エリーゼの星屑
エリーゼの星くず
婚約を破棄された。
エリーゼ=グリーナスは、目の前でそう告げた青年を見つめていた。
「……ですから、エリーゼ。君との婚約は、今日をもって解消させてもらう」
アーサー=マクランは、いかにも重大な決断を下したという顔で言った。
ここはグリーナス伯爵家の屋敷。その応接室である。
エリーゼの父であるグリーナス伯爵は、少し離れたところで眉間に皺を寄せていた。母はというと、娘の様子を心配そうに見守っている。
そして、アーサーの隣には一人の令嬢がいた。
アリス=リンコス。リンコス子爵家の令嬢である。
彼女はアーサーの腕にそっと手を添え、どこか勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
なるほど。
エリーゼは、ようやく事情を理解した。
「そうですか」
「……それだけか?」
「はい?」
「いや、その……何か言うことはないのか」
アーサーが拍子抜けしたように尋ねる。
エリーゼは首を傾げた。
「何か、と申されましても。婚約を解消なさりたいのでしょう?」
「そ、そうだ」
「では、承知いたしました」
「…………」
「…………?」
沈黙が落ちた。
アーサーは、なぜか不満そうだった。
婚約を解消したいと言ったのは彼自身である。こちらが了承したのだから、何も問題はないはずだ。
エリーゼはそう考えていたのだが、どうやら彼の望んでいた反応とは違ったらしい。
「エリーゼ様」
隣にいたアリスが、そっと口を開いた。
「アーサー様は、真剣にお話しなさっているのですよ。もう少し、ご自身の立場をお考えになった方がよろしいのではありませんか?」
「……と、申しますと?」
「アーサー様は、マクラン伯爵家のご嫡男です。将来は伯爵家を継がれるお方。そのお隣に立つ者として、エリーゼ様が相応しいかどうか、改めて考えられたのです」
「まあ」
エリーゼは目を瞬かせた。
「それで、わたくしは相応しくないと?」
「ええ。そういうことです」
アリスは、にっこりと微笑んだ。
アーサーもまた、何かを言いたげに胸を張っている。
エリーゼは少し考えた。
確かに、自分には至らないところもあるだろう。貴族令嬢として必要な教育は受けてきたつもりだが、それでも完璧な人間ではない。
ただ、アーサーと婚約してから今日まで、彼の振る舞いに問題がなかったかと問われれば、首を傾げざるを得ない。
それでも、婚約を続けたいと望むのであれば、話し合う余地はあった。
だが、彼は解消したいと言った。
ならば、仕方がない。
「承知いたしました。それでは、婚約解消に必要な手続きについて、後日、両家で話し合うことにいたしましょう」
「……ああ」
「本日はお越しいただき、ありがとうございました」
エリーゼは、優雅に一礼した。
アーサーは、まだ何かを言いたそうにしていたが、結局、何も言わなかった。
アリスとともに応接室を出ていく二人を見送り、エリーゼは小さく息を吐いた。
これで終わりだ。
少なくとも、婚約者としての関係は。
「エリーゼ……」
父が心配そうに声をかける。
「大丈夫です、お父様」
「本当にか?」
「ええ。少し驚きましたけれど、婚約を続けるお気持ちがないのでしたら、無理に続けていただく必要もありませんもの」
そう答えたものの、エリーゼの胸には、わずかな寂しさが残っていた。
長い時間をともに過ごした相手である。
何も感じないわけではない。
ただ、それ以上に。
「……明日は、庭の手入れをお願いしていた日でしたわね」
「エリーゼ?」
「いえ、なんでもありません」
エリーゼは微笑んだ。
今はまだ、庭のことを考えていたい。
あそこには、先日植え替えたばかりの草花がある。春先に咲く予定の花もあったはずだ。
婚約がどうなろうと、花は季節になれば咲く。
ならば、自分も自分の生活を続ければよい。
エリーゼはそう考えることにした。
◆
その日の夕方だった。
屋敷の庭に、星が落ちた。
正確には、星のように見える何かが落ちてきたのである。
大きな音がした。
屋敷の窓がかすかに震え、庭にいた庭師が驚いて顔を上げる。
「な、なんだ、今の音は!?」
使用人たちが次々と庭へ駆け出していく。
エリーゼもまた、窓辺から外を覗いた。
庭の一角から、薄い煙が立ち上っている。
「……隕石?」
思わず呟いた。
空から落ちてきたのだから、そう考えるのが自然だろう。
もちろん、本当に隕石かどうかはわからない。空から何かが落ちてきたというだけで、正体まで判明するわけではないのだから。
しかし、エリーゼにとっては、それだけで十分だった。
彼女は石が好きだった。
それも、ただ宝石を身につけるのが好きというわけではない。
石そのものが好きなのである。
鉱物の結晶、岩石の模様、光の当たり方によって変わる色。表面の傷や、長い年月を経て生まれた形。
どれも、エリーゼにとっては興味深いものだった。
幼い頃、父から贈られた小さな石をきっかけに、石の世界に惹かれるようになった。
今では自室の一角に、集めた石や鉱物を並べた棚がある。
宝石商を訪ねることもあれば、珍しい鉱物が見つかったと聞いて、遠方から取り寄せたこともある。
もちろん、貴族令嬢としての務めを放り出してまで石を追いかけるつもりはない。
……ないはずだった。
「お嬢様! 庭に何かが落ちたようです!」
侍女が慌てて部屋に入ってきた。
「ええ、見えていますわ」
「旦那様が確認に向かわれました。危険があるかもしれませんので、近づかないようにとのことです」
「そうですの」
エリーゼは頷いた。
頷いたのだが。
視線は、窓の外に釘付けだった。
煙は、もうほとんど消えている。
庭師たちが落下地点を遠巻きに囲んでいた。
その中央に、黒い塊が見えた。
石だ。
大きさまではわからないが、少なくとも、庭に転がっている普通の小石ではない。
表面は黒く、ところどころがごつごつとしている。
隕石らしいと言えば、隕石らしい姿だった。
エリーゼは、そっと窓枠に手を置いた。
気になる。
とても気になる。
あれはいったい、どんな石なのだろう。
内部はどうなっているのだろう。
もし珍しい鉱物が含まれていたら?
もし、これまで見たことのない結晶があったら?
