水鏡創世記
始めに混沌があった。
どれほど前にその混沌が拓かれたのか、今となっては誰にもわからない。
いずれにせよ太古の昔、天帝によって拓かれた混沌から天地が生まれ、ゆっくりと少しずつ生まれてゆく万物に精霊が宿った。
大地に根を張る草木には木精霊が。
闇を照らす火には炎精霊が。
産み出す土には土精霊が。
土より生まれる硬きものには金精霊が。
命を育む水には水精霊が。
そして吹き渡る息吹の風には風精霊が。
そうして生まれた世界の中、長い長い年月を経て動植物が育ち、土が積もって岩となりまた砕けては土に還った。
その悠久なる消長の中。
やがて人間が生まれた。
その大陸で人間が生まれたのは、ひょっとするとこの物語が起こった時からそれほど遠くない昔だったのかもしれない。
何故なら、その頃人間の持つ文明はまだ幼かったからだ。とはいえ、人々は火を使う事を知っていたし、農耕も、集落を作って住む事も、草花から糸を取って衣を織りあげる事も心得ていた。
しかしながら、彼らの形作る「社会」に、支配者はまだ居なかったのだ。彼らは互いに対等であり、自分達の必要な物を自分達で作り、時に交換しながら暮らしていた。
そんな彼らが形作る集落の一つに、一人の少年が居た。
少年はまだ産まれて十余年しか経っていなかったが、集落の長老よりもずっと深くこの世界を理解していた。
何故なら、彼は力を持っていたからだ。彼は他の人の目には映らない精霊を見ることが出来たし、それらを動かして人には出来ないことをやってのけることも出来た。至る所にふわりふわりと漂う丸っこい精霊達は、彼が語りかければ応え、力を貸してくれた。
しかし、彼の力は、精霊に働きかけるだけではない。彼はもっと大きな道理に働きかける事を知っていた。この世界の裏側に流れ循環する力を、彼は本能で感じ取っていた。
方術という分野において天才を求めるなら、彼こそまさしくそれであった。
しかしその才能を知る者は、彼自身を除いては誰も居なかった。聡い少年は理解していたのだ。精霊や世界の循環の存在を口にしても、誰も信じてはくれないことを。だってこの集落には、「視える」人間は他に居ないのだから。
やがて、少年は気づいた。
この世界に、神が居ない事に。
天帝は、居る。
しかしながら天帝は天に住まう存在であり、この地に棲んでこの地を守り管理するものではないのだ。
誰もこの世界を守らず、手綱も握らず、世界を循環させる大きな力はただ気まぐれに流れていく。
少年がまだ五回しか春を経験していない頃、長い間雨が降らずに地表は枯れ果てた。
大人達は必死に祈り、なけなしの家畜を犠牲に捧げ、天に平伏して雨を乞うた。それでも雨が降らないと、最も長生きした長老を燃やした。
雨は降らなかった。
集落の人間が新しい井戸を求めて地面を掘り返しては失望するのを何度も繰り返した頃、ようやく天は水を落とした。
大人達は歓喜し、僅かに残っていた穀物を天に捧げた。
長老はどうして殺されたんだろう、と少年は思った。
少年が七回夏を経験した頃、川が溢れて大洪水が起こった。
丘に逃れた人々は、荒れ狂う水に綺麗な石を投げ込んで祈った。やがて雨がやみ水が引くと、集落は綺麗に押し流されていた。人々は口々に悪態を吐きながら瓦礫を漁った。
祈りの言葉と悪態と、どちらも同じ川に捧げたものだった。
だったら何に祈るのだろう、と少年は思った。
少年が十回秋を経験した頃、集落が火事になった。
瞬く間に燃え広がった火が家も畑も焼いてしまって、人々は嘆き悲しんだ。もうこんな災厄が無いように、そして来年の麦がちゃんと実るように祈るのだと言って、仲間を一人生き埋めにした。
翌年は不作だった。
無意味だ、と少年は思った。
少年が十二の冬を重ねた頃、同じ集落の二つの一族が諍いを起こした。
彼らの土地は隣同士で、境目にある僅かな畑を、どちらも自分のものだと言って譲らなかった。
大人達は占いで決めよう、と言って、何やら儀式をしていた。占いで土地を得た家族は満足そうで、相手は酷く不満そうだった。
翌日、占いで土地を得た家族を、相手の家族の暴れ者が皆殺しにして家も土地も丸ごと奪った。大人達はまた占って、殺した方は無罪になった。
くだらない、と少年は思った。
思うに、それもこれもちゃんと願いを受け止める神が居れば、或いは人々にその行為の無意味さを教える指導者がいて、道理に沿って管理していれば、こんな馬鹿げた事にはならないのだ。
十三になった少年は、薪を割りながらそんな事を思った。
これまで少年は幼い自分を自覚して黙っているだけだったけれど。
手斧を振り下ろす。薪が割れる。
