第二章 基本
2006年 米ブラウン大学でASL患者が埋め込み型BCIにより、思考の力だけでカーソルを移動させることに成功。
2010年 米、サイバー軍を創設、公式に始動。
2011年 中国、サイバー部隊の存在を認める。
米カリフォルニア大学で海馬を模したチップを使用し、ラットが学習した記憶の複製に成功。
2013年 米ワシントン大学、インターネットを介して人間の脳を接続。離れた両者間で意思の疎通に成功。
2014年 ジャパン自衛隊内にサイバー防衛部隊を設立。
2015年 米南カリフォルニア大学、障害のある脳が記憶を形成することを補助する世界初の人工インプラントの開発に成功。
第二章 基本
「気を付け!敬礼!お願いします!」
「「「お願いします!」」」
「はい、休んで」
「休め!」
班長の号令で各々一斉に席に着く。
ジャパン州警察TOKYO本部警察学校。学校と名はついているが、これから警察官になるもの全員が学ぶ全寮制の職場だ。
「今日はダイブの使用要領と、サイバー空間内での捜査要領をやります」
そう言って、教官は電子ボードに板書を始める。タイトルは《サイバー空間での捜査》だ。
「えー、みんな知ってる通り、基本的な配属先はTOKYO各所の警察署になるわけだけど、中にはサイバー犯罪対策課やMCPに配属になる人もいるので、サイバー空間での基本的な操作要領を授業でやります」
優しい顔をした教官は、電子バインダーをめくりながら板書を進めていく。
「まずサイバー空間、あー電脳空間と言ってもいいんだけど、その歴史は先週やったとおり。今日はまず、その構造や決まりを簡単に説明します」
バインダーからボードに何かをスライドすることで、簡単な図がボードに映される。大きなサーバーと、周りを取り巻く小さなサーバー群。
「みんな子供のころから何度も遊びに行ってると思うけど、サイバー空間ってどこまで行っても続いてて広いよね。サイバー空間は一つの大きな基幹サーバーと、それをとりまくサーバー群で構成されていて、それぞれが独立した世界ではなく、すべてが集まって大きな一つの世界を構成しています」
教官は大きなサーバーと周りのサーバー群を大きな円で囲む。
「これは過去、電脳戦争が起こった時に、各サーバーのリセットでたくさんの犠牲がでたことから――それを防ぐために考案されました」
バインダーをめくりつつ、説明は続く。
「他のサーバーがウイルスに感染したり、サイバーテロが起きたり、停電で電源が落ちたり、いろんな理由で機能が維持できなくなった時に、周りのサーバー群や基幹サーバーがその処理を代行することで、サイバー空間の崩壊を抑制することができます。でも膨大なデータ量すべてを処理し続けることはできないので、機能が維持されている間に当該空間から退避する必要があります。そして、サイバー空間最大の決まり事と言えば?高橋」
教官に当てられた高橋が、その場に起立して答える。
「えーっと……電脳空間三原則です」
「おう、ロボット三原則に並ぶ大原則なんだけど、その中身は?」
「えーっと……、電脳空間の物理法則を改変、無視することはできない。時間の流れは現実世界に準ずる。電脳空間内では統一法が適用される。です」
「はいありがとう。いいよ。これは現実世界で言う憲法みたいなもので、すべてのサイバー空間に適用されています。サイバー空間の生みの親であるエドワード・クラーク博士が提唱したもので、その孫のジョナサン・クラーク博士の代で導入されています。これを批准しない空間はネットワークに接続できないようになっていて、サイバー空間の物理法則と一緒に基幹サーバーに保存されています」
陣は話を聞きながらノートに板書を書き写している。このへんは小学生で習ったことだ。特段目新しさはない。
「それともう一つ、サイバー空間には別の制限も設けられています。それが――」
「――それが抑制型物理演算エンジン。本来サイバー空間では、利便性が向上するように、現実世界よりも自由度の高い物理法則が働いている」
時限は変わって午後の授業。警察学校内のダイブルームで、実技訓練のための説明が行われている。
「たとえば、遠い空間へのテレポート、無重力体験や運動神経の強化などがある」
