出して覗きに行きまさぁ。それのお陰で、かかぁにはいつも尻を引っぱたかれやすが」

「では、江戸一の道場と言えば何処(いずこ)だ?」

「江戸一の道場でございやすか。難しい問でやすが、そうですな。江戸には多くの街道場がございやすが、やはり三大道場でございやしょう。鏡新明智流きょうしんめいちりゅうは桃井先生の士学館(しがくかん)北辰一刀流ほくしんいっとうりゅうは千葉先生の玄武館(げんぶかん)、神道無念流は斉藤先生の練兵館(れんぺいかん)。この三道場が頭一つ頭抜けていて、それに伊庭先生の練武館(れんぶかん)なんかが続くといった所でやすな」

「三大道場の噂はおいも道中で聞いた。それ程のものなのか?」

「士学館は江戸に古くからあり、技だけでなく位も高い。玄武館は独自の修練法で、他流なら九年掛かる修行を三年でやってのける。練兵館は打ち込み激しく、その渾身の一撃には具足も意味を成さないと聞き及びやす」

 饒舌に話す主人を横目で見ながら指をぺろぺろと舐めていた虎之助が、ふむと頷いた。

「成程な。親仁よ、御代だ。釣りはいらんぞ」

 立ち上がると、虎之助は袂の財布から二分金(にぶきん)を出して主人に渡す。驚くのは茶屋の主人だ。

「不足か?」

「滅相もございやせん。いやいや、色を付けるにしてもこれは多すぎですぜ」

 虎之助の渡した二分金は正式には草文二分判(そうぶんにぶばん)といって、文政(ぶんせい)十一年(1828年)に通用が開始された。価値としては二枚で文政小判(ぶんせいこばん)(約5万円程度)一枚分。百文(一両=四千文)も払えば上等な茶屋代にしては、二分金はいかにも豪気だ。

「栗饅頭は確かに美味い。しかし、この店の茶では甘すぎる」

 再び担いだ木刀で肩を叩きながら、虎之助は不満を口にした。不満があるのに多く払うというのは道理に合わない。主人はますます眉根を寄せる。

「暫くは江戸に逗留する。次に参った時には、栗饅頭に合う渋い茶が飲みたい。一両払えばきりも良かろうが、初顔の店でそれは不躾だ。美味い茶と美味い団子、栗饅頭と面白い話まで聞けたとなれば、二分金くらいが手頃だろう。贔屓の店に心付けをするのが武士の粋なら、それを受け取ってやるのが店の器ではないか?」

 虎之助が野性味のある顔でにやりと笑う。そんな栗饅頭の意趣返しに、主人も「へい。ではありがたく」と笑って二分金を受け取った。

「話しついでだ、千葉先生の玄武館とやらの場所を教えてくれんか」

「玄武館は於玉ケ池(おたまがいけ)(ほとり)(現・東京都千代田区岩本町)、こっからでやすと丁度江戸城の向こう、一里半(一里=約4㎞)程になりやすか。まさか、玄武館に挑まれるおつもりでやすかい?」

「古いばかりの剣に興味はないし、力ばかり自慢されても暑苦しい。木っ端武者の田舎剣法が江戸の洗練された技を手玉に取ると思うと、実に面白かろう」

 ともすれば不遜と聞こえる言葉なのに、主人はつい「それは結構でございやす」と笑みで返してしまう。そして自然と零れる笑みを妙に思いながら、さりとて悪い気もしない心に改めて笑う。それこそが自らの力を信じて疑わない屈託のない若武者、島田虎之助という男の魅力なのだろう。

