第五章 停滞
2053年 米中で休戦協定成立。南沙戦争終結。
米軍南シナ海より撤退。
中国軍、NSFへのサイバー攻撃を中断。
2054年 米、サイバー空間構築のための法案を制定。G8で各国政府への共同開発を打診。
2056年 ジャパン、イギリス、EU各国よりサイバー空間構築のため研究員を米国へ派遣。米国主導の研究機関、多国籍電脳空間研究所(通称MCSL)設立。
2058年 中国、ロシア、共同で独自のサイバー空間構築を目指すと表明。
2062年 MCSL、WWWによらない新たな通信方式を確立。米Googleにより、後の製品化に向け接続デバイス開発開始。
十一月11日現地時間午後四時42分。MCPジャパン支部総括本部刑事部捜査一課。
「お疲れ様です。戻りました」
木下が低姿勢で捜査一課に入ってくる。
「おー、お前、ビビったぞ。マジで」
「あっ。いや、すいません」
「よかったよ、生きてて。まあ一回死んでるけど」
陣は向かいの席に座る部下に冗談交じりに話しかける。木下も小さく笑うが、大事なことを思い出して恐る恐る聞く。
「あのー、それで……男はどうなりました?」
陣は木下と対照的に、軽い調子で答える。
「ああ、逃げちまった。お前をぶっ殺した後、すぐに逃げたんだろう。現状保存もぶっ壊されてて、行先不明っ」
八時間前、陣のもとに緊急の連絡が入った。内容は、木下が男の尾行に失敗したこと。そのまま男が行方不明になったこと。そして――木下が、バックアップシステムで一命をとりとめたこと……。
〝死因〟は喉をナイフで何度も刺されたことによる頸椎損傷と、大量出血。正直状況がひどすぎて(現状保存のデータがないことも重なり)どちらが直接的な原因なのかはわからない。
その後、陣や柴咲をはじめとする捜査一課はトンネル内の見分。木下は木下でバックアップが正常に完了しているか精密検査を行うことになり、殺人事件と爆破事件よりも大騒ぎになってしまった。
「……すいません」
「気にすんな。お前のせいじゃねえよ。むしろ悪かった。俺の判断ミスだ。お前を一人で行かせるべきじゃなかった」
「いえそんな……」
そんなはずはない。陣は木下を信頼して、あの場を任せてきたのだ。それに応えられなかった。失望、させてしまった……。
「部下の命を預かるのは上司の役目。今日のは完全に武田の失態だ。武田と俺の失態。よく帰ったな木下」
コンビニから帰った柴咲が、木下に栄養ドリンクを手渡す。
「ありがとうございます。お騒がせしました」
両手で栄養ドリンクを包み込むように受け取る。
「それより聞いてくれよ。こいつがよぉ」
自分の席に座りながら、柴咲が面白そうに言う。
「班長、それはダメです」
陣の方はなぜか渋い顔をして手の平を柴咲に向ける。その様子を見て、木下はキャップを一回転させたところではて、と止まる。
「え?何すか?」
「お前も聞くな……いや、あとで説明してやる」
そう言うと、陣は椅子の上で両耳をふさぎ、天を見上げる。柴咲はそれを見て楽しそうに笑う。
「そう言うなって。お前が尾行に失敗したって聞いたときのこいつの顔見せてやりたかったよ。すすきのの現場ほっぽりだして、真っ先にトンネル向かってな。着いたら着いたでお前の遺体があるし、中身はバックアップで帰還してるしで……もうパニックよ」
木下は苦笑いしながら栄養ドリンクに口をつける。
「んで、何を思ったのか、あれだ。あの――昨日の現場付近にいた会社員か、そいつのとこに押しかけて『俺の部下が死にかけたんだ!何にも話したくないなら結構だが、それなら令状でも何でも持ってきてやる!それで犯人の情報でも持っててみろ!どうなるかわかってんだろうな!』って胸ぐら掴んでよ」
とんでもない話に、木下は吹き出しそうになってむせる。メチャクチャだ。仮に男性が犯人の協力者だった場合、思いっきり違法捜査になる。
「それ大丈夫だったんですか⁉」
せき込みながら聞いてみるが、柴咲は相変わらず朗らかに笑っている。
「それが、相手の男がチビッて全部ゲロったんだけどよ……『実はあの時、愛人に会いに行ってたんです』だってよ」
「へっ?」