ダイブとは横になって入るカプセル型の装置だ。上半分が開閉するようになっていて、開くと頭にあたる部分に複雑に編み込まれた電極がある。このダイブルームには約300台ものダイブが整然と並べられていて、生徒は各自一台ずつダイブの横に立ち、体育会系の教官がその間を縫うように歩いている。
「だが、ダイブに接続している人間が全員好き勝手にやれば、空間内の秩序が保てない。そのために開発されたのが抑制型物理演算エンジン。これは基幹サーバーに格納されていて、サイバー空間全体に影響を及ぼしている。例えば、テレポートは各空間のアクセスポイントを経由しなければならないし、無重力空間の構築には届け出が必要、運動機能の強化は決められた空間内で、申請をした者のみが行える」
つまり、誰でも好き勝手できるわけでは無い、ということだ。それでも、現実世界ではなかなかできない環境を作り出して実験したり、疑似的な宇宙旅行を体験することもできうる。それらすべてを管理するのもMCPの仕事だ。優しい顔の教官に習った。習ったからこそ、同じ話は聞いていてつまらない。
「ふあ」
「武田!聞いてるのか!」
こういう時にあくびをすると、タイミング悪く見つかるものだ。遠くの方から教官の怒鳴り声が飛んでくる。
「はい!すいません!」
陣は慌てて気をつけの姿勢をとる。教官は五mほど離れたところにいるが、こちらまで届くくらい大きな鼻息を立ててまくし立てる。
「これから実践訓練をするんだ。気を引き締めろ!いいか――」
しかしやはり、聞いていてつまらない話だ。
「よし!次はサイバー空間内での負傷とMPについてだ」
簡単な訓練を終えたのち、教官が声を上げる。
サイバー空間内、一見するとめちゃくちゃに広い体育館のようだ。床は畳のように衝撃を吸収してくれるが、何をやってもヒビ一つ入らない。これが独自の物理法則という奴だろう。
「いいか、まず負傷した場合だ」
空間の真ん中に生徒を集め、教官が大声で説明をしている。
「サイバー空間での出来事は電気信号を通じて脳に送られる。触った感覚、聞いた音、食べた料理の味。当然、実際に食べ物を食べたわけじゃないから、いくら満腹中枢が刺激されても、現実世界で栄養を取らなければ死んでしまう。逆に足を折った場合。現実世界の足が折れていないのに、脳は強烈な痛みを感じて立ち上がれなくなる。これがMPだ」
そこまで言うと、教官は四角いシルバーの箱を取り出す。
「そこで、MPの問題を解決するために開発されたのが、救急医療キット、通称EDR(Emergency data restoration)だ」
箱を開くと、薄い赤、青、黒の注射器が入っている。先端は平たい円形状になっていて、実際に肌に突き刺すわけでは無いようだ。
「負傷時にこれを使うことで、データ上の破損を即座に修復、脳には完治したという情報を送る。足が折れても即座に歩き出せるというわけだ。各色事に効果が変わり――」
教官は赤い注射器を取り出す。
「大量の出血、臓器系の怪我に効く。目を失っても修復可能だ。青は――」
今度は青を取り出す。
「骨折や捻挫、主にカルシウムが必要な部位に効く。大きな衝撃を受けた時に意識を呼び戻すこともできる。そして黒は――」
今度は黒……と思いきや、教官は取り出そうとしない。
「黒は最終手段だ」
そこまで言うと、教官は大きくためを作って話を続ける。
「基本的に色を間違えても治らないことはない。よほどの大怪我でなければ赤青どちらでも代用は効く……が、これらは痛みを和らげるために、一時的に大量のアドレナリンを放出させる。多用乱用は危険だ。だから、一般には出回っていない。そして、黒の説明に欠かせないのがMPの一番大きな問題。サイバー空間で死んだ場合だ」
教官は箱を床に置くと、体育会系に似合わない静けさで説明を続ける。
「大量出血したり、頭を吹っ飛ばされたり、サイバー空間で死ぬと現実世界に送られる電気信号全てが途絶える。本来死んだというのもデータ上の話で、それだけで死ぬはずはないんだが……脳が〝死んだ〟と認識した時点で、なぜか体の方も活動を止めてしまう。このデータと現実のズレがメディカルパラドックスと呼ばれる所以だ」
「じゃあ黒だと治るんですか?」
生徒の一人が質問を投げかける。陣も含めて、こんな救急キットは今まで見たことがなかった。というより、必要になる状況がそもそもサイバー空間では起きにくい。銃やナイフは所持に許可が必要なうえ、使用可能範囲も限られる。自殺はともかく、サイバー空間内で殺人事件が起きた、という話はそう多くない。