「では、酒の一合でも用意しておきやしょうか」

「ん? この茶屋は酒屋も兼ねるのか?」

「甘い団子に、辛口の酒というのも存外乙なものにございやす。特に、景気の良いのが好きなお人にはね」

 言葉の意図に成程と納得し、虎之助は片手を挙げる。

「一合じゃ足りんわい。一升、いや樽ごとは欲しいね。今夜は勝って、祝いの盃じゃて」

 空中に幻の盃を掲げて、不敵に笑った。


 ――幾らかの時が過ぎて。

 虎之助が座っていた席に、看板娘が再び茶を置いた。

「あの、何て言ったらいいか。とにかく、気を落とさんといて下さいね」

 可愛い娘に気を使われているというのに、気落ちした虎之助は項垂れるばかりで聞こえていない。

 玄武館を目指したまでは良かった。威勢良く茶屋を立ち、江戸の町を鼻歌雑じりに見物しながら半刻程。見えて来たのは池の畔に立派な道場の門。

『頼もう! おいは一刀流剣士、島田虎之助。九州一の剣客である。江戸一と噂に名高い北辰一刀流、その実力の程を拝見したいと所望する。いざ尋常に立ち会え!』

 一気呵成の口上に、何だ何だと稽古着姿の門人達がぞろぞろと出てくる。

『天下の往来で、随分と無礼な口上だな。当道場は紹介状のない他流派試合を禁じておる。出直して参れ』

 師範代であろう、門下生を代表した男が一歩前に出て言いながら、しっしと猫でも追い払うように手を振った。ぞんざいな扱いだが、これくらいは虎之助も予想していた。だから、どう応えるべきか知っている。

『お天道様の下に看板を掲げながら、なんとも尻の穴が小さい。こっちは一人、逃げも隠れもしないというのに、数の多いそちらが御託を並べて逃げる。そうか成程、剣術を知らぬ市井の者には高説をのたまって、少しでも強そうな相手は屁理屈を垂れて追い返す。それが北辰一刀流の流儀というわけか』

 あからさまな挑発に、門下生達の空気が変わった。

 剣術が武士だけのものだけではなくなったといっても、やはり学ぶ者は血気盛んな若者が多い。まして、伊達と酔狂を愛する江戸の男なら、ここまで言われて引けるはずもない。虎之助は旅の道中、こうやって相手を挑発して賭け試合に持ち込み、少ない路銀の足しにしてきた。

 正に一触即発。多勢でたった一人の相手を痛めつけるのは武士道に反するという理性がなんとか働いているだけで、少しでも切欠があれば門下生達は虎之助を袋叩きにするだろう。それほどいきり立っている。だが、師範代だけは違っていた。

『何と罵られようと、当道場には礼儀知らずと交える剣はない。あまり騒ぎ立てすると、奉行所に突き出すぞ』

 こう返されては分が悪い。武者修行に出たのに、誰とも一戦交えず奉行所に突き出されて国返しとなれば、それこそ悪い笑い話だ。

『己が勝てぬからといって、お上に泣きつくとはなんと情けな――』

『奉行所の牢がお好きだそうだ。誰か、役人を呼んで来い』

 けんもほろろならぬ剣もほろろの扱いを受けて、虎之助は『ひ、卑怯者め』と負け犬の遠吠えだけ残して逃げるしかない。

 玄武館を去る虎之助の目の端に、於玉ケ池に釣り糸を垂らした初老の男の姿が見えた。どうやら事の一部始終を見ていたらしく、にやにや笑っている。苛立ち雑じりに路傍の石を投げつけてやったが、ひょいと軽く避けられた。何をやってもどうにも上手くいかない。

 その後、士学館や練兵館も訪ねてみたが、同じくあしらわれた。結局、何の収穫もないまま出戻って、後は茶を啜るくらいしかやれる事がない。昼は甘いと思った茶が渋く思えて、なんとも侘しい。

「もしかしたらと、思ったんでやすがね。順当に追い返されやしたか」

 店仕舞いの作業をしていた店主が、仕方ないなとばかりに苦笑した。

「まるでこうなるのが分かっていたような口振りだな、親仁よ」

「江戸には八百八町と、その倍以上の街道場がございやす。ともなれば、道場商売も楽なものじゃございやせん。何処其処(どこそこ)の道場が何々流の誰某(だれそれ)に負けたなんぞという話は、噂好きの町人の間じゃ風より速く広まって、昨日の大道場が明日には潰れるというのも珍しくない。武芸奨励がお上のお達しだとしても、得体の知れぬ相手と安易に勝負は出来ますまい」