予想の斜め上の答えに、木下はぽかんと口を開ける。
「あっはっはっ、なーにが。こっちは血眼になって殺人犯追って、部下まで殺されかけてんのに……『警察沙汰になったら妻に不倫がバレると思って、言い出せませんでした』だと。あっはっはっ。あー。バカらしい」
木下は苦笑いで陣を見る。陣は諦めたような表情で、肩をすくめる。
「まさにあれだ。俺の判断ミスだ」
「あっ、はぁ…」
「まあ笑い話はこの辺にして、大丈夫かお前、バックアップは正常にすんだのか」
「はい。検査結果も良好で」
「そうか。まー俺のせいでとんでもない目に合わせちまったな。本当に申し訳ない」
陣が頭を下げるので、木下は慌てる。
「いやいや、武田部長。俺、せっかく仕事任せられたのに何にも――」
「その考えはやめろ」
反省の言葉を口にしようとした木下を、陣は遮る。
「上司として一応指導もしとく」
先ほどまでのフレンドリーな雰囲気を一変させ、静かな目で問う。
「お前なんで逃げなかった」
一瞬、質問の意味を理解しかね、木下は黙りこくる。柴咲はあえて口を挟まず、静かに場を見ている。
「トンネルの電気全部切れてたぞ。最初っから切れてたのか途中で切れたのか知らねえが。どっちにせよお前は引くべきだった」
バックアップで没入時点まで記憶が戻っている木下には、当時の状況がわからない。現状保存も破壊されているので、陣にもわからない。しかし、殺されたということは、無謀な追跡をしたことに他ならない。
「……それは……」
何か言わなければ、と口を開くが、木下は自分でもうまく説明できないことに気付く。もしもう一度同じ現場に遭遇したら――ふと頭をよぎったことだが――おそらく、自分は追い続けるだろう。どんなに条件が悪くても。
しかし、なぜ?
答えられない木下を見て、陣は立ち上がる。
「視界が悪い、応援は望めない。何より相手は得体のしれねえ殺人鬼。お前なら、俺の言ってることわかんだろ」
「……はい」
言いたいことは分かる。トンネルが暗闇に包まれれば、自分でも同じ分析をするに違いない。陣はそれを客観的に、合理的に考えろと言ってきている。そうしなかったせいで、結局のところ捜査員に余計な仕事をさせる羽目になり、自身もあわや死んでしまう一歩手前だった。
言いたいことは分かる。
だがやはり――
「でも、逃がしたくないです。俺。俺のせいで逃げられて、もっとたくさんの人が死んだら――」
自分でもよくわからない思いをなんとか言葉にするが、再び陣に遮られる。
「バカ野郎。自分の命も守れねえやつが、他人の命を守れるかよ。いいか、二度とすんな」
「…………はい」
「俺とか、俺じゃなくても、上からの命令と自分の命がかぶっちまったら、迷わず命を選べ。いいな」
納得のいかない木下だが、上司に逆らうような男ではない。(渋々ではあるが)コクン、とうなずいた。陣はそれを見て、両手をパチンと打ち合わせる。
「よしっ。じゃあ堅い話はここまで、ちゃっちゃっと帰って休め!」
「え⁉いや、昨日も――」
「無理やり脳ミソの中書き換えて負荷がかかってんだ。しっかり休め。目撃者の線は消えたが、被害者の身元がまだだからな。明日からまたフル回転でいくし、体調管理も社会人の務め!あー、安心しろ。班長の許可はちゃんととってある」
陣は柴咲に手の平を向けて続きをお願いする。
「そうだ。早く帰って休め」
班長の見事なとどめで、木下も観念する。
「すいません。お先に失礼します。班長ありがとうございました」
栄養ドリンクを掲げ、席を立つ。
「お疲れ」
「おう」
陣と柴咲はやる気のくすぶっている若者の背中を見送る。
その姿が扉の向こうに消えるまで待って、柴咲が独り言のように言う。
「厳しいなあ、お前」
陣は机に寄りかかり、ふっとため息をつく。
「若い奴ってのはエネルギーがあふれかえってんですよ。くぎを刺しとかないと、いつかまた無茶します」
「あー、そうだな。八年前のお前にそっくりだ」
痛いところを突かれて、陣は笑いをかみ殺す。
「あっはっはっ……。やめてくださいよ」
「一緒だろうが。無鉄砲で正義感の塊。あいつは言うこと聞く分、まだましだ。お前の指示でマル被追ってたんだからな。お前は俺の言うことなんか一つも聞かなかったろうが」