「黒は電気ショックみたいなものだ。脳が完全に眠る前に刺激を与えて起こし、同時に破損データを修復する。ただ、死亡した直後でも復帰率はそう高くない。それもMPの難しいところだ。データの書き換えは簡単でも、脳の中までは同じようには……」
「え、じゃあ死んだらそれで終わりってことですか?」
質問した生徒は驚きの声を上げる。他の生徒もざわついている。
「死んだら終わるのは現実と変わらんだろう。だが、それを回避する手段も考えられている。EDRとはまた違う、単純にバックアップシステムと呼ばれているものだ」
教官は生徒が落ち着くのを待って続ける。
「バックアップシステムの開発者はビル・クラーク博士、原理は……まず、電脳空間に没入する際、脳の電気信号を読み取って――主に海馬の情報だが――それをバックアップデータとして保存する。そして万が一、電脳空間内で死亡した場合、脳が〝死んだ〟と認識する前に没入時の記憶を強制的に上書きする。これによって死を回避する。文字通りバックアップだ。この技術は量産が難しく、価格も高い。一般には流通していないが、MCPやMCS、サイバー軍など、サイバー空間で危険な任務にあたる組織のダイブには標準搭載されている」
「エベレスト登頂体験とかであるバックアップとは違うんですか?」
生徒から再び質問が出る。確かに、サイバー空間で危険な体験をする際、高い金を払ってバックアップをさせられる場合がある。陣はまだ経験がないが、ハイスクール時代に登山が好きな奴は経験したことがあると言っていた。ヒマラヤのクレバスに落ちたと思ったら、平地まで一瞬でワープしたらしい。
「いい質問だな。アミューズメント施設にあるものは、あくまでその施設内でのみ使用可能なソフトウェアのバックアップだ。施設内で大怪我、もしくは死亡するほどの事態が発生するとAIが判断した段階で、その事態が起きる前に意識データを安全な段階、場所まで退避させる。その空間内のデータ情報が大きく書き換わるため、サイバー空間全体では導入されていない。そもそも……」
十一月10日現地時間午後八時49分。ジャパン支部総括本部刑事部捜査一課第一調べ室。
「…………」
陣は足を組み、ひじ掛けで頬杖を突いて机越しに男をにらみつけている。かれこれ十分以上、こうして無言が続いている。暇すぎて十年前の授業を思い出していたくらいだ。
「はあ」
ため息一つ。他の仕事もあるのでこれ以上は引き延ばせない。
「なあ、なんか話すことねえのか」
試しに話題を振ってみるが、男は何も答えない。進展と言えば、こいつの顔を明るい場所で拝めたくらいか。思ったより整った顔立ち、髭などは生えておらず、短く整えられた髪は清潔感を感じる。一言で言い表すなら、奇妙なほどスマートな顔。
「電脳空間凶器所持等取締法違反。お前は逮捕されてんだ。黙秘権はあるが、お前の個人情報は黙秘権の対象外だぞ」
一応事実は再三告げている。返事はない。
「腹空かねえか」
やはり返事はない。部屋の隅をへらへらした顔で眺めている。
ここまでだ。
陣はため息をついて、取調室を後にする。
「不気味っすね」
デスクの上で報告書を読みながら、木下が声をかけてくる。
「ああ」
陣は不満そうに答えて、自分の席に座る。サイバー空間にある捜査一課の一室。白を基調とした部屋に白を基調とした机。清潔感を感じる室内には各班ごとに机がまとめて並べられ、合計四つの島が出来ている。陣と木下が所属しているのは部屋の一番奥、柴咲警部補率いる柴咲班だ。
「犯罪歴無し、非行歴無し、そもそも電子指紋もDNAの生体情報も登録無し。没入地点も経由してきたアクセスポイントのログも無し……。何者なんすかね、こいつ」
「何なんだろうなぁ……。幽霊か化け物か」
「それこそ幽霊ですよ」
神出鬼没で足取り不明、まるで実体が無いかのようだ。
「あれの鑑定はできたのか」
あれとは注射器のことだ。鑑識からの結果が帰ってきているはずだ。
「今鑑識からの読んでるんですけど、あそこまで破壊されてると復元できないみたいで」
木下はお手上げです、と言いたげに両手の平を天井に向ける。
「マル害の身元は?」