「……お嬢様?」
「ええ。わかっていますわ」
エリーゼは侍女に微笑んだ。
「危険かもしれないものね。お父様の許可が出るまでは、近づきませんわ」
「はい。そうしていただけると助かります」
侍女は、ほっとしたように頭を下げた。
エリーゼは再び窓の外を見た。
黒い石は、そこにあった。
逃げるわけではない。
明日になっても、きっとそこにある。
だから、今は我慢しよう。
そう自分に言い聞かせた。
その夜、エリーゼはなかなか寝つけなかった。
婚約破棄のことを考えていたわけではない。
庭に落ちた、あの石のことを考えていたのである。
◆
翌朝。
エリーゼは、いつもより早く目を覚ました。
身支度を整え、朝食を済ませる。
そして、庭へ向かおうとしたところで、父に呼び止められた。
「エリーゼ、少しいいか」
「はい、お父様」
「昨日の落下物だが、どうやら隕石で間違いなさそうだ」
「まあ!」
思わず声が弾んだ。
父は一瞬、娘の顔を見てから苦笑した。
「……そんなに嬉しいのか」
「ええ。空から落ちてきた石ですもの」
「そうか」
父は、何とも言えない顔をした。
婚約を破棄された娘が、翌朝には隕石の話で目を輝かせている。
心配していた自分は何だったのだろう、とでも思っているのかもしれない。
「ただし、まだ詳しいことはわからない。表面が非常に硬いようでな。庭師たちにも、むやみに触らないように言ってある」
「硬いのですか?」
「ああ。地面に落ちた際に土がえぐれていたが、石そのものは大きく欠けていない。相当なものだろう」
「……実物を拝見してもよろしいでしょうか」
エリーゼは、できるだけ落ち着いた声で尋ねた。
父は娘の顔を見つめた。
「危険がないと確認できるまでは、直接触るのは駄目だ」
「もちろんですわ」
「本当にか?」
「はい」
エリーゼは、きっぱりと頷いた。
父は少し考えてから、庭師を伴うこと、石には触れないことを条件に許可を出した。
エリーゼは礼を言い、すぐに庭へ向かった。
昨日の落下地点には、黒い石が残されていた。
近くで見ると、思っていたよりも大きい。
人の頭ほどはあるだろうか。
表面は黒く、ところどころに鈍い光沢がある。ひび割れたような模様もあったが、石全体が崩れている様子はなかった。
エリーゼはしゃがみ込み、じっと観察した。
触らない。
触らないが、見ることはできる。
表面の凹凸、色の濃淡、土に埋まった部分の形。
これほど大きな隕石を、間近で見る機会など滅多にない。
「……面白いですわね」
思わず呟いた。
庭師が不思議そうに首を傾げる。
「お嬢様、何がでございますか?」
「この表面です。見てください。黒い部分の中に、少しだけ光を返す箇所があるでしょう?」
「はあ……」
「こちらは少し赤みがかっているようにも見えますし、こちらは違う。単に土が付着しているだけなのか、それとも石そのものの色なのか……」
エリーゼは夢中になっていた。
庭師は、石を眺めている令嬢をしばらく見つめた後、そっと一歩下がった。
これは長くなりそうだ。
そう判断したのだろう。
実際、エリーゼはその後しばらく、石の周囲を歩きながら観察を続けた。
やがて、屋敷の使用人が呼びに来るまで、彼女はその場を離れようとしなかった。
そして、その日の昼過ぎ。
エリーゼは父から、石の所有について正式な許可を得た。
隕石の危険性については専門家に確認を依頼すること。必要な調査を受けさせること。
それらを条件に、グリーナス伯爵家の敷地内に落下した石は、エリーゼが管理することになったのである。
「ありがとうございます、お父様!」
娘が嬉しそうに礼を言うと、父は困ったように笑った。
「……婚約の話も、それくらい素直に受け止めていたな」
「ええ。婚約は残念でしたけれど、石は嬉しいですもの」
「そうか……」
父は、もう何も言わなかった。
エリーゼは、さっそく自室の作業室を片づけ始めた。
石を調べるための道具を並べ、作業台を拭き、手袋を用意する。
専門家の確認が終わるまでは、本格的な加工はしない。
その約束だけは、きちんと守るつもりだった。
ただし、調べるための準備をすることまで、誰も禁じてはいない。
エリーゼは作業台の前で、満足そうに頷いた。
さて、
この石は、いったい何を隠しているのだろう。
◆
数日後。
隕石は、専門家による初期調査を終えた。
危険な反応や、取り扱いに特別な制限が必要となる性質は確認されなかった。
ただし、一般的な岩石と比べて非常に硬く、表面の一部には特殊な鉱物が含まれている可能性があるという。
エリーゼは、その報告書を何度も読み返した。
「特殊な鉱物……」
なんと心躍る言葉だろう。
彼女は、さっそく石を作業室へ運ぶ手配をした。
もっとも、石は大きく、重かった。
使用人たちが慎重に台車へ載せ、作業室の一角に置く。
エリーゼは、その様子を終始見守っていた。
「こちらでよろしいですか、お嬢様」
「ええ。ありがとう」
石が置かれたのを確認すると、エリーゼは手袋をはめた。
そして、作業台の引き出しから、小さなハンマーを取り出した。
もちろん、いきなり強く叩くつもりはない。
まずは表面の様子を確認するだけだ。
エリーゼは石の黒い表面を見つめた。
そして、ごく軽く、ハンマーを当てた。
コン。
乾いた音が響いた。
石には、目立った変化がない。
もう一度。
コン。
やはり、変化はない。
「……硬いですわね」
予想はしていたが、ここまでとは思わなかった。
エリーゼはハンマーを置き、表面を別の角度から確認した。
傷ひとつない。
それどころか、叩いた箇所に変化があったのかどうかさえ、はっきりしなかった。
普通の石であれば、これほど軽い打撃でも、表面にわずかな痕跡が残ることがある。
だが、この隕石は違った。
彼女は道具を替え、力を調整しながら、慎重に試していった。
それでも、石はびくともしなかった。
「これは……」
エリーゼは、思わず笑みを浮かべた。
困ったことになった。
とても困ったことに。
ますます気になってしまったのである。
表面を覆う黒い部分の下には、何があるのだろう。
黒い外殻は、隕石が大気を通過する際に形成されたものなのか。
それとも、もともとこの石が持っていた性質なのか。
そして、その内側には、どんな鉱物が眠っているのだろう。
専門家に依頼すれば、調査はできるかもしれない。
しかし、エリーゼは自分の目で確かめたかった。
石を傷つけすぎないようにしながら、少しずつ表面を削る。
それなら、可能性はあるはずだ。
彼女は作業台に道具を並べ直した。
まずは、表面の目立たない箇所から。
少しずつ。
慎重に。
エリーゼは、作業を始めた。
最初のうちは、ほとんど進まなかった。