だったら、なってやろうじゃないか。
支配者に、或いは――神に。
そんな決意をしてまもなく、少年の住む集落に一つの集団が現れた。
彼らは羊飼いで、羊の食べる草を求めて移動しながら、こうして通りかかった集落で毛皮や肉、乳などを他の物と交換するのだという。集落の大人達は、物珍しげに彼らを眺めた。少年はそんな暇なく働かなければならなかったので、いつも通りに畑仕事をしていた。
不意に、ざわりと背筋が騒ぐ。
周囲の精霊が興奮するのがわかった。
「おぉい、そこな少年」
かけられた声に顔を上げると、畑の端に二つの人影があった。見覚えの無い顔に、見慣れない服装。羊飼いに違いなかった。
「何」
少年は素っ気なく応じた。内心で眉を顰めていた。
精霊が騒いでいるのは、彼らが原因だ。
彼らには精霊が見え――彼らは、精霊に愛されている。
「なぁんで一人きりで畑仕事なんかしてるんだい?」
先ほど少年に声をかけた人物が、重ねて言う。金と言うにはやや深い色の髪に黒い目の、朗らかな青年だった。
「……仕事だから」
短く答えて、少年は鍬を振り下ろす。
その様子に眉を下げたのは、青年の傍らにいる優しげな女性だった。鮮やかな金色の髪が、遠目にも眩しい。
「こんな広い畑を貴方のような子供一人でなんて、無茶だわ。ご両親はどうなさったの?」
「いない」
顔も上げずに、少年は答えた。久々に誰かと喋っているな、と頭の片隅で思った。
「ずっと前に病気で死んだ。俺は一族に置いて貰う代わりに働かなくちゃならない」
簡潔に言って、労働を続ける。
真昼の太陽が容赦なく照りつけて、少年の額からは絶え間無く汗が溢れていた。
不意に目の前に皮袋を差し出されて、少年は思わず手を止めた。
顔を上げてみると、先程の青年が朗らかに笑いながら皮袋を揺らす。
「まぁ飲みな。こんな炎天下で働き続けたら干からびちゃうぜ?」
少年は数秒動きを止め、恐る恐る皮袋を受け取った。喉はとうに干上がって、息をする度にひりつく。
皮袋の中身は羊の乳だった。
初めて口にする濃厚な味に何度か噎せそうになりながらも、少年は夢中でそれを飲み下した。
さわり、と風が吹く。
風がこんなにも優しく爽やかなものだと、少年は初めて知った。
「そりゃあ俺らの一族でだって子供も働くさぁ。でないと食ってけないもの」
でもなぁ、と続けて、青年は苦笑した。
「さすがにこれはないだろうよ。坊主よく生きてこれたよなぁ」
あれからまた黙々と働き続ける少年を見かねて、二人が半ば強引に少年を畑から引きずり出して休ませたのだった。
少年は今、二人が荷を運んできたという車の荷台に二人に挟まれるようにして座り、与えられた干し肉をもぐもぐと咀嚼している。
少年から彼の境遇を聞き出した二人は、一様に眉を寄せた。
「貴方のさせられている事は子供にさせる仕事じゃないわ。大変な重労働よ」
そんな風に言われて、少年は少し困惑した。
たとえ世界を理解していても、人の社会の常識までわかるものではない。少年は、自分の年頃の普通の子供があるべき姿を知らなかった。
「なぁ、坊主よぅ」
不意に、青年が真剣な目をして少年の顔をのぞき込んだ。
「お前、俺達のとこへ来ないか?」
少年は目を瞬いた。
この集落から出る。彼らの所へ行く。
優しい、彼らの所へ。
それは少年が初めて触れた優しさだった。
「こんな扱いされてちゃ坊主、いつか死んじまう。俺らんとこだって楽じゃあないけどよ、ここよりはマシさぁ」
青年がそう言うと、女性も少年の手を握った。
暖かい手だった。
少年は二人を見上げて、それから自分の手に目を落とした。豆だらけの手の向こうに、汚れた足と凸凹の地面が見える。
二人について行けば、きっと優しさに包まれて、平穏に、幸せに生きていけるのだろう。二人は精霊に愛されているし、酷い危難はそうそう無いに違いない。
無意味な祈りの為に犠牲を捧げる事も、占いで人の生死善悪を決める事も、この二人はするまい。
だから。
「――行かない」
少年は、小さな声で言った。
「坊主……」
「行かない……俺は」
暫く前に決意した事が、少年の胸中で大きく蟠っている。
この二人について行けば、多分、それは果たされない決意になるだろう。それでは世界は何も変わらない。少年が逃げるだけだ。
「俺は、変える」
何を、とは言わないながらも凛と言い切った少年に、二人はもうついて来いとは言わなかった。
ただ、そうか、と言って少年の頭を撫でた。
「ああ、待って」
別れ際、車を引いて立ち去ろうとした二人のうち、女性の方が思い出したように振り向いた。少年の前まで戻ってきて、視線を合わせる。
「貴方の名前を聞いていなかったわ」