「それもわかりません。あの時間帯でMPが起きたのは今判明しているだけで十四例。一つ一つ精査していますが……生体情報は復元に時間を要するとか、顔に至っては復元も不可能、身元の照会は手こずりそうです。しかも、現状保存のデータもなぜか破損」
「現状データが破損だあ?手違いじゃねえのか」
「いや、これ見てくださいよ」
木下は端末を操作して、ARデバイスから映像を投影する。柴咲班の机の周りに、件のトンネル前が忠実に再現される。これが現状保存。サイバー空間では現実世界の監視カメラのように、すべての行動が録画、記録されており、現状保存で時間と範囲を指定することで、当該箇所の映像、音声、当時のデータの流れを持ち出すことができる。
陣は立ち上がり、再現されたトンネルの出入り口に近づく。少し伸びたあご髭を右手でさすりながら、トンネル前の二人をしげしげと見る。一人は地面に倒れ、もう一人はその顔に拳銃を突き付けている。見事な再現度だ。毎回そう思う。
……が。
その顔は真っ黒に、穴が開いたようになって何も見えない。被害者も、犯人もだ。
「巻き戻してくれ」
指示通り、木下が端末を操作する。陣の目の前で、犯人の指が何度も引き金を引く。いや、引いているのではなく引き戻しているのか。弾丸が銃身の中に一発ずつ戻って行く。全てを戻したところで、犯人は後ろ向きに歩き出す。倒れていた被害者は引っ張られるように起き上がり、体をひねると後ろ向きに走り出す。
そのまま観察していると、犯人がトンネルの中に入っていく。続いて被害者も。ただ――二人の顔と同じく、トンネルの中も真っ暗な穴になっていて見通せない。トンネルの入り口を境界にして、二人とも消えてしまった。
「なぁんだぁこれ」
「トンネル内のデータも、自分たちが入る五時間前の分から壊されてて……MCSLに通報して、今は復旧したそうですが……」
「あー、これもあいつがやったのか?」
「……たぶんですね」
「どっちにしろ証拠がねえな。これじゃ殺したのがあいつってのも立証しにくい。西に500m移動してくれ」
「うす」
映像がいったん止まり、陣と木下の周りで景色だけが動き始める。リニアの線路に沿って、現場から西に目にも止まらないスピードで流れて行く。そして500m移動したところで、ぴたりと止まる。
「めぼしい目撃者は無しか……」
陣はあたりを見回してつぶやく。午前の早い時間とはいえ、このトンネル周辺は普段人が通らない場所だ。木下に指示を飛ばし、他の方角も見ていくが、結果はどれも同じ。データが残っていない以上、付近を通りがかった人の目撃情報が頼りだったのだが……。
「らち明かねえな、いったん外に出んぞ。向こうで会おうや。班長にも報告しねえとな」
陣は諦めて部屋を後にする。木下もARを終了すると、後に続く。
「了解っす」
ドアを開けて部屋に入る。現実世界の捜査一課の一室。築年数相応のシミが入った壁に使い古した机。雑多な室内は、各班ごとに机がまとめて並べられ、合計4つの島が出来ている。部屋の一番奥、所属している柴咲班に向かう。
「お疲れっす、戻りました」
陣はトレンチコートを自分の椅子に掛け、係長席に座っている上司に挨拶する。
「あー、お疲れ、鑑識の結果と木下の捜報は読んだ。現状保存は?」
五十手前の柴咲警部補は、陣の恩師でもある。ごつごつした太い指に厳しい眉、つんつんした髪で威圧感が半端ではない。
陣は銃を撃つジェスチャーをしながら答える。
「ダメっす、バッチリ映ってんすけど、マル害もマル被も顔のデータがすっぽり抜けてて、誰が誰を殺したのか証明できません」
「確実なのは電凶法だけか」
「でも検事は嫌がるでしょうね」
「身元がわからねえのがな、飲まず食わずで持って一週間、留置に耐えられんだろう」
二人で話し込んでいると、遅れて入ってきた木下が近づいてくる。
「お疲れ様です」
柴咲と陣は一言ずつ返し、話に戻る。
「お疲れ」
「おう。一週間つっても、死ぬギリギリっすもんね。調べに耐えられんのはせいぜい三日か四日……拘留不能決定でも出すんすかねぇ」
「あんまり聞いたことねえけど、そうだろうな。48時間以内で決めるしかねえが……何かいいの無いか」
ベテランの柴咲も頭を悩ませている。このまま現実世界の身柄が確保できなければ、餓死でMPが起きる前に釈放する羽目になる。
「当時現場付近にいたのは、西方2、300mに男性と女性が一人ずつ」