削ろうとしても、表面がわずかに擦れる程度である。
道具を替え、角度を変え、何度も試す。
それでも、石は頑固なまでに黒い姿を保ち続けた。
「……ふふ」
エリーゼは、笑った。
こういう石は嫌いではない。
簡単に答えを見せてくれないからこそ、知りたくなる。
石の表面に刻まれた小さな痕跡を見逃さないように、彼女は集中した。
窓の外では、夕日が傾いていた。
侍女が夕食の時間を知らせに来たが、エリーゼは少しだけ待ってほしいと頼んだ。
その少しが、思った以上に長くなった。
やがて、作業室に夜の帳が下りる。
灯りを点けたエリーゼは、再び石に向き直った。
そして、
ほんのわずかに、黒い表面が剥がれた。
「……あ」
彼女は手を止めた。
剥がれた箇所に、何かが見えたのである。
黒ではない。
黒い外殻の下に、淡い色が覗いていた。
エリーゼは息を詰めた。
灯りの角度を変え、もう一度確認する。
見間違いではない。
黒い表面の下には、明らかに別の色があった。
彼女は、震える指先を押さえながら、慎重に周囲を削り始めた。
ほんの少しずつ。
決して、無理をしないように。
やがて、黒い外殻の隙間から、鮮やかな緑が顔を覗かせた。
エリーゼは、言葉を失った。
緑。
それは、ただの緑ではなかった。
深く、澄み切った色。
灯りを受けるたびに、内部から光が湧き上がるような輝きを見せる。
エリーゼは、道具を置いた。
心臓が、どきどきと音を立てている。
「……まさか」
彼女は、自室の宝石棚へ向かった。
その中から、小さな箱を取り出す。
箱を開けると、そこには緑色の宝石が収められていた。
ペリドット。
父が、彼女の誕生日に贈ってくれたネックレスの宝石である。
エリーゼは、二つの緑を見比べた。
色味は違う。
光の返し方も、細かな特徴も異なっている。
だが、見覚えがあった。
この色を、彼女は知っている。
幼い頃、初めて父から贈られた宝石。
その輝きに心を奪われ、石の世界へ足を踏み入れるきっかけとなったもの。
「……ペリドット?」
呟いた声が、静かな作業室に落ちた。
そんなはずはない。
隕石の内部から、ペリドットが現れるなど。
しかし、目の前にある緑色の輝きは、彼女の知るペリドットとよく似ていた。
エリーゼは、再び作業台へ戻った。
黒い外殻を削る。
その下から、さらに緑が現れる。
少しずつ、少しずつ。
彼女は作業を続けた。
夜が更けても、手を止めることができなかった。
やがて、石の一部から、緑色の内部が大きく姿を現した。
それは、宝石という言葉では足りないほどの存在感を放っていた。
黒い外殻に覆われていたとは思えないほど、澄んだ色。
内部には目立つ傷が見当たらない。
光を当てると、深い緑の中に明るい輝きが浮かび上がった。
エリーゼは、しばらくの間、何も言えなかった。
それから、そっと息を吐く。
「……綺麗」
その言葉しか出てこなかった。
宝石を見て、これほどまでに心を奪われたのは、いつ以来だろう。
彼女は、石を傷つけないよう慎重に作業を進めた。
外殻を取り除き、形を整え、表面を磨く。
何度も確認しながら、少しずつ。
そして、半分ほどの外角を取り除いたとき。
作業台の上には、直径十センチにもなる、半球上の宝石が置かれていた。
その宝石は、灯りを受けて鮮やかに輝いていた。
直径十センチという大きさでありながら、色は濁っていない。
深い緑色が、どこまでも澄み渡っている。
内包物も、目立つ傷も見当たらなかった。
エリーゼは、石を両手で包み込むように持ち上げた。
そして、窓辺へ向かう。
朝日が、ちょうど差し込んできたところだった。
宝石を光にかざすと、緑の輝きが一層鮮明になる。
エリーゼは、その光景をじっと見つめた。
これほど美しい石を、自分の手で見つけられた。
空から落ちてきた、黒く、ごつごつとした石。
誰もが、ただの奇妙な岩石だと思ったかもしれない。
けれど、その内側には、こんなにも美しいものが眠っていたのだ。
「……ピュアグリーン」
エリーゼは、自然とその名を口にしていた。
純粋な緑。
その名に相応しい輝きだった。
彼女は宝石を胸元に抱き寄せ、幸せそうに微笑んだ。
婚約を破棄されたことなど、もう頭の片隅にもなかった。
今、彼女の目の前には、新しい世界が広がっている。
それだけで、十分だった。
◆
翌日。
エリーゼは、ピュアグリーンを箱に収めた。
もちろん、ただ眺めているだけでは終わらせない。
これほど大きく、美しいペリドットである。
専門家に見せ、正式な鑑定を受けたい。
そして、できることなら、宝石として適切に保管する方法も相談したかった。
自分で加工することも考えたが、さすがに直径十センチの宝石となると、扱いは慎重にしなければならない。
まだ半分残った外殻の除去と加工を依頼するならば、父との話し合いも含めて審議しなければならない。
エリーゼは、以前から利用していた宝石細工師の工房へ向かうことにした。
その工房は、王都でも腕が良いと評判だった。
宝石の鑑定や加工を依頼する貴族も多く、エリーゼ自身も何度か世話になったことがある。
馬車を降り、工房へ入る。
「いらっしゃいませ、エリーゼ様」
職人が丁寧に頭を下げた。
「本日は、少し見ていただきたいものがございますの」
「かしこまりました」
エリーゼは箱を取り出し、机の上に置いた。
そして、蓋を開けた。
その瞬間。
職人の顔から、表情が消えた。
「……これは」
「ペリドットですわ。隕石の内部から見つかりましたの」
「隕石……?」
「ええ。黒い外殻を削っていったところ、内部から現れましたの。自分で磨いてみたのですが、これほど大きなものですから、正式な鑑定をお願いしたくて」
エリーゼは、そう説明した。
職人は、しばらく宝石を見つめていた。
それから、震える手で拡大鏡を取り出した。
光を当て、角度を変え、表面を確認する。
その顔色が、次第に変わっていく。
「……信じられません」
「何か問題が?」
「いえ。問題というより……」
職人は言葉を切った。
そして、もう一度、宝石を見た。
「これほど大きなペリドットは、見たことがありません。しかも、この透明度……」
「そうですの?」
「ええ。これほどの大きさで、これほど傷が少ないものは、まず市場に出てこないでしょう」
職人は、宝石から目を離せないようだった。
エリーゼは嬉しそうに微笑んだ。
「そう言っていただけると、苦労して磨いた甲斐がありましたわ」
「……お嬢様ご自身で?」
「ええ。表面がとても硬くて、なかなか進みませんでしたけれど」
職人は、再び絶句した。
直径十センチの宝石を、自分で磨き上げた。
それも、ほとんど傷をつけずに。
並の技術でできることではない。
だが、目の前の宝石は、確かにそこにあった。