「知っていて送り出すというのは、ちょいと人が悪過ぎやせんか?」

「たはは、それを言われると弱いですな。この茶はあっしが奢りやすんで、ご容赦くだせぇ」

 日も随分と傾いて、誰そ彼と面構えも分からぬ刻限だ。もう店を閉めるという段になって現れた面倒な客など追い返しても良いものを、主人は茶を出してにこにこと愚痴も聞いてやっている。これが江戸商人の気質かはたまた個人の資質か、兎に角主人の人懐っこい態度に毒気を抜かれて、茶を楽しめるだけ良いかとも思えてくる。

「しかし、どうしたもんかな。伝手なぞなくとも道場を巡ればなんとかなると思っておったのに、こうも無碍にされると寄る辺もない。親仁よ、道場に詳しいのなら、紹介出来る伝手の一つや二つないのか?」

「紹介すると言っても、我が師はもう鬼籍に入ってやすからなぁ。他だと、師匠の後を継いだ兄弟子の團野(だんの)先生くらいでやすが、團野先生はなぁ」

「なんじゃ。その團野何某(なにがし)とやらは三大道場に負けず劣らず、いけずで陰険なのか?」

「腕もあり人格も優れる、悪いお人じゃ御座いやせん。けれども、どうにも真面目一辺倒で冗談が通じない。道場破り紛いの他流派試合なんて以っての外。入門するってんなら手合わせはしてくれやしょうが、曲がったもんを打ち直すのは團野先生の趣味ですからな。性根が真っ直ぐになるまでしっかり(しご)かれる事になりやしょう」

「その口振りだと、まるでおいの性根が曲がっとるように聞こえるがのう」

「違いやしたか?」

「いや、全く以って、相違ない」

 軽口も返せず、虎之助は嘆息した。挨拶の仕方も知らずに一手指南を要求する者が品行方正なはずもなく、門下生を煽って道場荒らしをしようとするのだから正に捻じ曲がっている。

「稽古なら、せいさんに頼めばいいんじゃないですか」

 こうなってしまえば後は辻斬りめいた方法で勝負を挑むくらいしか手はないかと本気で思案していた虎之助に、茶の御代り持ってきた看板娘が言った。その名前を聞いて、主人も「そうかせいさんか」と手を叩いて頷いた。

「その、せいさん、とやらはどちらの誰さんじゃ?」

「せいさんは、直心影流の男谷精一郎おとこたにせいいちろう様の事に御座いやす。ここから一里少々になりやすか、狸穴(まみあな)の地(現・東京都麻布)に道場を開いておられる。あの方なら快くお相手して下さるでしょう」

 主人はうんうんと大きく頷きながら、満足げに言った。

「直心影流と言うと、親仁の同門か。なんじゃ、ないないと言って、実はちゃんと伝手があるではないか」

「いやいや、せいさんは團野先生の弟子です故、あっしも知らぬ仲では御座いやせんが。しかしあっしと既知でなかったとしても、あの方は勝負をお受けくださるでしょうよ。どんな者が相手であろうと、手合わせを願われれば二つ返事でお受けなさる。それが男谷精一郎というお人なので御座いやす」

「挑まれれば逃げも隠れもせん、か。常在戦場が武士の心構えとは言え、中々豪気な腕自慢だ。気に入ったぞ」

 まだ見ぬ相手に牙を剥くように笑う虎之助の隣で、主人が苦笑した。

「剣だけでなく宝蔵院槍術ほうぞういんそうじゅつ吉田流弓術よしだりゅうきゅうじゅつを含め、武芸十八般どれも皆伝の腕前。そんな話をすると大層な無骨者に聞こえるやもしれやせんが、学もあり書画なんかの芸事でも本職顔負け。それでいて、奢ってそれをひけらかす事もない。でやすから、あの方のは腕自慢ともまた違いやすな」