名前、と少年は呟いた。長らく呼ばれた事の無いその響きを、思い浮かべるには数秒を要した。
「……望」
姓は、思い出せなかった。
「望、ね。私は圭裳。あっちが弟の燦葉よ」
この頃、定住民は多く一族の姓を持っていたが、遊牧民は概して二字の固有の名のみを持つ傾向にあった。そんな事を少年は知る由も無いが、ただ圭裳と燦葉、という音だけを胸に刻み込んだ。
「じゃあなぁ、坊主。元気でやれよ」
ひらひらと手を振って、燦葉が車を引いて歩き出す。圭裳は最後にもう一度少年の手を握った。
「負けないでね」
圭裳の暖かい言葉と、優しい微笑み。
二人から受けた優しさが嬉しくて、その気持ちを記憶に刻み込みたくて、少年はぎこちなく口端を上げた。
笑い方など知らなかった少年は、ただ二人の真似をしただけだった。
しかしそれだけで、少年の心は少しだけ浮き立つような心地がした。
少年が初めて見せた笑みに、圭裳は破顔した。
太陽のような笑顔だった。
名残惜しげに手を振って去っていく二人を、少年は畑の端に立ってじっと見送っていた。
それから間もなく、少年の住む集落を災害が襲った。畑がひび割れ、家が幾つか倒壊した。突然の災厄に大人達は恐れおののき、例によって占いをした。
占いの結果、少年の隣家に住む家族の中で一番小さな女の子が、生贄として生き埋めにされる事になった。
女の子は、まだ六歳だった。
何も知らずに大人達に呼ばれた彼女は、急に優しく接してくるようになった大人達を気味悪げに見上げていた。
運が無かったな、と少年は思った。
運の悪い者から、こうして犠牲にされていく。
ふと、少年と女の子の目が合った。女の子の瞳が揺れる。
――たすけて。
そう、懇願されたような気がした。
災害によって荒れた畑を均しながら、少年は考えた。あの子の縋るような目が、脳裏にちらつく。
あの子は時折、畑仕事をする少年を見ていた。声をかける事無く、ただ畑の隅に立って、じっと見ていた。
集落の中で唯一、少年を正面から対等に見てくれる瞳だった。
少年は手を止めた。周囲を漂う精霊達を見渡し、土精霊に語りかける。
「あの子を埋めれば、地震は無くなる?」
少年にとっては、答えのわかりきった問いだった。
「だめー」
「だめー」
「土、汚れちゃう」
祈りを受け取る者がいない以上、犠牲を捧げる行為もただの殺しでしかない。人の死は土を汚す。
少年は問いを重ねた。
「お前達に、地震は止められる?」
火事や、洪水や、干魃は?
「無理ー」
「ぼくたちだけじゃ無理ー」
「そう……」
少年は頷いて、目を閉じた。
世界は、やはり気まぐれに流れていくばかりだ。
少年は鋤を投げ出した。
大人達は土を掘って深い穴を作り、その傍に酒と穀物を供えて祈った。数人の男が、手足を縛られた少女を担いでくる。
怯えて震える少女を、穴に放り込もうとした時。
大人達の一角から悲鳴が上がった。それは瞬く間に伝播して、前列にいた者が何事かと振り返った時にはすぐ目の前に迫っていた。
それは獣の群だった。
狼、狐、それらの後ろに虎や熊。
まるで集落の周囲に生息するありとあらゆる肉食獣をかき集めたかのような、普通ならばあり得ない群が、人々をけちらしていく。
人々は悲鳴を上げて逃げ散り、後には手足を縛られた少女だけが残った。
恐怖に目を閉じる彼女を、しかし獣の牙が引き裂くことは無かった。代わりに誰かの手が少女の頭に触れ、縄を解いていく。
恐る恐る目を開けた少女の前に、見慣れた少年の顔があった。
「ぁ……」
目を見開く少女を、少年は一瞥しただけで何も言わずに抱き上げた。少女はそこで初めて、彼の周囲に獣が集まっていることに気づいて身を固くする。
「ご苦労、もういいよ」
少年が言うと、獣達はそれぞれに散っていく。少女は唖然とした。
人の言葉を解さない獣達、それも時に人を喰らう肉食獣達が、こんな痩せっぽちの少年の言うことを聴くなんて。
驚愕に言葉も出ない少女を、少年はどこか無機質な表情で見下ろした。乾いた唇が開く。
「生きたい?」
簡潔な問い。状況を呑み込み切れていない少女は、それに反応するのに数秒を要した。少年はそれを急かすでもなく、無表情に見下ろしている。少女は、首をゆっくりと上下させた。
「なら俺とおいで」
痩せた腕で、しかし危なげなく少女を抱えたまま、少年は歩き出した。
「どこ、行くの」
少年の腕にすがりながら、少女は小さな声で問うた。
何もかもが突然で、ふわふわと夢の中を漂っているような心地だった。
少年は前を向いたまま、答えた。
「『願い』が、生きるところへ」
それから、少年と少女は旅を始めた。何も持っていない二人は、すぐに野垂れ死にするかと思われた。