「……少々、お時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「構いませんわ」
「ありがとうございます。慎重に鑑定させていただきます」
エリーゼは頷いた。
しかし、そこで職人は、ふと顔を上げた。
「ところで、こちらの石は、現在どなたが所有されているのでしょうか」
「わたくしですわ。グリーナス伯爵家の敷地に落ちた隕石ですので、父から管理を任されておりますの」
「……そうですか」
職人の声が、わずかに低くなった。
エリーゼは、その変化に気づかなかった。
彼女の意識は、まだピュアグリーンに向いていたからである。
「では、鑑定が終わりましたら、またご連絡いたします」
「よろしくお願いいたしますわ」
エリーゼは、箱を職人に預けた。
そして、工房を後にした。
その背中を、職人はじっと見送っていた。
箱の中には、国の宝石にも等しい価値を持つかもしれない、巨大なペリドットが収められている。
それを手に入れれば、人生が変わる。
そんな考えが、職人の頭をよぎっていた。
◆
数日後。
エリーゼは、再び工房を訪れた。
ところが、出迎えた職人の様子は、前回とは違っていた。
「お待ちしておりました、エリーゼ様」
「鑑定は終わりましたか?」
「ええ。ですが、その前に……」
職人は、どこか落ち着かない様子で言った。
「実は、あの宝石について、少々問題がございまして」
「問題?」
「はい。詳しいお話をする前に、まずは工房の奥へお越しいただけますでしょうか」
エリーゼは首を傾げた。
何か、予想外のことでもあったのだろうか。
彼女は職人に案内され、工房の奥へと進んだ。
そこには、机と椅子が置かれていた。
そして、机の上には、見覚えのある箱があった。
「……ピュアグリーン?」
エリーゼは、思わず箱へ手を伸ばした。
だが、職人がその前に立ちはだかった。
「申し訳ありませんが、こちらはお渡しできません」
「……どういうことですの?」
「この宝石は、私が加工を担当することになりました。ですから、こちらで保管させていただきます」
「加工?」
エリーゼは、眉を寄せた。
「わたくしは、鑑定をお願いしただけですわ。加工を依頼した覚えはございません」
「しかし、これほどの宝石です。お嬢様がお持ちになるには、あまりにも危険です」
「危険?」
「盗難の危険がございます。私が責任を持って管理し、適切な形で保管いたします」
職人は、もっともらしい口調で言った。
だが、エリーゼには納得できなかった。
「それでしたら、わたくしが持ち帰り、父と相談いたします」
「それはできません」
「……なぜ?」
職人は、答えなかった。
ただ、箱の前から動こうとしない。
エリーゼは、静かに息を吸った。
これは、明らかにおかしい。
鑑定を依頼しただけなのに、宝石を返さないという。
しかも、本人の許可もなく加工を進めるつもりらしい。
「その箱を、お渡しください」
「できません」
「では、仕方ありませんわね」
エリーゼは、ゆっくりと職人を見た。
「騎士団に相談いたしましょう」
その言葉に、職人の顔色が変わった。
「……何を大げさな!」
「大げさでしょうか? わたくしの所有物を、返していただけないのですもの」
「これは、あなたのためを思って――」
「でしたら、なぜ返してくださらないのですか?」
職人は言葉に詰まった。
エリーゼは、それ以上、何も言わなかった。
ただ、工房の入口へ向かい、外で待っていた従者に事情を伝えた。
従者はすぐに近くの騎士詰所へ向かった。
それから間もなく、騎士たちが工房へやってきた。
「こちらの方が、宝石を返してくださらないと?」
「はい。鑑定をお願いしただけなのですが、加工をすると言って返却を拒まれております」
エリーゼが説明すると、騎士は職人を見た。
「事情を聞かせてもらおう」
「い、いえ、これは……」
職人はしどろもどろになった。
結局、箱は騎士たちによって確認され、ピュアグリーンはエリーゼの手に戻った。
それだけではない。
職人の工房からは、加工のために取り外したと説明された、残り半分の黒い外殻の破片も見つかった。
それらは、隕石から削り取られたものだった。
エリーゼは、破片を確認した。
黒い外殻の内側には、緑色の部分が残っている。
大きさはさまざまだったが、小さなものでも指輪に使えるほどの宝石が取れそうだった。
「……こちらも、わたくしのものですわね」
エリーゼが言うと、騎士は頷いた。
「隕石の一部であることが確認できる以上、そうなります」
職人は、青ざめていた。
彼は、ピュアグリーンだけでなく、その破片も自分のものにしようと考えていたのである。
巨大な宝石を手に入れられなかったとしても、破片を加工して売れば、相当な金額になる。
だが、その企みは失敗に終わった。
「……二度と、このようなことをしてはならない」
騎士は厳しい声で告げた。
「今回は、所有者が明確であり、宝石も無事に戻った。だが、他人の所有物を返さず、無断で加工しようとしたことは重大な問題だ。今後、同様の行為があれば、相応の処分を受けることになる」
「……はい」
職人は、うなだれた。
エリーゼは、返却された宝石と破片を確認した。
幸い、ピュアグリーンそのものに傷はなかった。
彼女は、ほっと胸を撫で下ろした。
大切な石が戻ってきた。
それだけで十分だった。
もっとも。
「……次は、別の工房を探さなければなりませんわね」
そう呟いたところで、エリーゼはようやく気づいた。
石を愛するあまり、少々、世間のことに無頓着だったのかもしれない。
宝石を預けるのであれば、相手をよく見極めなければならない。
それは、今回の件で学んだことだった。
◆
騎士たちへの事情説明を終えたエリーゼは、ピュアグリーンを箱に収め、工房を後にした。
馬車を呼ぶため、通りの端で従者と待っていると。
「こんにちは、エリーゼ様」
声をかけられた。
振り返ると、一人の青年が立っていた。
整った顔立ちに、落ち着いた物腰。
騎士の制服を身につけているが、胸元の飾りや装飾は、一般の騎士とは異なるものだった。
エリーゼは、軽く礼をした。
「こんにちは」
「先ほどの件、少し耳に入りましてね」
「……先ほどの件?」
「宝石を巡る騒ぎです。騎士団の者が、工房へ向かったと聞きました」
「ああ。そうでしたの」
エリーゼは、箱を抱え直した。
「おかげさまで、無事に解決いたしましたわ」
「それは何よりです」
青年は、穏やかに微笑んだ。
「私はランセスと申します」
「ランセス様、ですか。わたくしはエリーゼ=グリーナスと申します」
「存じております。グリーナス伯爵家のご令嬢ですね」
「はい」
