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第05話 人生そのものを、やり直したい

 朝になっても、ノートは机の上に開いたままだった。


 最後に書いた一行も、そのまま残っている。


『戻りたいのは「いつ」ではなく、「どんな自分」なのかもしれない』


 昨日までなら、この下に新しい仮説を書き足していただろう。


 だが今日は、ペンを持つ気になれなかった。


 考えるべきことが変わってしまったからだ。


 時間を戻せるのか。


 どこまで戻れるのか。


 どうすれば発動するのか。


 そんなことばかり考えていた。


 けれど、本当に何十年も戻れる可能性があるのなら、その前に考えなければならないことがある。


 俺は椅子から立ち上がり、部屋を見回した。


 五十歳の俺が暮らしている部屋だ。


 広くはない。


 高級な家具もない。


 独身男の部屋としては、驚くほど普通だと思う。


 壁際には本棚がある。


 小説、漫画、資料本。


 買っただけで読んでいない本もかなりある。


 机の横には、何年も使っているプリンター。


 引き出しには昔の原稿。


 パソコンの中には、それ以上の数の原稿が眠っている。


 新人賞に送ったもの。


 途中で諦めたもの。


 投稿サイトへ載せたもの。


 誰にも見せなかったもの。


 一本一本に思い入れがあるかと聞かれれば、正直そこまででもない。


 題名すら忘れた作品もある。


 それでも全部、俺が五十年生きてきた結果だった。


 時間を戻すということを、俺は少し簡単に考えすぎていたのかもしれない。


 ゲームなら、昔のセーブデータを読み込めばいい。


 気に入らなければ、また現在へ戻ればいい。


 だが、この力にそんな保証はない。


 一度戻ったら、もうここへ帰ってこられない可能性だってある。


「……そりゃそうだよな」


 俺は独り言を呟いた。


 今さら気づくようなことでもない。


 過去へ戻る。


 その言葉の響きが魅力的すぎて、その反対側を考えていなかった。


 過去へ戻るということは、今から離れるということだ。


 俺はスマートフォンを手に取った。


 連絡先を開く。


 最初に目についたのは美咲だった。


 昨日、誕生日を祝ってくれた妹。


 最近は滅多に会わない。


 連絡だって多くない。


 兄妹仲が悪いわけではないが、若い頃のように何でも話す関係でもなくなっている。


 それでも、五十歳の俺にとっては今の美咲が妹だ。


 俺より三つ年下で、同じように歳を重ねてきた美咲。


 もし二十年、三十年と戻ったら、今の美咲はいなくなる。


 若い美咲には会えるだろう。


 だが、それは同じ人間であっても、俺が昨日メッセージを交わした美咲ではない。


 俺だけが、その先を知っていることになる。


 指が止まった。


 何か送ろうかと思った。


 だが、何を書けばいい。


『今までありがとう』


 違う。


 重すぎる。


 こんなものを突然送ったら、電話がかかってくる。


『元気でな』


 もっと駄目だ。


 完全に何かを決意した人間の文章だ。


「俺は何を書こうとしてるんだ」


 苦笑しながら、入力した文字を全部消した。


 結局、


『昨日はありがとう』


 それだけ送った。


 少しして返信が来た。


『どういたしまして。珍しく素直だね』


「一言余計なんだよ」


 笑った。


 たったそれだけのやり取りなのに、スマートフォンを置くまで少し時間がかかった。


 次に直人の名前を開いた。


 昨日のくだらないやり取りが残っている。


『まだベストセラー作家になってないの?』


 学生時代から、こいつは変わらない。


 もし過去へ戻れば、若い直人にまた会えるかもしれない。


 同じくだらない話をするかもしれない。


 だが、その先まで同じになる保証はない。


 俺が違う選択をすれば、直人との関係だって変わる。


 そもそも出会わなくなる可能性すらある。


 時間を戻せる。


 昨日までは、それを奇跡だと思っていた。


 今は少しだけ怖かった。


 未来をやり直すということは、未来を作り直すということでもある。


 俺が知っている五十歳までの人生は、二度と再現されないかもしれない。