 孝行息子でも誉めるような主人は言った。だがそれを聞いて、機嫌を直していた虎之助の顔が再び渋いものに変わる。

 戦の時代が昔となって二百余年、武士と武術の有様も随分と様変わりした。技をもってその流派の皆伝を得る者が少数ながら存在するのも事実だが、その多くは渡世の義理や金で買った許しだ。逆に言えば、九州随一の腕があっても、金も義理もない虎之助では目録止まりである。

 技で免許皆伝となれば、才覚ない者ではどんなに研鑽を積んでも一生届かない。無論虎之助程の才覚ならば、十年二十年と修行を積んだ先に得られるかもしれない。それでも、あれもこれもと蒐集している者がいれば、それは金か権力で得た許し以外にない。

「それはそれは、大層楽しみじゃのう」

 表面上の言葉とは裏腹に、虎之助のやる気は失せていた。

 長い旅路を経て、わざわざ江戸くんだりまで武者修行に来たのだ。江戸にその名を響かせるのは前提として、骨のある相手がいないでは張り合いがない。そして名前だけ集めるだけで喜ぶような輩と手合わせしても、張り合いがあるとは思えない。そういった輩は口ばかり上手く、どんな相手からも逃げないと言っても、どうせなんのかんのと言ってはぐらかされる。虎之助はそんな風に決め込んで、手の中で茶碗を持て余している。

「惚れんでくだされよ。何をさせても一流、それでいて奢る所がない。武士の身でありながら、身分の違う町人や女子供にも良くしてくださる。男でも、一歩間違えば惚れちまう。現に、あの方には細君もいるってのに、この子も岡惚れしておりまさぁ」

 唐突に指摘され、看板娘は慌てて手を振った。その頬に染まる朱の色は、夕日の色のためだけではない。

「それはそれは、大層楽しみじゃのう」

「うん? 先程とは同じ言葉なのに、なんぞ思う所でもありやしたかな。随分と悪い顔をされてやすが」

「気のせいじゃて。所帯持ちの分際で町娘を誑かす不埒者、成敗してやろうなどとは全く思うておらん」

 男谷という輩は、虚栄心だけの手合わせする価値もないどうしようもないろくでなしかもしれない。だが、剣を知らぬ女を免許皆伝の名で釣る下衆がいれば、叩きのめしてやるのが世のためといもの。そこに二枚目男を痛めつけて晴れやかな気分になりたい私怨があっても、それは仕方ないことであろう。

「やる気十分、今すぐにでも叩き伏せる、ですかな。鼻息荒くて、実に宜しゅう御座いやす。しかし、今すぐは無理でやすな」

「何故じゃ?」

 猛る虎之助に応えたのは、夕闇の中に遠くから響く鐘の音。

「刻は暮れ六つ(18時頃)、先は夕闇。女とねんごろになるにゃ良い頃合かもしれやせんが、果し合いには無礼な刻限だ。それとも、闇夜に紛れて夜襲といきやすか?」

 にやりと笑って言われれば、虎之助としても言葉に詰まる。

 夜襲朝駆けも武士の手習いなれば、虎之助としても仇敵相手の闇討ちはやぶさかではない。しかしそれも因縁あってこその話で、ただ気に入らんという理由だけではけちがつく。こうして釘を刺されれば尚更だ。

「せいさんの道場はいつも朝稽古をしてやすから、今日は早く休んで、朝一に訪問されるのが宜しゅう御座いやす。実はこの店の二階は旅籠(はたご)になっておりやしてな、今日は丁度部屋が空いておりやす。誰ぞ借りてくれる方が居れば良いのですがなぁ」

 わざとらしい親仁の口振りに、虎之助が鼻で笑いながら一両小判を取り出した。

「ほんに商売が上手いのう。大盤振る舞いじゃ」

「はい、確かに。では、こちらも」

「ん? 何じゃこれは」

 手の中の一両小判は二分金に化け、虎之助は怪訝な顔をさせた。それを見て、主人はにっと粋な笑いを返す。

「初顔さんには、一両も貰えば十分に御座い。そういう不躾は、吉原の狸爺にでも任せまさぁな」

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