ランセスは、それ以上、身分を明かそうとはしなかった。
エリーゼも、無理に尋ねることはしなかった。
貴族社会では、名乗り方にもさまざまな事情がある。
相手が名乗った以上、こちらも礼を尽くせばよい。
「ところで、その箱の中にあるのが、例の宝石ですか?」
「ええ。ピュアグリーンと名づけましたの」
「ピュアグリーン……」
ランセスは、少しだけ目を細めた。
「よい名前ですね」
「ありがとうございます」
エリーゼは、嬉しそうに微笑んだ。
名前を褒められたことも嬉しかったが、それ以上に、彼が宝石そのものではなく、名前について言及したことが印象に残った。
宝石の価値だけに興味を持つ人は多い。
だが、ランセスは、まだ宝石を見てもいないのだ。
それなのに、その名前をよいと言ってくれた。
「……ランセス様は、宝石がお好きなのですか?」
「詳しいわけではありません。ただ、美しいものを見るのは好きですよ」
「そうですの」
エリーゼは、少し考えた。
「もしよろしければ、いつかご覧になりますか?」
「よろしいのですか?」
「ええ。わたくしが見つけた、大切な石ですもの。誰かに見ていただけるのも嬉しいですわ」
ランセスは、静かに頷いた。
「では、いつか機会があれば」
その時、馬車が到着した。
エリーゼはランセスに礼をして、馬車へ乗り込んだ。
窓から外を見ると、彼はまだその場に立っていた。
エリーゼは、小さく手を振った。
ランセスも、微笑みながら手を振り返した。
馬車が動き出す。
エリーゼは、膝の上の箱を見つめた。
今日はいろいろなことがあった。
大切な宝石を返してもらえたこと。
そして、不思議な青年と出会ったこと。
ランセス。
その名を、エリーゼは心の中で繰り返した。
どこか、もう一度会うことになるような気がした。
理由はわからない。
ただ、そんな予感がしたのである。
◆
それから数日後。
エリーゼは、父とともに王都の催しへ出席していた。
婚約が解消されたとはいえ、グリーナス伯爵家の令嬢としての務めがなくなるわけではない。
社交の場に顔を出し、知人たちと挨拶を交わす。
それは、これまでと何も変わらなかった。
ただし。
「エリーゼ様。婚約の件、お気の毒でしたわね」
そんな言葉をかけられることは増えていた。
「ありがとうございます。でも、もう大丈夫ですわ」
エリーゼは、穏やかに答えた。
同情してくれる人もいれば、事情を探ろうとする人もいる。
中には、婚約破棄をしたアーサーについて、面白おかしく話す者もいた。
だが、エリーゼは、それらに深く関わろうとはしなかった。
自分が選ばれなかったからといって、他人の選択をいつまでも責める必要はない。
もちろん、婚約の解消に伴う手続きや、家同士の話し合いは必要だった。
それはそれとして、進めればよい。
彼女は、そう考えていた。
そして、会場の奥へ目を向けたとき。
「あら……」
見覚えのある青年がいた。
ランセスである。
彼は、数人の騎士たちと話していた。
その姿を見て、エリーゼは思わず微笑んだ。
向こうもこちらに気づいたらしい。
軽く会釈を交わすと、ランセスは話を切り上げて歩み寄ってきた。
「エリーゼ様。お久しぶりです」
「先日はありがとうございました。あの後、宝石は無事に保管できましたわ」
「それはよかった」
「ランセス様も、こちらにいらしていたのですね」
「ええ。仕事の関係で」
「お仕事……」
エリーゼは、彼の制服を改めて見た。
よく見れば、以前よりも立派な装飾がついている。
そして、周囲の騎士たちが、彼に対して丁寧に礼をしていることにも気づいた。
ただの騎士ではない。
それは、さすがにわかった。
「……ランセス様は、騎士団の中でも偉いお方なのですか?」
エリーゼが尋ねると、ランセスは少し困ったように笑った。
「そうですね。少なくとも、先日お会いしたときに名乗っておくべきだったかもしれません」
「と、申しますと?」
「私はランセス=フォン=フォルマーゼ。フォルマーゼ王国の第二王子です」
「……え?」
エリーゼは、固まった。
第二王子。
つまり、王族である。
しかも、先日、彼女はその王族に対して、ごく普通に話しかけていた。
それどころか、宝石を見に来ませんか、などと誘ってしまった。
「……わたくし、失礼なことを申し上げてしまったでしょうか」
「いいえ。むしろ、私は楽しかったですよ」
「楽しかった……?」
「王族だと知っていれば、もっと違う話し方をされたでしょう?」
「それは……」
エリーゼは、否定できなかった。
王族に対しては、それ相応の礼儀が求められる。
気軽に話しかけるなど、普通はしない。
「私は、あの時のように話していただける方が嬉しいのです」
ランセスは、そう言って微笑んだ。
「それに、先日のお話も覚えています。いつか、ピュアグリーンを見せていただけるという約束です」
エリーゼは、目を瞬かせた。
そして、少しだけ頬を緩めた。
「……ええ。もちろんですわ」
「楽しみにしています」
ランセスは、軽く礼をした。
その時、近くにいた騎士が彼に声をかけた。
「殿下、そろそろお時間です」
「わかった」
ランセスはエリーゼに向き直った。
「では、またお会いしましょう」
「はい。ランセス殿下」
そう答えると、ランセスは少しだけ笑った。
「できれば、これまでどおりランセスと呼んでいただきたいのですが」
「……それは、さすがに」
「無理にとは申しません」
彼はそう言い残し、騎士たちとともに去っていった。
エリーゼは、その背中を見送った。
第二王子。
そして、先ほどの騎士たちの態度。
彼は、ただ王族というだけではないのだろう。
気になったエリーゼは、帰宅後、父に尋ねてみた。
「お父様。ランセス殿下について、教えていただけますか?」
「ランセス殿下?」
「ええ。先日、少しお話しする機会がありましたの」
父は、驚いたように目を見開いた。
「……殿下と?」
「はい」
エリーゼは、これまでの経緯を説明した。
父は話を聞き終えると、しばらく黙っていた。
そして、静かに口を開いた。
「ランセス殿下は、第二騎士団の団長でもある」
「第二騎士団……?」
「王国の騎士団は四つに分かれている。第一騎士団は王族の護衛を主に担い、第二騎士団は危険にさらされる可能性のある貴族たちの護衛や警護を担当する。第三騎士団は平民の生活や治安を守るために広く活動し、第四騎士団は特殊な任務を担う少数精鋭だ」
「まあ……」
「その第二騎士団を率いているのが、ランセス殿下だ」
エリーゼは、しばらく考え込んだ。
確かに、あの落ち着いた態度には納得できる。
宝石を巡る騒ぎについても、彼は必要以上に詮索しなかった。
ただ、無事に解決したことを喜んでくれた。
それに。