 失敗だけではない。


 成功とは呼べない、小さな喜びもあった。


 初めて小説を最後まで書き上げた夜。


 新人賞で一次選考を通過したとき。


 投稿サイトで初めて感想をもらった日。


 知らない読者から「続きが読みたい」と書かれたとき。


 美咲に原稿を読ませて、珍しく褒められた日。


 直人と酒を飲みながら、いつか本が出たら一冊買えと約束した夜。


 全部なくなるかもしれない。


 いや。


 俺の記憶には残るのだろう。


 それでも、同じ出来事がもう一度起こるとは限らない。


 俺はパソコンの前へ戻った。


 ブラウザを開く。


 投稿サイトの管理画面を表示した。


 昨日までなら、真っ先にアクセス数を確認していた。


 今日も数字は大して増えていない。


 いつもの俺なら落ち込むところだった。


 だが今は、その数字すら妙に愛おしく見えた。


 二十三人しか読んでくれなかった。


 たった一人しかお気に入りに入れてくれなかった。


 それでもゼロではない。


 画面の向こうに、俺の文章を読んだ誰かがいる。


「……これも、なくなるのか」


 当然だ。


 過去へ戻れば、この小説はまだ書かれていない。


 今の俺が書いた文章は、俺の頭の中にしか残らなくなる。


 俺は管理画面を閉じた。


 デスクトップへ戻る。


 そこには、二十年以上かけて作った大量のフォルダが並んでいた。


 人生をやり直したい。


 何度そう思ったか分からない。


 だが本当にやり直せるかもしれないとなった途端、今の人生にも手放したくないものがあることに気づく。


 ずいぶん勝手な話だ。


 失敗した人生だと思っていた。


 才能のない人生だと思っていた。


 五十年間、何者にもなれなかったと思っていた。


 それなのに、捨てるとなったら惜しくなる。


 俺は椅子にもたれた。


 このままでも生きていける。


 明日も仕事をして、帰宅したら小説を書く。


 アクセス数を確認する。


 一人増えれば喜ぶ。


 減れば落ち込む。


 新人賞にもまた応募するかもしれない。


 新しい小説だって書くだろう。


 五十一歳になる。


 五十二歳になる。


 六十歳になっても書いているかもしれない。


 それが悪い人生なのかと聞かれれば、答えに困る。


 少なくとも、生きてはいける。


 だが。


 俺は本当に、それでいいのか。


 パソコンの黒い画面に、自分の顔が薄く映っている。


 五十歳の顔だった。


 若い頃に思い描いていた五十歳とは、ずいぶん違う。


 俺はもっと何かを手に入れていると思っていた。


 本棚には自分の本が並んでいる。


 漫画化された作品もある。


 できればアニメにもなっている。


 書店へ行けば、自分の名前がある。


 読者から次回作を待たれている。


 そんな未来を、本気で想像していた。


 何一つ叶わなかった。


 それでも、夢そのものが消えたわけではない。


 だから五十歳になっても書いている。


 俺は目を閉じた。


 ここで何もしなければ、おそらく今までの人生が続く。


 それは安全だ。


 少なくとも、今持っているものは失わない。


 美咲との今の関係も。


 直人との今の関係も。


 この部屋も。


 書いてきた作品も。


 俺が生きてきた五十年間も。


 全部そのままだ。


 その代わり。


 やり直せるかもしれない唯一の機会を、自分から捨てることになる。


「……そんなの」


 声が漏れた。


 俺は何を守ろうとしている。


 失いたくないものはある。


 確かにある。


 だからといって、このままでいい理由にはならない。


 五十歳まで夢を捨てられなかった男が、過去へ戻れるかもしれないところまで来て、今度は現在を捨てるのが怖いと言っている。


 笑える。


 だが、それが俺だった。


 失敗するのが怖い。


 失うのも怖い。


 だから何度も安全なほうへ逃げてきた。


 書きたい作品より、評価されそうな作品を選んだこともある。


 応募しようと思いながら、完成度が足りないと言い訳して見送ったこともある。


 もっと書けたはずの夜に、疲れているからとパソコンを閉じたこともある。


 それら全部が間違いだったとは思わない。


 人間は毎日、全力では生きられない。