「え⁉いたんすか⁉」
木下は驚きの声を上げる。
「……いたよ」
陣はあきれ顔で部下を見る。
「でも目ぼしいのはいないって」
「目ぼしかねえだろうが!あの距離なんて、銃声が聞こえたかどうかってレベルだろ」
あの位置と言われても、木下はその二人がどこにいたのか全く分からない。猛スピードで流れて行く景色の中、人の姿を認識できるとは……陣の観察眼には驚かされるばかりだ。
「すごいっすね」
「あぁ?おま、そんなこたあどうでもいいんだよ、二人の身元調べてこい」
「はい!うっす!」
木下は自分の机に座り、PCで現状データの読み込みを始める。
「聞き込みで何とかなるか?」
柴咲は難しい顔で陣に尋ねる。
「いやー。でも一応捜査しつくしとかないと、検事も納得しませんでしょうし」
「そりゃそうだ」
「武田部長、これっすか?」
後ろから木下が呼んでくる。陣は歩み寄って、木下の机に手をついて覗き込む。PCの画面には、路地を歩く男性の姿が。
「おーそれそれ。もう少し先にもいるからな」
「了解っす」
木下は男性の姿にカーソルを合わせ、MCP本部に紹介をかける。その先にいた女性にも同様の作業を行う。そして、出てきた情報を上司二人に口頭で伝える。
「男性の方はジャパンの会社員、女性は――メリーランドの人間です」
「本土の方か……この時間だと、まだ寝てんな。班長どうしましょう」
「あー、電話よりも、現地に行った方がいいだろう」
「本部に頼むんすか……」
「知り合いにアポとってやるから、お前直接行って来い。あー」
柴咲は、腕時計を見ながら少し考える。
「寄り道して向こうに行けや。あと三十分もすりゃ出勤してるだろう」
「了解。じゃあ俺が本部行きます。キノ、お前九時過ぎる前にこっちのほう電話して聞いとけ」
「了解っす」
陣は反対側、自分の机に回り、かけていたトレンチコートを手に取る。歩きながら羽織ってドアに向かうが、大切なことを思い出して振り向く。
「もし会えるなら直接会って調書まいてこい!」
後ろ向きに歩きながら、人差し指でくぎを刺す。
「はい!」
元気のいい返事を聞きながら振り向き、部屋を出た。
陣はサイバー空間内のMCPジャパン支部総括本部一階のアクセスポイントに向かう。
アクセスポイントは五、六人が一度に入れるくらいの、円形の青白い光だ。これがサイバー空間のあちこちに設置されており、左腕の端末で行先を指定することで、遠く離れたサイバー空間に短時間で移動できる。今回の行先はMCP本部が置かれている米国ワシントンエリア、その公衆アクセスポイント。
光に足を踏み込むと、見えない力で何百メートルも上空に引っ張りあげられる。高速エレベーターで一階から屋上まで一気に登る感覚に近い。二、三秒奇妙な浮遊感にさらされていると、ふいに足元に地面の感触が現れる。そのまま光の外へ歩いていくと――
――目の前は朝日に包まれたワシントンの街。ジャパンには無い洗練された建物と遠くに見えるホワイトハウス。周りはせわしなく行き交う人々、点在する露店、車道には車。絶え間なく響く生活音で少々耳が痛い。
十一月10日現地時間午前七時14分。
陣は公衆アクセスポイントから人波の流れに入っていく。MCP本部はここから歩いて十五分弱。班長がアポを取っている間にちょうど着くだろう。そのあいだに新聞でも確認しておきたいものだ。
左右を見渡してみると、左前方に新聞を販売している露店を見つけた。露店の前を通り過ぎながらトレンチコートのポケットからビットコインを取り出し、親指ではじいて店主めがけて投げる。コインを受け取った店主は金額をちらりと確認した後、タブレットをスライドして新聞のデータを飛ばしてくる。陣は片手に収まるL字型のデバイスを取り出し、無線で飛んできたデータを受け取る。全てのやり取りを歩きながら手短に終え、デバイスのボタンを親指で押し込む。
小さな音と共に、L字を起点として新聞の一面が表示される。デバイスは縦横数センチだが、紙面の大きさは現実世界と変わらない。画面無しで空中に画像を表示できるのも、サイバー空間の恩恵だ。空中に表示される紙面は実体がないため、L字型デバイスが持ち手となる。
《ジャパンで猟奇殺人》
見出しトップはトンネル前の写真だ。わずか九時間前の出来事だが、こちらの朝刊ではかっこうのネタにされている。