「……お優しい方でしたわ」
思わず口にすると、父が目を細めた。
「そうか」
「ええ」
エリーゼは、微笑んだ。
その後、彼女はしばらく、ランセスと再び会う機会を楽しみにするようになった。
◆
しかし、平穏な日々は長く続かなかった。
ある日の午後。
エリーゼが庭でピュアグリーンを眺めていると、屋敷の門の方から騒がしい声が聞こえてきた。
「エリーゼ! いるのだろう!」
聞き覚えのある声だった。
エリーゼは顔を上げた。
まさか、と思った。
だが、その声の主は、彼女の予想どおりだった。
アーサー=マクラン。
元婚約者である。
「……どうして、こちらに?」
エリーゼが呟くと、使用人が慌てた様子で駆け寄ってきた。
「お嬢様、マクラン伯爵家のご子息がいらっしゃっております」
「……お通ししないでください、と申し上げたら?」
「すでに門前で騒がれておりまして……」
エリーゼは、困ったように眉を寄せた。
婚約は解消された。
家同士の手続きも進んでいる。
今さら、何を話すことがあるというのだろう。
「……仕方ありませんわね」
彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
そして、応接室へ向かった。
そこには、顔を赤くしたアーサーが立っていた。
「エリーゼ!」
「ごきげんよう、アーサー様」
「そんな挨拶はいい! 君に聞きたいことがある!」
「何でしょうか?」
「例の宝石だ!」
エリーゼは、目を瞬かせた。
「……ピュアグリーンのことですか?」
「そうだ!」
アーサーは、苛立たしげに言った。
「君が隕石から見つけたという宝石だ。あれは、どれほどの価値がある?」
「正確な鑑定額は、まだ出しておりませんわ」
「なら、これから鑑定すればいい!」
アーサーは、当然のように言った。
「君は伯爵令嬢だ。あれほどの宝石を個人で所有する必要はないだろう。マクラン伯爵家で管理してやる」
「……なぜ、マクラン伯爵家が?」
「君は、以前、私の婚約者だったのだぞ!」
エリーゼは、思わず目を細めた。
以前。
確かに、以前はそうだった。
だが、今は違う。
「アーサー様。わたくしたちは、すでに婚約を解消しておりますわ」
「それがどうした!」
「ですから、わたくしの所有物について、アーサー様に管理していただく理由はございません」
「君……!」
アーサーは、顔を歪めた。
「私がどれほど君のことを考えてやっていたか、わかっているのか!」
エリーゼは、返事をしなかった。
考えてやっていた。
その言葉が、妙に空虚に聞こえたからだ。
婚約を解消すると告げたのは、彼だった。
その際、彼女の気持ちを尋ねることもなかった。
それなのに、今になって何を言うのだろう。
「……アーサー様。お話がそれだけでしたら、お引き取りくださいませ」
「まだ話は終わっていない!」
アーサーは、エリーゼが抱えていた宝石箱に目を向けた。
「それを渡せ!」
「お断りいたします」
「なぜだ!」
「わたくしのものですから」
エリーゼは、きっぱりと言った。
アーサーは、しばらく彼女を睨みつけていた。
そして、突然、腰に差していた剣へ手を伸ばした。
「……渡さないというなら、力ずくでも!」
「アーサー様!」
使用人が叫んだ。
だが、アーサーは止まらなかった。
剣を抜き、エリーゼの前へ踏み込む。
その瞬間。
「そこまでです」
低い声が響いた。
応接室の入口に、一人の青年が立っていた。
ランセスだった。
「……ランセス様?」
エリーゼが驚いて声を上げる。
ランセスは、彼女の前へ進み出た。
「エリーゼ様。お怪我はありませんか」
「は、はい……」
「それはよかった」
彼は、アーサーへ向き直った。
「剣を収めなさい」
「何だ、お前は!」
アーサーが怒鳴った。
「これは、私とエリーゼの問題だ! 部外者は引っ込んでいろ!」
「……部外者、ですか」
ランセスは、静かに呟いた。
その表情は変わらない。
だが、部屋の空気が、わずかに張り詰めた。
「私は、他人の所有物を奪おうとし、さらに剣を抜いている者を見過ごすつもりはありません」
「黙れ!」
アーサーは剣を振り上げた。
そして、ランセスへ向かって踏み込んだ。
次の瞬間。
鋭い音が響いた。
アーサーの剣が、ランセスの腕をかすめた。
「……っ!」
エリーゼは息を呑んだ。
ランセスの袖が裂け、腕に傷がついていた。
しかし、彼は一歩も退かなかった。
むしろ、アーサーの剣が戻るよりも早く、その手首を押さえた。
「なっ……!」
アーサーが驚いた瞬間、ランセスは彼の体勢を崩した。
剣が床に落ちる。
そして、アーサーはその場に取り押さえられていた。
「放せ! 私はマクラン伯爵家の嫡男だぞ!」
「そうですか」
ランセスは、淡々と答えた。
「私は、フォルマーゼ王国第二王子、ランセス=フォン=フォルマーゼ。第二騎士団長でもあります」
「これが何を意味するかはわかりますよね?」
「…………は?」
アーサーの顔から、血の気が引いた。
「王族への暴行未遂、伯爵令嬢への脅迫、他人の所有物を力ずくで奪おうとした件。詳しい話は、騎士団で聞かせてもらいましょう」
「そ、そんな……!」
アーサーは、ようやく自分の置かれた状況を理解したらしい。
だが、もう遅かった。
ランセスの合図で、控えていた騎士たちが部屋へ入ってきた。
アーサーは、そのまま連行されていった。
静かになった応接室で、エリーゼはしばらく立ち尽くしていた。
そして、はっと我に返る。
「ランセス様! 腕が……!」
「大丈夫です。大した傷ではありません」
「ですが……!」
エリーゼは、裂けた袖を見つめた。
自分を庇ったせいで、傷を負ったのだ。
そう思うと、胸が痛んだ。
「……申し訳ございません。わたくしのせいで」
「エリーゼ様のせいではありませんよ」
ランセスは、穏やかに微笑んだ。
「悪いのは、剣を抜いた彼です」
その言葉に、エリーゼは唇を噛んだ。
確かに、そのとおりだ。
けれど、彼が傷を負ったことに変わりはない。
「……せめて、お手当てをさせてくださいませ」
「では、お言葉に甘えましょう」
ランセスは、素直に頷いた。
エリーゼは使用人に薬と包帯を用意するよう頼み、自ら彼の傷を手当てした。
幸い、傷は深くなかった。
それでも、包帯を巻き終えるまで、彼女は何度も謝った。
ランセスは、そのたびに困ったように笑った。
「本当に、気にしないでください」
「……はい」
エリーゼは、小さく頷いた。
そして、彼の顔を見上げた。
「ランセス様。ありがとうございました」
「どういたしまして」
彼は、静かに答えた。
その笑顔を見て、エリーゼは気づいた。
自分は、この人にまた会いたいと思っていた。
ただ、宝石を見てもらうためだけではない。