しかし、少年は実に「運よく」食べられる実の成る木を見つけ、澄んだ渓流を見つけた。
人を襲う獣は、少年が何か言うと牙を収めて去って行った。
少女は次第に、憧憬の籠った目で少年を見るようになった。
彼は、「神」なのかも知れない。きっとそうだ。だって、こんなにも全てを知っている。
けれども、少年の言う通りにならないものが、一つだけあった。
ある日、二人は山道で人に遭遇した。近くの集落から薪取りに来たのだろう、壮年の男だった。
「お前達、子どもがこんな山で何をしている。うちの集落の子じゃないな」
じろじろと二人を見た男は、何も持たず着る物もぼろぼろの二人の様子に気づくと、何か値踏みでもするように目を細めた。
「どこぞの集落から追い出されでもしたか、はぐれたのか。どの道、子どもだけじゃ生きてはいけまい」
男の視線が少女に向く。少女は思わず少年の背に隠れた。嫌な感じのする目だった。
「どうだ、俺の所へ来ないか。養ってやろう」
男が手を伸ばしてくる。ぎゅっと身をすくませた少女の肩に、少年が手をかけた。
「いらない」
少女の肩を引き、共に一歩下がって男の手を逃れる。
「二人でも生き延びられる。行こう」
男に拒絶の言葉を投げ、少女の手を引いて歩き出そうとする。その少年の肩を、男が掴んだ。
「子どもだけじゃ野垂れ死ぬだけだ。親切で言っているんだぞ」
「親切」
少年の鋭い視線が、男を射抜いた。
「仕事をさせて使い捨てて、この子は将来自分の子の嫁にしてやっぱりこき使う。それが親切なら、いらない」
何かが見えているかのように、少年は言い切る。
実際、少年には分かっていた。
別に未来が見えるわけではない。しかし、男の目つきと、周囲に漂う精霊たちの言動が、この男の意図を正確に伝えてくれた。
「な、なにを」
「手を、離せ」
少年は男の手を振り払おうとした。しかし、いくら労働に慣れ外見よりはずっと強靭な力を秘めていても、痩せぎすの十三歳の少年の腕力は働き盛りの男には敵わない。それを見て取った男が、少年の肩を掴む手に力を籠めた。
「山を彷徨って野垂れ死ぬよりずっといいだろう。来い!」
少年の細い肩が軋みそうなほどに、男が力を強める。
少女は小さく悲鳴を上げた。少年が痛みに顔を顰め、中空に視線を向ける。
「……そう。――いいよ」
「そうか。ならおとなしく……」
にやりと笑った男は、その言葉を言い切る事は無かった。
突如として男の体を包み込むように炎が巻き起こり、それを助長するように風が渦巻く。
言葉にならない悲鳴を上げて、男は瞬く間に燃え尽きた。
「――あんたに言ったわけじゃない」
炭とも灰ともつかないものと化した男を見下ろして、少年は呟くように言った。
「行こう」
何の感慨もその顔に浮かべず、少年は少女に手を差し伸べた。その手を握ろうとして、少女は自分が震えていることに気付いた。
「怖い?」
少年が首を傾げる。
感情の籠らないその動作は、自分のしたことを理解していないわけでもないのに、いっそ誰よりも無垢で無邪気だった。
少女は必死に首を横に振り、震えを止めようと自分の腕を擦った。自分を助けてくれた、そして護ってくれる少年が怖いなんて、そんなわけはないのだ。
そんな少女の様子を見ていた少年は、少し躊躇ってから、その頭を撫でた。
「変わらなければ。人は、このままじゃいけない」
ぎこちなく少女の頭を撫でていた痩せぎすの手が、少女の肩を滑り降りて小さな手を握った。
「行こう」
少女は頷いて、少年の後ろについて歩き出した。
二年が経った。
少年は何か目的を持っているようで、行く先々で少女には見えない何かと話をし、時に争い、それが終わると次の土地へ向かった。
少年は、山の、河の、野の、湖の精霊達やそこに住まう者達と話をつけ、従わせていっているのだった。
少年に地理的な知識など無い。ただ本能の赴くまま、少年に生来備わった人ならざるものの存在と意志を感じ取る力の教えるままに、大陸を歩き続けているのだった。
そして、それを邪魔する人間がいれば、消した。
必要なことだ、と少年はそこに何の感傷も抱かなかった。
いつしか、少年が従えた土地は大陸の半分に上っていた。
そしてそこから、進めなくなった。
「これは……」
土地が、精霊が、獣が、少年を拒絶する。何か、別のものが、この地を支配している証拠だった。
「誰?」
少年は風に問うた。
「あたたかいの」
「やわらかいの」
「優しいの」
「包み込むの」
風が、次々に言いたいことだけ言って吹きすぎていく。少年は眉を寄せた。
「優しい?柔らかい?こんなに強く支配してるのに」