紙面の上でピンチアウトの動作をして、記事を拡大して見る。人ごみの中を進みながら読み進めていくが、幸い犯人に関する情報は載っていない。たまに記者しか知りえないブラックな情報もあるため(真偽のほどは定かでないにしろ)淡い期待を描いていたのだが、さすがに今回はそううまくいかないようだ。
「んー」
唸りながら読みながら、歩き続ける。
数分後、庁舎にたどり着く。地上34階建て、地下にも数階ある。世界172の国と国家群で形成される多国籍電脳空間警察、その本部。庁舎前の広場には加盟国の国旗がずらりと掲げられている。
その国旗の下、巨大な自動ドアに多くの人が吸い込まれるように入っていく。米国本土に居住する者はちょうど出勤時間なのだ。もちろん、他の標準時を使用する国のために庁舎自体は24時間開いている。
人の流れに乗り、庁舎内に入る。邪魔になるので新聞はここまでだ。一階は受付とエントランス。正面には階段があり、そこを上ると半二階のようなスペースへと繋がる。天井が二階分あるため、他の階と違ってとてつもない開放感がある。天井から吊り下げられたよくわからないオブジェと相まって、凄みすら感じる。普通の人ならば。
陣にとってはこの大きさが威圧の象徴としか感じない。警察という正義の押しつけにも感じる。皮肉なことに、現職であるが故に正義の限界や力不足を感じている。
――「ああぁぁぁぁ!」悔し涙が、頬を伝う――
今回も、間違いなく殺人を犯した男を確保したというのに、身元がわからないという理由だけで釈放する手前まで追い詰められている。そんな矛盾を抱えた組織が、こんなに大層な建物を使って威張っている場合か。
そうしてオブジェを見ながら受付に近づき、警察手帳を見せる。手帳を見た職員はにこやかにようこそ、と答え、用件を尋ねてくる。
「MCPジャパン支部総括本部の武田です。事件のことで――うちの柴咲から連絡がいってませんでしょうか」
「柴咲さんですね、しばらくお待ちください」
職員は端末で柴咲の名前を検索する。来客予定や調べ予定が登録されたシステムだろう、申込者や来庁者の名前でヒットするようだ。
「ああ、承っております。十三階の捜査一課、Aブロックでお待ちください。担当者が参ります」
「すいません、ありがとうございます」
陣は礼を言って、エントランス横に何基も並んでいるエレベーター、そのうちの職員用に乗り込む。これは鑑識などの専門の課にも通じていて、警察手帳を所持していなければ乗り込めない。任意の取り調べに訪れた者や、報道の記者は一般用のエレベーターで当該階にのみ移動が可能だ。
陣が乗り込むことで、庁舎管理AIが自動で十三階のボタンを点灯させる。
十三階、捜査一課Aブロックの待合室。Aブロックは環太平洋国家群の捜査員が集っている。来庁者にわかりやすいよう、各課でアルファベット順に区分けされているのだ。しかし、座っているのは陣だけ。本部のくせに、意外と暇なのかもしれない。
担当者が来るまで手持ち無沙汰なので、再び新聞を開く。さっきは気が付かなかったが、電凶法違反で被疑者を逮捕したことがちゃっかり書かれている。このまま釈放になれば世論が許さないだろう。うーむ、困った。
と、ガチャリと扉が開き、捜査員が入ってくる。
「すみません、お待たせしました」
その声を聞いて、陣はL字のボタンを押し込んで新聞をしまう。
「ああ……、いえ――」
挨拶しようと立ち上がったが、驚いて固まってしまった。
「?……初めまして。柴咲警部補からお話は伺っております……?」
陣の反応に、捜査員は不思議そうな顔になる。
「ああ、いえ、こちらこそ。よろしくお願いします」
我に返り、挨拶を返す陣。班長がアポを取るくらいだから、敏腕刑事が出てくると思っていたのだ。それが――
「どうぞこちらへ、私のデスクまでご案内します」
「どうも」
――それが、陣の前を歩く捜査員は、まごうことなき美女だった。身長は低いが、薄い色のクリッとした目。長い金髪をポニーテールにまとめ、大きな胸元に電子バインダーを抱えている。
あのいかつい班長が、どうやってこんな若そうな刑事と知り合ったんだか……。
そもそも、捜査経験のほどはどうなのだろうか。少しの不安を感じながら、陣は彼女に従って部屋に入る。
「ここが私の机なんです。どうぞ」
「失礼します」