 それでも。


 もし人生で一度くらい、怖いほうを選ぶとしたら。


 今ではないのか。


 俺は立ち上がった。


 窓を開ける。


 冷たい空気が部屋へ入ってきた。


 外では、いつもと変わらない朝が始まっている。


 車が走っている。


 誰かが歩いている。


 遠くで電車の音がする。


 世界にとっては、何でもない一日だ。


 俺にとってだけ、違う。


 今日ここで選べば、俺の人生は変わるかもしれない。


 失敗するかもしれない。


 もっとひどい人生になる可能性だってある。


 過去へ戻ったところで、才能まで若返るわけではない。


 いや、若返ったところで才能が増えるわけでもない。


 結局また小説家になれず、同じ場所へ戻ってくるかもしれない。


 それでも一つだけ、今の俺にしか持っていないものがある。


 五十年間、生きてきた記憶だ。


 成功できなかった記憶。


 間違えた記憶。


 諦めかけた記憶。


 それでも書き続けた記憶。


 もしそれを持ったまま、もう一度始められるなら。


 今度は違う選択ができるかもしれない。


 俺は窓を閉めた。


 机へ戻る。


 ノートの新しいページを開いた。


 長い文章を書くつもりはなかった。


 条件も仮説も、もう書かなかった。


 ただ一行だけ記した。


『それでも戻る』


 文字を見つめる。


 不思議なくらい、気持ちは静かだった。


 昨日までのような興奮はない。


 能力を試してやろうという気持ちもない。


 奇跡が起きてほしいと期待しているわけでもない。


 ただ決めた。


 もし選べるのなら。


 俺は今の人生を続けるほうではなく、もう一度始めるほうを選ぶ。


 成功するためだけではない。


 失敗しないためでもない。


 今度こそ、自分が納得できるところまでやってみたい。


 五十年間の記憶を抱えたまま。


 俺はゆっくり息を吐いた。


「一日だけじゃない」


 何も起きない。


「一回の失敗を直したいんでもない」


 部屋は静かなままだ。


 それでよかった。


 これは能力への命令ではない。


 俺自身への確認だった。


 美咲の顔が浮かんだ。


 直人の顔が浮かんだ。


 これまで書いてきた作品。


 働いてきた時間。


 くだらない失敗。


 小さな成功。


 五十年間の記憶が、次々と頭を通り過ぎていく。


 惜しいと思った。


 怖いとも思った。


 それでも、その気持ちごと持っていく。


 俺は目を開けた。


「俺は――」


 そこで一度、言葉を止めた。


 逃げ道を残したくなかった。


「人生そのものを、やり直したい」


 ゴォン――。


 今までとは違った。


 低い音が一度鳴っただけでは終わらない。


 ゴォン――。


 二度目。


 机の上のペンが転がった。


 ゴォン――。


 三度目。


「……おい」


 床が震えている。


 いや、部屋だけではない。


 身体の内側まで同じ振動が響いてくる。


 パソコンの画面が一瞬だけ乱れた。


 照明が明滅する。


 スマートフォンの画面が勝手に点灯し、すぐに消えた。


 俺は机へ手をついた。


「本当に……来るのか?」


 返事の代わりに、すべての音が消えた。


 外を走っていた車の音。


 電車の音。


 パソコンのファン。


 時計。


 何も聞こえない。


 完全な静寂だった。


 次の瞬間、視界の端から白い光が広がり始めた。


 俺は反射的にノートへ手を伸ばした。


 同時に、机の上に置いていたスマートフォンと財布にも指が触れる。


 何を持っていけるのか。


 そもそも、本当にどこかへ行くのか。


 そんなことを考える余裕は、もうなかった。


 白い光が部屋を覆う。


 机も。


 パソコンも。


 本棚も。


 五十歳の俺が暮らしてきた部屋も。


 輪郭を失っていく。


 怖かった。


 それでも、もう撤回しようとは思わなかった。


 俺が最後に見たのは、開いたままのノートだった。


『それでも戻る』


 自分で書いた文字だけが、一瞬遅れて白い光に消えた。


 そして俺の意識も、そこで途切れた。


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