少年が呟くと、風の精霊達は少年の周囲をくるくると回った。
「強いの」
「あったかい願い」
「……それが、俺の意志より、強い?」
少年は不快を覚えた。馴染みの無い感情だったが、それは少年の心から強く湧きあがってきた。
「だってね~」
「だって」
精霊達が少年を見て、頷きあう。
「だって、怖い」
少年の中で、何かが溢れた。
「……そう」
低い声が、口から零れる。
「……なら、いい」
少年は手を振った。精霊達が煽られたように吹き飛び、消えていく。
余人には聞こえない悲鳴がこだました。
「俺に味方しないなら、いらない」
近くにいた精霊達が、一斉に叫びながら逃げ散った。
自然の霊力の結晶である精霊をたやすく消しされる人間など、普通は居ない。精霊を使役するだけの方士には絶対にできないことを、少年はやってのけた。
そしてそれは、この世界への反抗を意味する。
「この世界は、俺達を苦しめるだけだ」
少年が何をしたのか見えないながらも不安げに隣に立つ少女の手を握りしめて、少年は叫んだ。
「俺の意志を受け入れないなら、消えてしまえ!」
どんなに落ち着いて見えても、世界を理解していても、彼は抑圧されながら生き延びてきた、十五歳の少年に過ぎなかった。
どこかで、獣が吠えた。
これまでに少年の支配を受け入れた土地の獣が、精霊が、暴れ始めた。
不穏な気配を感じて、淵の底に眠っていた者は目を覚ました。
――何だ、これは。
荒れている。
精霊が、獣が、世界の全てが。
「感じるか」
不意に声をかけられて、大きな頭をゆっくりと擡げる。すぐ傍に、黒々とした蛇をその身に纏った巨大な亀に似た者がいた。
「珍しいな、北からわざわざ来たのか」
「この大事に呑気に寝ているのはお前だけだよ」
亀はその短い首を伸ばし、水面を仰ぎ見た。
「皆、気付いている。南の鳥も西の虎も」
「何が起こっているんだ?」
淵の主は、目覚めたばかりの長大な体をゆるゆると持ち上げながら訊いた。
「さあ。しかし」
龍が目覚めたのを確認した亀は、水面に向かって足を掻いた。
「とてつもないことが起こっているのは、確かだろうね」
世界の叫びを聞きながら、二頭は深い淵から水面へと浮かび上がった。
「ようやく起きたか、東の龍!」
待ち構えていたかのように、即座に舞い降りてきた赤い鳥が淵の傍に留まる。
「何が起こっているんだ」
龍はまた問うた。それに答えたのは、目の前の鳥ではない。
「人間だ」
背後の岩に、白い巨大な虎が蹲っていた。
「大きな力を持った人間が争おうとしている――神にならんとして」
「神?」
それは馴染まない概念だった。
「天におます帝ではなくか」
至極当然の龍の問いに、亀が首を振った。
「あのお方はこの世界に対し何もしないだろう。そうではなく、この世界に働きかける存在が欲しいのさ」
ふむ、と龍は首をひねった。
それは別に悪いことではなさそうだが、何故こんなにも世界が荒れる事態を引き起こしているのか。
「北に神にならんとした人間がいて、南に精霊達が支配者として認めた人間がいた。それが争おうとしているのだ」
炎を纏った翼をばさりと振りながら、鳥が解説する。
「なりたい者にならせてやればいいんじゃないか。争えるということは、その器はあるんだろう」
龍がもっともな事を言うと、虎がのそりと身を起こした。
「ならん。あれは誤った」
「誤った?」
虎がしなやかな体を躍らせ、対岸へ飛び移る。亀も滑らかな動きで岸に上がった。
「精霊が思い通りにならないことに怒ったようだ…あれは精霊を消した」
苦味を含んだ亀の言葉に、龍が目を見開く。鳥がばさりと羽ばたいた。
「どうする、龍」
三頭の視線が集まる。
「我らは南の人間に力を貸す。――精霊を消し、世界を荒らす者は既に我らの敵だ」
龍は寸時考えた。
人間同士の争いに、我らが首を突っ込む必要はあるまいという思いもある。しかし、精霊を消しこの世界への反乱を起こした人間を許せない三頭の思いもわかった。
「……わかった。俺も行こう」
四方の聖獣が、一斉に立ち上がる。
この瞬間、少年は世界を敵に回すことになった。
いらないものなら、消えてしまえ。
従わない精霊を消し、旅の邪魔をする人間も消してしまう。
少年の雰囲気が変わったことを、少女は敏感に感じ取っていた。
どうしたんだろう、少女に向ける視線も、少女の手を握る掌も、変わってはいない筈なのに。
――怖い。
少女の目に、少年は以前の、無表情の中にも確かにあった優しさを無くしてしまったかのように見えた。
少年が精霊を消し始めてから、一年が経とうとしていた。
少年の纏う空気は、日に日に鋭く、冷たくなっていく。
「望……」