「え?そうでしたっけ?」
陣はしらばっくれてみる。柴咲はわざとらしい舌打ちで返す。
「ったく。……で、どう思うよ」
どう、と聞かれ、陣は神妙な面持ちになる。
「男ですか」
「ああ」
「最初はただの気が狂ったやつだと思ってたんですが……キノはCBTの成績も悪くありません。不意を突かれたにしても……ただの素人じゃないのは確かですね」
「現状保存壊したのも男だとしたら、それこそ化けもんだな」
「壊したのは証拠隠滅のためでしょう。注射器もどきも壊されちゃいましたし」
「現状保存消せるくせに、詰めが甘いよなあ」
柴咲の言葉に、陣はしばし考える。そして、机の上にあるARデバイスを起動する。
「これは俺の推測ですけど……おそらく、マル被はトンネルの中でマル害の抵抗にあった。しかもマル害が逃げ出したんで、注射器を放っておくしかなかった。あるいは必死だったから、落としたことに気付かなかった」
ARデバイスを操作し、昨日も見た現状保存を投影する。
「そして、マル害を殺して、証拠が残らないよう、現状保存を消すことにした。ただ、トンネルの外まで出てしまったせいで、予想以上に時間がかかった。そうしている間に俺たちが入ってきて――しかも、その時になって初めて注射器を落としたことに気が付いた」
映し出されたのはトンネル前に倒れる被害者と、追いかけるように銃を突きつける被疑者だ。
「あわてて出てきたんでしょう。その証拠に、トンネル内は現状保存が全部消されてるんですが、入り口付近は二人の顔しか消されていません。全部消す時間がなかったんです」
「そんなに大事なものってことか、注射器もどきが」
「あいつの思惑通り、何をするためのものかわからずじまい。たいした奴を通り越して、手強い相手ですよ、これ」
陣はARデバイスの電源を切り、現状保存を終了させる。
「だな。あとはマル害の身元くらいか。どこまで引っ張れるか……」
「ですね。とにかく昨日おきたMPのリストと一つずつ突き合わせていくしか……。あぁ、クラーク部長に連絡しとかないといけませんね。女の方もどうせ、不倫隠してるだけでしょうし」
「おお、ケイティから一応連絡はあったぞ、まだ聴取はできてないんだと。必死に抵抗されてるとかなんとか――」
「へー……ケイティ?」
聞きなれない名前に、陣は思わず抜けた声を出す。
「あぁ」
怪訝な顔で返す柴咲。
「誰すか」
不審な顔で聞く陣。
「アミリアだよ、アミリア・ケイティ・クラーク」
フルネームを聞いて、ようやく理解する。
「あぁ~。ミドルネームっすか……なんで知ってんすか⁉」
「あ?八年前一緒に捜査した向こうの警部補がいただろ、その娘だ」
そう言われて八年前を思い出してみるが……クラークなんて名前の人がいたか思い出せない。
やばいな、三十手前にして物忘れか。いや、たしかにそう言われると金髪のきれいな感じの人がいた気が……。
とりあえず頭に浮かんだ人ってことにしておこう。
「あぁ……それはそれは……仲いいんすね」
「あー、本部との捜査の意見交換で何度か会った。向こうはお前と違って大学出てるから、あの時はMCPにいなかったんだよ。美人だろうが」
「ええ、まあ、はい」
美人を否定するつもりはない。陣はひょうひょうと答える。しかし昨日の木下同様、柴咲もすこしニヤついてこっちを見てくる。
「……なんすか班長まで」
柴咲は左手をヒラヒラ振って、なんでもない、とジェスチャーする。
「まあ、不倫隠しにしても一応確認は必要だろう。向こうは今夜中だし、お前も今日は寝ろや。明日の朝、また向こうに行けばいい」
「そうっすね、直接行ってお礼言わねえと」
「菓子折りの一つでも持ってってやれ。喜ぶぞ」
「ああ、了解です」
「じゃあ、もう一回課長に詫び入れて、帰るか。顛末書は?」
陣は机の上に置いてあった顛末書を取り上げ、おどけて見せる。組織である以上、部下を危険にさらしたことに対するけじめが必要なのだ。
「手書きしたか?」
「ええ、もちろん。お教え通り」
柴咲は大きく唸って課長席に向かう。陣もため息をつき、その後に続いた。