広い部屋の一角、ジャパン支部と同じく白を基調とした机。陣達との違いは、一人ずつ机が独立しているということだ。向かい側には彼女が。
「私はアミリア・クラークです。よろしくお願いします」
握手を求められたため、手を伸ばして応じる。
「クラーク?クラークってあの有名なクラーク博士?」
握手をしながら陣は率直に聞く。アミリアははにかみながら答える。
「ええ、そうです。おじいさんのおじいさんのおじいさんが、エドワード・クラークです。代々MCSLの科学者だったけど、私は頭が悪くて……気が付いたらMCPに」
「いやそんな。……失礼ですが、階級は?」
握手を終え、お互いにこやかに席に座る。
「Sargent、巡査部長級です」
「あぁそれはよかった。同階級なら、ほら。気兼ねしなくて済む。同じく巡査部長、武田陣です。よろしく。祖先に戦国武将がいるとかいないとか」
同階級、という響きとくだらないジョークに、アミリアはくすくすと笑う。
「そうね、気兼ねしなくて済む。ああ、もっと怖い人かと思ってたわ」
「あっはっは……知ってるんですか?」
「ええ、柴咲警部補の部下だし、何よりあなたは有名人だもの。MCPジャパン支部で検挙数一位の武田巡査部長。MCP全支部と本部を合わせても検挙数二位。犯罪の少ないジャパン支部で、すごいわ」
「ああ~、そうなんすね」
「知らなかったの?」
アミリアは信じられない、と言いたげな顔をする。陣は苦笑いしながら自分のポリシーを告げる。
「そういうのには興味なくて」
「そうなの?本部に異動すればMCP一位間違いないのに。ずうっと捜査一課にいるんでしょう?」
「ああ、日本人は頑固なんですよ、侍の時代からずっと……。日本人なんてくくりがあるかどうかは別にして」
陣はやれやれと言いたげに笑みを浮かべる。
「フフッ、でもサムライはいつの時代も真剣だわ。文字通り。だからきっと、あなたにも何か信念があるのよ。日本人なんてくくりがあるかは別にしてね」
笑いながら冗談を返されたが、思いのほか的を得た返しでもあった。この女は、できる。同業者としてそんな直感が頭をよぎる。
だが、その信念の部分に触れられたくない陣は、あいまいな笑いを飛ばす。
「ホントは面倒くさくて、駄々こねてんですよ。柴咲班長のおかげでずっと居座ってるだけで」
「ふうん……」
アミリアは興味深そうに陣をしげしげと見て、本題に移る。
「それで、だいたいは柴咲警部補から聞いているのだけど……」
「そうなんですよ。ちょっとやっかいなことになってまして」
陣は気を取り直し、L字デバイスを取り出して新聞を表示する。
「報道はもう?」
「ええ」
うなずきを返す彼女に見えるよう、新聞を机の上に置く。
「おおむねマスコミの通り、殺人の現場付近で見つけた男を電凶法で現逮しました。間違いなくこいつが絡んでる。と思うんですが……いかんせん証拠がない」
「現状保存も壊れているとか」
「ええ。機械の不具合や保存方法のミスでってのは何度かありますけど。そのどれとも性質が違う。正直お手上げです」
「検事は?」
「班長とも話したんすけど、たぶん釈るでしょうね。ただ何もしないってわけにもいかなくて。それで、当時現場付近にいた女性に話を聞こうと思ってるんです」
「その女性が、こっちに?」
「ええ、フレデリック在住の……仕事を調べたら現実世界の方だったんで、クラーク部長にお願いを、と」
アミリアは新聞を眺めながらうなずく。
「わかりました。そういうことなら、私が聞きに行きます。基本的には事件を目撃しているかどうか、ね。特に聞いておきたいことがあれば対応するわ」
「あー、助かります。目撃――音だけでもいいんです。銃声が聞こえたかどうか。あとは――あの時、変わったことがなかったか、サイバー空間自体の異常があったかどうか」
「それは……現状保存が破壊されているからってことね?なにかデータの書き換えの余波を感じたかどうか」
「そうですそうです。どこまでの範囲に影響を及ぼしているのかもわからないんで……俺の部下はその辺ちゃんと聞いてんのかな、言っときゃよかった」
陣はしまった、と舌打ちする。木下は将来有望な部下だが、果たしてそこまで頭が回っているかどうか……。
「大丈夫よ、あなたの部下だもの。こちらの方は任せてください。できる限り早く調書にまとめて、そちらに送るわ」