少女が呟いた時、不意に少年が振り向いた。少女はびくりと肩を跳ねさせる。射抜くような少年の目に、背筋が凍りついた。
しかし、よくよく見れば、少年の視線は少女ではなく、その背後の森を見ている。
「誰だ」
抑揚のない声で、少年が誰何する。
がさり、と茂みが揺れた。
「久しぶりじゃねえか。また会うとは思わなかったなあ」
向けられた少年の声の鋭さをものともせずに、屈託のない笑みを浮かべて、青年が姿を現す。
少年が、微かに目を見開いた。
「……燦葉」
「よう。背え伸びたなあ」
それはあの時の、羊飼いの青年だった。
少年の胸中に一瞬、あの時の陽光が蘇る。
「どうして、こんな所に」
「ん、ちょっとなあ。それよりさ」
じっと少年を見た燦葉は、ぐっと眉を寄せた。
「お前こそ、ここで何してるんだ?お前の集落からは随分遠い筈だぜ。それに……」
あっと驚く間に、燦葉の手が少年の襟を掴んで引き寄せる。
「何だ、この血の臭いは」
一瞬目を見開いた少年は、ゆっくりと口角を上げた。
それは自嘲の笑みだった。一瞬でも、あの時の温かい風景の中に戻れるかも知れないと思ってしまった自分への。
燦葉の言う血の臭いは、無論文字通りに少年から鉄くさい臭気が漂っているという意味ではない。多くの命をその手で無造作に奪ってきたが故にしみついた、死の気配だ。
そしてそれを感じ取れるということは、燦葉の感覚の尋常でない鋭さを表している。
「そう、か」
少年の中で、釈然とするものがあった。
「優しい支配とかいうあれは、あんた……いや、圭裳か」
精霊達を従わせる力と、慈悲深い心。それを併せ持つ人間など、そう何人もいるはずがなかった。
「お前、まさか……!」
「さよなら、燦葉」
少年は燦葉の手を振り払った。
「俺の邪魔するなら、あんたらも、敵だ」
「待て!」
去って行く少年を追おうとした燦葉の行く手を、どこからか集まってきた獣たちが遮った。
「望……」
少年の名を呟いて、燦葉は唇を噛み締めた。
燦葉が姉のもとへ戻ると、彼女は狼にも狐にも似た獣の横腹に背を預けて転寝をしていた。以前怪我をして動けなくなっているところを圭裳が治してやって以来、この獣は圭裳にすっかり懐いている。琥珀色の毛並みを持つ獣は、その金色の瞳で燦葉を一瞥し、首を傾げる。燦葉の様子がおかしいことに気付いたようで、僅かに身じろいで圭裳を起こした。
「あら、燦葉。お帰りなさい……どうしたの?」
目を覚ました圭裳は、俯いている燦葉を見て目を瞬かせた。いつも陽気な彼が、こんな風に考え込んでいるのは珍しい。
燦葉は俯いたまま、圭裳の隣に座った。
「……最近、精霊を殺している奴が、わかった」
精霊が消され、獣たちが荒れている。そんな現状を憂えた圭裳達は、その原因を探していたのだった。
「まあ……その人は、どうして、あんなことを?」
沈んでいる燦葉の様子に不安げにしながら、圭裳が問う。
暫く無言でいた燦葉は、不意に立ち上がって圭裳に背を向けた。
「圭裳、お前はこの件に関わるな」
「え?」
唐突な言葉に、圭裳が戸惑うのがわかる。燦葉は拳を握りしめた。
「――俺が、片を付ける」
あの日、黙々と畑を耕していた少年の姿が脳裏に浮かぶ。
あの少年がこんなことをしていると知ったら、優しい圭裳はきっと心を痛めるに違いない。
知らない方がいい。
燦葉はそのまま、圭裳から離れて、互いが視界に入らない場所まで遠ざかった。追おうと立ち上がりかけた圭裳を制し、獣が後を追う。人気のない場所で座り込んでいる燦葉を見つけ、静かに隣に座った。
「何か、あったか」
滅多に口を聞かない獣だが、人語を解さないわけではない。問いかけてみると、燦葉は視線を下に向けたまま、呟くように言った。
「もしも、もしもあの時、俺達が無理にでもあいつをあそこから連れ出してれば……」
こんな事には、ならなかったのかなあ。
口の中で微かに呟きながら、燦葉はくしゃりと前髪を掴んだ。
「危うい奴だなとは思ったけど……絶対、悪い奴じゃなかったのに」
どこで踏み誤った?
どこから間違っていた?
俯く燦葉の背を、獣は無言のまま、尻尾でそっと撫でていた。
「ありがとう、狐狼……」
しばらくして顔を上げた燦葉の横顔に、もう先程までの弱弱しさは無かった。
「あいつのことは、俺が片を付ける……圭裳には、言わないでくれ」
返事の代わりに軽く尻尾を振った狐狼の背を、燦葉は撫でた。
少なくとも表面上はすっかり普段の調子を取り戻した燦葉と狐狼が圭裳の元へ戻った時、ざわりと周囲の精霊が騒いだ。狐狼の耳がぴくりと動く。圭裳と燦葉も異変に気づいて辺りを見回した。
嫌な異変ではない。精霊が、興奮している……?