もっと話をしたい。
もっと、この人のことを知りたい。
そんな気持ちが、胸の奥に生まれていた。
◆
アーサーが連行された後、エリーゼは父とともに、事件の経緯を整理した。
マクラン伯爵家にも連絡が入り、アーサーが起こした騒ぎは、すぐに知られることとなった。
だが、話はそれだけでは終わらなかった。
騎士団の調査によって、アーサーがピュアグリーンの存在を知った経緯が明らかになったのである。
その発端となったのは、アリス=リンコスだった。
アリスは、アーサーにピュアグリーンを手に入れるよう勧めていた。
あれほど大きな宝石であれば、手に入れるだけで名声を得られる。
そう考えたらしい。
アーサーは、彼女の言葉を真に受けた。
そして、自分ならばエリーゼから宝石を取り上げられると考えたのだろう。
婚約を解消した相手の所有物を、当然のように自分のものにしようとした。
その結果が、今回の事件だった。
「……アリス様にも、お話を伺う必要がありますわね」
エリーゼがそう言うと、父は少し考えてから頷いた。
「そうだな。ただし、無理はするな」
「はい、お父様」
エリーゼは、ランセスにも相談した。
彼は、第二騎士団の団長として、事件の経緯を把握していた。
「アリス嬢がどこまで関わっていたのか、調査は進んでいます。ただ、エリーゼ様が直接話をしたいのであれば、機会を設けることはできます」
「ありがとうございます」
「ですが、危険がないよう、騎士を同行させます」
「……はい」
エリーゼは頷いた。
彼女は、アリスと話をしたかった。
誰かを罰したいという気持ちだけではない。
なぜ、そこまでしてピュアグリーンを欲しがったのか。
そして、なぜアーサーをそそのかしたのか。
自分の口から、直接聞いてみたかったのである。
数日後。
エリーゼは、騎士団が用意した部屋で、アリスと向き合った。
アリスは、以前のような華やかな笑みを浮かべてはいなかった。
彼女はエリーゼを見るなり、顔を強張らせた。
「……何の用ですか」
「お話をしたいと思いまして」
「話すことなんてありません」
「そうですか」
エリーゼは、静かに頷いた。
「では、わたくしからお聞きします。なぜ、ピュアグリーンを手に入れようとなさったのですか?」
「……そんなもの、知りません」
「アーサー様に、宝石を手に入れるよう勧めたのは、アリス様だと伺っております」
アリスは、唇を噛んだ。
「……だって、あんな宝石を持っているなんて、ずるいじゃないですか」
「ずるい?」
「そうです! あなたは、婚約を破棄されたくせに、あんなに価値のある宝石を手に入れた! 何もかも失ったわけじゃない! それどころか、王子殿下とまで知り合って……!」
アリスの声が、次第に大きくなった。
エリーゼは、黙って聞いていた。
「私は、アーサー様に選ばれたんです! あなたよりも、私の方が愛されているんです! なのに、どうしてあなたばかり……!」
そこで、アリスは言葉を切った。
エリーゼは、少しだけ首を傾げた。
「……アリス様」
「何ですか!」
「わたくしは、アリス様から何かを奪ったでしょうか?」
「……っ!」
「アーサー様との婚約は、彼ご自身が解消なさったものです。ピュアグリーンは、わたくしが見つけた石です。そして、ランセス殿下とお知り合いになったのも、偶然のことですわ」
エリーゼは、穏やかに続けた。
「わたくしは、アリス様から何も奪っておりません」
「……そんなの、綺麗事です!」
「そうでしょうか」
エリーゼは、少し考えた。
「わたくしにも、欲しいものはあります。美しい石も、穏やかな暮らしも、心を許せる方との時間も。けれど、それらを手に入れるために、誰かから奪おうとは思いません」
アリスは、何も言わなかった。
「アーサー様を選んだのは、アリス様です。わたくしが婚約を解消されたことを、喜ばれたのかもしれません。それについては、わたくしから何か申し上げるつもりはございません」
エリーゼは、静かに彼女を見つめた。
「ですが、他人のものを奪ってよい理由にはなりませんわ」
「…………」
「ピュアグリーンが欲しかったのでしたら、そうおっしゃればよかったのです。わたくしが譲るかどうかは、別のお話ですけれど」
アリスは、顔を伏せた。
エリーゼは、最後に一つだけ尋ねた。
「……アリス様は、本当にアーサー様をお好きだったのですか?」
その問いに、アリスの肩が震えた。
しばらくして、彼女は小さな声で答えた。
「……わかりません」
それが、彼女の本音だったのかもしれない。
エリーゼは、それ以上、問い詰めなかった。
騎士たちが、アリスを連れて部屋を出ていく。
その背中を見送り、エリーゼはゆっくりと息を吐いた。
これで、彼女自身がすべきことは終わった。
あとは、法と騎士団に任せればよい。
誰かを罰することだけが、目的ではないのだから。
◆
その後、事件は正式に処理された。
アーサーは、他人の所有物を奪おうとしたことに加え、剣を抜いてランセスを傷つけたことで、厳しい処分を受けることになった。
マクラン伯爵家も、息子の行動を重く受け止めた。
アーサーは、家督を継ぐ資格を失い、嫡男の地位を剥奪された。
アリスもまた、事件への関与が認められ、相応の処分を受けることになった。
二人は、それぞれの立場を失った。
かつてのように、好き勝手に振る舞うことはできなくなったのである。
エリーゼは、その知らせを聞いても、特別な感慨を抱かなかった。
自分の手で復讐を果たしたという気持ちもない。
ただ、起こしたことに対して、相応の結果が返ってきた。
それだけだった。
ある日、父が新聞を読みながら言った。
「アーサーとアリスの二人だが、今でも互いに責任を押しつけ合っているらしい」
「……そうですの」
「収監先でも、毎日のように言い争っているそうだ」
エリーゼは、少し考えた。
そして、そっと首を傾げた。
「……仲がよろしいのですね」
「……そういうものか?」
「ええ。お互いに、相手のことをよく考えていらっしゃるようですもの」
父は、とうとう吹き出した。
「エリーゼ、お前は……」
「何でしょう?」
「いや、何でもない」
父は、笑いながら新聞を畳んだ。
エリーゼも、微笑んだ。
もう、彼らのことを考える必要はない。
彼女には、彼女自身の生活がある。
そして、その生活には。
ピュアグリーンがあった。
◆
それから一年が経った。
エリーゼは、以前と変わらず石を集めていた。
ただし、石との付き合い方は少し変わった。
宝石を預ける相手は、慎重に選ぶようになった。
鑑定や加工を依頼する際には、必ず契約内容を確認する。
そして、石の管理についても、以前より気を配るようになった。