「いや、とんでもない。ありがとうございます」
「メールで?それとも直接お渡ししたほうがいいかしら?」
気の利く捜査員だ。柴咲班長はいい人を紹介してくれた。これなら素早くカタが付くだろう。陣は安堵の表情を浮かべ、にこやかに答える。
「何でも結構です。今日はジャパン支部に泊まりますんで、いつでもお待ちしてます。別件で空けるときは、代わりの者を待機させます」
十一月10日現地時間午後10時33分。MCPジャパン支部総括本部刑事部捜査一課。
「それで、どうだったよ」
陣はカップラーメンをすすりながら木下に聞く。
「いやそれが」
木下も同じくカップラーメンをすすりながら答える。
「拒否られました」
陣は麺をごくんと飲み込み、半音高い声を上げる。
「あぁ⁉聴取に応じねえのか」
「はい。何でも――」
麺に息を吹きかけ、木下は続ける。
「――何もお話しすることはございません。って」
「なんだそりゃ、お前、機嫌損ねたんじゃねえだろうな」
「電話には出たんですよ。それで『今朝十時ごろ、TOKYOエリアで何をされていたかお伺いしたいのですが』って言ったら、そのままガチャッて」
木下の電話を切るジェスチャーを見ながら、陣はスープに口をつける。
「ふーん。何か隠してる感じだったか?」
「あれは間違いな警察を避けてますね。何がマズいのかはわかんないすけど」
「直接行くしかねえか。どっちにしろもう遅い、明日の朝だな」
「ですね。そっちはどうだったんですか?」
「あー」
陣は箸を止めて、アミリアの姿を思い浮かべる。
「捜査員が女だった。ビビったよ」
しみじみと言う陣を、木下は少し面白そうに見る。
「美人だったんすか?」
「ああ美人だった」
何の思いもなくポンポンと返事をする陣だったが、部下のニヤニヤした視線に気が付く。
「なんだぁお前コラ」
「ぉふっ、なんでもないっすよ」
「任意の調書くらい、いっちょ前にまけるようになってから言えよコノ!」
木下の頭を小突く。
「うっす、すんません」
「ったく、時間外打って帰れ。んで、七時にはまた来てくれ」
陣は割り箸をカップラーメンの容器にぶち込み、共用のゴミ袋に投げ捨てる。こうして適当に捨てるから、捜査一課はいつも散らかっている。
「武田部長はどうするんですか?」
木下も食事を終え、ゴミを投げ捨てる。
「返事待ちますって約束しちまったからな。男がダメだったし、女の方に期待するしかねえだろ。ここで仮眠とるわ」
「それだったら俺代わりますよ」
「いきなり面識のない若手がでてきてどうすんだ。向こうも困るだろ。いいから帰って寝ろ」
「いや、でも」
「いいから寝ろ。やりますアピールは二回まで、三回目からは」
「お言葉に甘える。了解っす」
木下は普段の陣の教えを引き継ぎ、素直に引く。
「おう、お疲れ」
「お疲れっした。先に失礼します」
陣は部屋を後にする木下に向かって、後ろ手に手を振る。さて、シャワーだけ浴びて、仮眠をとるとしよう。
明かりがすべて消え、人気のなくなった捜査一課。陣はキャスター付きの椅子を並べて、そのうえで寝ていた。所轄の刑事だったころから、泊まり込むときはこのスタイルだ。
本来、捜査一課は機動捜査隊のように泊まり込みで仕事をする部署ではない。そのため、ごちゃごちゃしただだっ広い部屋には、陣の軽いいびきだけが寂しく響いている。
ポーン
突然、静寂を打ち破って着信音が鳴る。あまりにも大きな音に陣は飛び起き、危うく椅子から転げ落ちそうになる。
「うおぉぅ」
慌てて椅子のひじ掛けにしがみつき、落下する体を支える。
眠たい目をこすりながら、自分のPCの画面を見る。スクリーンセーバーが消え、画面の中央にはメッセージが。
新着メール一件有り。
そのメッセージをクリックして、中身を確認する。期待を込めて文章を読み進めていく陣だったが……その内容に大きなため息をつき、机に突っ伏した。
《武田巡査部長へ
そちらは夜遅いでしょうから、メールで連絡させていただきます。
結論から申し上げますと、女性への聴取はできませんでした。
何度も説得を試みたのですが、これから仕事が始まるので対応できない、の一点張り。
これは私の力不足です。大変申し訳ありません。
彼女の勤務終了を見計らって、もう一度協力依頼に向かう予定です。その際はまたこちらからご連絡します。
アミリア・クラーク》