そう感じた時、上空から何か大きな影が舞い降りた。
一つではない。二、三……四つ。
「な……」
それらの降下によって生じた風から顔を庇っていた燦葉は、その姿を確認して驚愕に目を見開いた。
それは四頭とも、巨大な獣だった。ただの獣ではない。
その身に黒い蛇を纏いつかせた、玄い亀。
獣とは思えないほど静かな金色の瞳でこちらを見つめる白い虎。
翼に炎を纏わせた朱い鳥。
そして、長大なその身をくねらせる青い龍。
四方の果てに棲むという、伝説上でしか耳にしたことのない獣たちが、そこに居た。
「お前達が、精霊が神と認めた者か」
亀が四頭を代表するように言って、圭裳と燦葉を眺める。
「神だなんて……私達はそんな」
「なってもらわねば困る」
圭裳の言葉を遮るように、鳥が言った。
「神にならんとしている者は踏み誤った。お前達があれを討ち、あれに代わらねばならん」
燦葉ははっとした。事態の重さが、ずしりと肩にのしかかる心地がする。
「討つって……それは」
圭裳が戸惑いの声を上げる。穏やかな性格の彼女にとって、自分が人を殺すことなど想像の外にあるに違いなかった。
「我らの力をお前達に貸そう。しかし人の間の決着をつけるのは、人でなければならない」
青い龍が、厳かに言う。燦葉は拳を握りしめた。
「それは、俺がやる」
全員の視線が、一斉に集まる。
「圭裳には向かない。俺が引き受ける……圭裳は、関わるな」
「燦葉!」
弟の強引な言葉に、圭裳が咎めるように声を上げる。しかし、燦葉は姉の抗議を受け付けなかった。
「圭裳には無理だ」
にべもなくそう言って、燦葉は踵を返す。
もう戻れないのなら、この手で終わらせるしかないのだから。
四方の獣の力を借りた圭裳は、荒れていた世界の精霊や獣たちを次々に宥め落ち着かせていった。
それを風が伝える頃、少年は少女の手を離した。
「怖いんだろう?」
怒るでもなく、突き放すでもなく、ただ静かに、少年は言った。
「こんなところまで引きずってきてごめん。好きな所へお行き」
少女の目から涙が零れた。
この時、少年は既に自分の運命を予測していたのではないか、と、後になって少女は思う。
「さよなら」
軽く頭を撫でて離れていった手に、少女が再び触れることはなかった。
自分の築き上げてきた支配範囲が、次々と塗り替えられていくのを、少年は感じていた。それでも、自分が引き下がることはできないのだと、わかっていた。
少年は、集めうる限りの獣を集めた。一瞬、脳裏にあの日の陽光が過る。
「――行け」
あの日の夢を自ら踏みにじる為に、獰猛な獣たちに行く手を示す。
その先に圭裳達がいることを、少年は知っていた。
いつものように、狐狼と共に羊の番をしていた圭裳は、吹きわたる風に不意に生臭さを感じた。狐狼が低く唸り声を上げて立ちあがる。
「何……?」
そう呟いた瞬間。
林が猛獣の群れを吐きだした。
「きゃっ」
驚いて身を引く圭裳の前に、庇うように狐狼が躍り出る。その牙が、殺到してきた獣たちを投げ飛ばした。圭裳は、咄嗟に精霊に呼びかけて防壁を作る。
「何なの、これ……」
「圭裳!」
離れていた燦葉が、棒で獣たちを防ぎながら駆け寄ってきた。
「無事か」
「ええ」
圭裳が頷くと、燦葉は押し寄せてくる獣たちを睨み据えた。
「……そうか、もう、けりをつける時なんだな」
「燦葉?」
訝しげに声を上げる圭裳に背を向け、燦葉は自分の周りに風を巻き起こした。
「圭裳、お前はそこにいろ……頼むから」
「燦葉!?」
風精霊を使って獣たちを防ぎながら、燦葉が駆けていく。思わず追いすがろうとした圭裳を、狐狼の背中が遮った。
「行かないでやれ」
ほぼ同時、燦葉と入れ替わるようにして、圭裳と獣たちの間に氷の壁がそそり立つ。
「我々にもひるまず仕掛けてくるとはね」
雲に乗って駆け付けた亀が、獣の上に氷柱の雨を降らす。続いて他の三頭も現れた。
戦いの喧噪のなかで、圭裳は弟の走り去った方角を不安げに見つめていた。
圭裳のもとから走り去った燦葉は、そう遠くない場所に佇んでいる少年を見つけた。
「望……」
「待ってたよ、燦葉」
最初に会った時よりずっと背も高く、顔つきも大人びた少年が、あの頃以上に抑揚のない声で言う。その手には、どこから調達してきたのか、細作りの剣が握られていた。
「お前、どうしても……」
燦葉の言葉に、少年は答えなかった。ゆっくりとした動作で剣を抜き、切っ先を真っすぐ燦葉に向ける。
「もう、避けられない」
その言葉を合図として、少年の身辺に噴き上がった水柱が燦葉に襲いかかった。
あらかた獣の群れを蹴散らした圭裳達は、燦葉の去った方向に目を向けた。
「やっぱり、私行くわ」
何かを決意したように、圭裳が言う。
「たとえ何が待っているとしても……燦葉一人に背負わせて自分は知りもしないなんて……私にはできない」
狐狼は圭裳を見詰めた。
穏やかで優しい圭裳だが、時折こうして芯の強さを見せることがある。そしてそれこそ、狐狼が圭裳についていくと決めた理由でもあった。
「……わかった。乗れ」
狐狼は圭裳を背に乗せると、一声吠えて駈け出した。四方の聖獣達も後についてくる。
これが戦いの終わりだと、誰もが感じていた。