あの事件で学んだことは、決して少なくなかった。
それでも、石を好きな気持ちは変わらない。
むしろ、以前よりも深くなったかもしれない。
ピュアグリーンは、今もエリーゼの手元にあった。
直径十センチのラウンドカット。
信頼できる宝石研磨師を見つけてカットしてもらったものだ。
自分の手で磨いたものも美しかったが、本職の方が作ったものはより美しく感じる。
その緑色は、いつ見ても美しい。
そして、黒い外殻の破片からは、小さな宝石がいくつも取り出されていた。
指輪に使えるほどの大きさのものもあれば、装飾品に加工できそうなものもある。
エリーゼは、それらを一つずつ大切に保管していた。
いつか、これらの石を使って、何かを作りたい。
そんなことも考えていた。
ある日の午後。
エリーゼが庭で石を眺めていると、来客の知らせが届いた。
「お嬢様、ランセス殿下がお見えです」
「……まあ!」
エリーゼは、思わず顔を上げた。
ランセスとは、事件の後も何度か会っていた。
最初は、傷の具合を尋ねるためだった。
その後は、ピュアグリーンを見せる約束を果たしたり、庭を散歩したりするようになった。
話してみると、ランセスは思っていた以上に気さくな人だった。
王族としての責任を理解しながらも、必要以上に身分を振りかざすことはない。
人の話をよく聞き、時には自分の考えを率直に話してくれる。
エリーゼは、彼と過ごす時間が好きだった。
「お通しして」
「かしこまりました」
ほどなくして、ランセスが姿を現した。
「こんにちは、エリーゼ様」
「こんにちは、ランセス様。お待ちしておりましたわ」
「今日は、少しお話があって参りました」
「お話、ですか?」
エリーゼは首を傾げた。
ランセスは、彼女の前に立つと、少しだけ表情を引き締めた。
「エリーゼ様。私と、結婚していただけませんか」
「…………え?」
エリーゼは、固まった。
ランセスは、真剣な表情で彼女を見つめていた。
「私は、あなたと過ごす時間が好きです。あなたが石を眺めているときの表情も、見つけたものについて嬉しそうに話す声も。あなたが大切にしているものを、私も大切にしたいと思っています」
エリーゼは、何も言えなかった。
「もちろん、王族としての立場もあります。簡単なことではないでしょう。それでも、私はあなたと人生をともにしたい」
ランセスは、そっと手を差し出した。
「……お返事をいただけますか」
エリーゼは、その手を見つめた。
思い返せば、一年前。
彼女は、婚約を破棄された。
その時は、少し寂しかった。
だが、それで自分の人生が終わるわけではなかった。
隕石が落ちてきて。
黒い石の中から、ピュアグリーンを見つけて。
それをきっかけに、ランセスと出会った。
彼は、彼女が大切にしているものを笑わなかった。
石を好きな気持ちを、変だとも、くだらないとも言わなかった。
ただ、面白そうだと聞いてくれた。
そして、彼女自身のことも、知ろうとしてくれた。
エリーゼは、ゆっくりと顔を上げた。
「……はい」
声が、少し震えた。
「わたくしでよろしければ、喜んで」
ランセスの顔が、ぱっと明るくなった。
「ありがとうございます」
「こちらこそ……ありがとうございます」
二人は、そっと手を取り合った。
エリーゼは、微笑んだ。
これから先、どんなことが待っているのだろう。
王族との結婚である。
簡単なことばかりではないはずだ。
けれど、ランセスと一緒なら、きっと乗り越えていける。
そんな気がした。
◆
その後、ランセスは王位継承権を放棄し、新たな公爵家を興すことになった。
王族としての血筋を失うわけではない。
ただ、王位を継ぐ立場から離れ、自分の選んだ相手と、新しい家を築く道を選んだのである。
エリーゼとランセスの結婚は、多くの人々に祝福された。
そして二人は、王都を離れ、新たな領地へ移り住むことになった。
結婚式の日。
エリーゼは、胸元にピュアグリーンを飾っていた。
十センチのラウンドカット。
その鮮やかな緑は、彼女の姿を彩る何よりも美しい宝石だった。
「……よく似合っていますね」
隣に立つランセスが、そう言った。
「ありがとうございます」
エリーゼは微笑んだ。
「この石は、わたくしの人生を変えてくれましたの」
「ええ。知っています」
「最初は、ただの黒い石でしたのよ」
「それでも、あなたは興味を持った」
「はい」
エリーゼは、ピュアグリーンをそっと撫でた。
「中に何があるのか、知りたかったのです」
「そして、見つけた」
「ええ」
彼女は、ランセスを見上げた。
「……でも、今思えば、石だけではありませんでしたわね」
「と、申しますと?」
「この石を見つけたことで、いろいろなことが変わりました。ランセス様と出会ったことも」
ランセスは、静かに頷いた。
「そうですね」
「もし、あの日、庭に隕石が落ちてこなかったら……」
エリーゼは、少しだけ考えた。
その先は、わからない。
隕石が落ちてこなければ、今とは違う人生を歩んでいたのだろう。
だが、どちらがよかったのかなど、比べようもない。
ただ、今の自分は幸せだ。
それだけは、はっきりしていた。
「……いいえ。考えても仕方ありませんわね」
エリーゼは、微笑んだ。
「わたくしは、今が幸せですもの」
ランセスは、その手を取った。
「私もです」
二人は、並んで歩き出した。
これから、新しい領地での生活が始まる。
新しい屋敷。
新しい人々。
そして、新しい日々。
エリーゼは、きっとこれからも石を集め続けるだろう。
美しい石を見つければ、夢中になって観察する。
珍しい鉱物があると聞けば、胸を躍らせる。
そして、いつかまた、思いがけない発見をするかもしれない。
そのたびに、ランセスは隣で笑ってくれるだろう。
エリーゼは、そう思った。
空から落ちてきた、黒い石。
その中に眠っていた、純粋な緑。
ピュアグリーン。
それは、彼女にとって、ただ美しい宝石というだけではなかった。
失ったものの先に、新しい出会いがあること。
見た目だけでは、本当の価値はわからないこと。
そして、自分の好きなものを大切にしてよいのだということ。
そのすべてを、教えてくれた石だった。
エリーゼは、空を見上げた。
澄み渡った青空が広がっている。
あの日、星が落ちてきた空と同じ空だ。
彼女は、胸元の宝石にそっと触れた。
「……ありがとう」
小さく呟く。
誰に向けた言葉なのか、自分でもよくわからなかった。
隕石にか。
ピュアグリーンにか。
それとも、あの日から始まった、自分の人生にか。
けれど、それでよかった。
エリーゼは、ランセスの手を握り直した。
そして、新しい人生へと歩き出した。
星くずが運んできた、純粋な緑とともに。
〜完〜