方術の応酬が切れた合間を見計らって、燦葉は少年に組みついた。既に二人とも傷だらけだが、互いに手を緩めることは無い。
自分より一回り体格のいい燦葉に組み倒された少年は、内心舌打ちをして体勢をひっくり返すべく体を跳ねあげた。勢いのまま、二人の体が数度転がる。
最終的にこの取っ組み合いを制したのは、やはり体格に勝る燦葉だった。
「望……やっぱりあの時、無理にでも連れ出すべきだったなあ」
組みしいた少年の手から剣を取り上げ、燦葉は苦しげに顔を歪めた。
「後悔?無意味だ。過去は変えられない」
けれど一つ言うなら、と言って、少年は燦葉を見上げた。
「――いっそ、出会わなければよかった」
燦葉はぐっと何かを堪えるように目を閉じた。
「ごめんな――望」
剣を振り上げる。少年が微かに笑ったのを見た気がした。
「燦葉……?」
背後から聞こえた、聞こえるはずの無い声に、燦葉は剣を掲げたままはっと振り返る。
そこに、最もこの場面を見せたくなかった人物が立っていた。
「圭裳……?なんで」
気を逸らした一瞬、少年が燦葉を跳ねのけた。その姿を認めて、圭裳が目を見開く。
「望!?」
少年が走りだそうとする。その先にいるのが圭裳であることに気づいて、燦葉は咄嗟に少年の行く手を遮った。
握ったままだった剣に、重い手ごたえが走る。
「……っ」
息を飲んだのは、誰だったか。
燦葉の握り締めた剣は、少年の胸を貫いていた。
「望……」
燦葉が、微かに呟く。
ごほっ、と血の混じった咳をした少年が、最期の力で顔を上げ、燦葉を見た。その唇が、ゆっくりと動く。
あ、り、が――
「っ!!」
燦葉の喉から声にならない歎きが迸ると同時、少年の姿が燐光に包まれ、溶けるように消えた。
「あの者には、天帝から罰が下るようだよ」
後ろで様子を見守っていた亀の言葉を聞きながら、燦葉は剣を手放し、膝をついた。
あの日、別れ際に少年が見せたぎこちない笑顔が、瞼に焼きついて離れなかった。
世界が調和を取り戻し、圭裳は神として永遠の命を与えられることになった。狐狼はその守護者としてより強い霊力を有するようになり、四方の聖獣達はそれぞれの方角の神として封ぜられた。
「本当にお前はいいのか?人のままで」
琥珀色の髪に金の瞳をした、女神の守護者が問う。
燦葉は頷いた。
「俺はあいつを殺したわけだし……」
「燦葉」
狐狼が咎めるように名を呼ぶと、燦葉は笑顔を浮かべた。
「まあ、神様なんて性にあわねえしなあ」
陽気な口調に、少し無理をしているのを感じ取りながらも、狐狼はそれ以上何も言わなかった。
「ならば、お前は地上の王になれ。人間には指導者が必要だ」
「でもよ……」
「これは女神の命令だと思え」
狐狼が強く言うと、燦葉は苦笑交じりに、横暴、と呟いた。
狐狼が立ち去った後、草原に大の字になって、深く息を吐く。
晴れ渡った空が、妙に憎らしかった。
「……あ」
微かな声を聞き咎めて、視線を巡らせる。一人の少女が、燦葉を見つめていた。
――どこかで、会ったような。
記憶に引っかかりを感じて、燦葉は身を起こす。少女がびくりと肩を揺らした。
「……あっ」
少女に何処で会ったのか、思い出した燦葉は、思わず地面についた手の下にあった草を握りしめた。
この子は――
少女は少し躊躇うような間を開けてから、燦葉と目を合わせた。真っすぐな目だった。
「あの……望は……」
それ以上、目を合わせていられなかった。燦葉は俯いて、視線を外す。
「望は……」
ぎりっと唇を噛むと、燦葉は立ちあがった。少女に歩み寄り、その肩に手をかける。びくりとこわばるその身を、人里の方に向けた。
「ごらん」
かすれそうになる声で、燦葉は言った。
「もう、君も不条理に怯えずに生きていける……こんな世界を、望は造りたかったんだと思う」
そう、少年も自分達も、目指したものは同じだった。自身の切実な現状があった分、少年の方が真摯に求めていたと言ってもいいかもしれない。
どこかで踏み誤ってしまったけれど、それは紛れもない事実だった。
「だから……」
こういう逃げ方は、卑怯かもしれないけれど。
「だから、俺達は前を向いて生きよう……あいつの築いてくれた世界で」
少女は暫く里を眺めた後、こくりと頷いた。
眩い陽光が、新しくなった世界を照らしていた。
世之始者,混沌也。
自拓混沌後,整海作陸,精靈紛紛宿焉,然世未有理。
人未知神。
邪者自欲為神,亂世三年。
圭裳者,與其弟燦葉以狐狼及四方之聖獸戰之。
夏,遂克之。
天帝,罰邪者。
圭裳為女神統世,燦葉為王治人。
於是乎世始定矣,有神矣。
……
世の始めなる者は、混沌なり。
混沌拓きてより後、海を整へ、陸を作し、精靈紛紛として焉に宿り、生物も亦た栄ゆ。
然れども世、未だ理有らず。
人、未だ神を知らず。
邪なる者、自ら神為らんと欲し、世を亂すこと三年。
圭裳なる者、其の弟燦葉と與に狐狼及び四方の聖獣を以ゐて之と戰ふ。
夏、遂に之に克つ。
天帝、邪なる者を罰す。
圭裳、女神為りて世を統べ、燦葉、王為りて人を治む。
是に於いてや世始めて定まり、神有り。
……
閲覧ありがとうございます。
この作品のちょっとした後日談もあります(「君の居ない世界で」)