三祓目 チキン先生
朝の職員室は、旧式の蛍光灯がジィ……と唸り、
コピー機が低くうなりをあげている。
壁には昭和特有の黄ばみがあり、窓枠のアルミが光を反射していた。
「ここここ、空いてるの。きみの席ね!」
新人青年は、勢いのまま椅子に座らされた。
長身の男は満面の笑みで親指を立てた。
「俺は市ノ瀬。
気軽に“イッチー”って呼んで⭐︎」
☆の音が聞こえた。
染崎は瞬時に悟った。
(……苦手なタイプだ)
チャラい。馴れ馴れしい。距離感ゼロ。
しかも声がいい。眠くなっちゃうでしょうが。
市ノ瀬は染崎の肩をぽんぽんと叩きながら、
「いや〜新任ってだけで可愛いよね!フレッシュ感あるし!
あ、そうだ、あとでみんなに紹介してあげるね!」
とテンション高く喋り続ける。
染崎は、ただひたすら首を縦に振るしかなかった。
「で?きみ、名前なんていうの?」
「あ、えっと……染崎です」
「せんざき?」
「そ、そめざき、です……」
「あー、そめざきね。めずらしいねぇ〜。そめざき、そめちゃん? ふふ、覚えた覚えた」
――覚えられたくなかった………。
背筋を小さく震わせていると、後ろから靴音が近づいてきた。
「これ、1年5組の名簿です」
寺沢がすっと名簿を差し出す。相変わらずクールで無駄のない動きだ。
染崎は心の中で突っ込む。
……え、こういうのって普通、もっと前ににまとめて配られるものじゃないんだ……?
「あー! ほなみちゃん。久しぶりだねぇ。3月ぶり?」
市ノ瀬が軽い調子で声をかけるが、寺沢は完全にスルーした。
表情一つ変えず、染崎へ向き直る。
「これからよろしくお願いします、染崎先生。1年5組、担任としての務めは多いですが……手伝えることがあれば」
「よ、よろしくお願いします……!」
状況についていけず、染崎の声が裏返った。
市ノ瀬は横でけらけら笑っている。
「いやぁ、新人って感じだねぇ、そめちゃん! かわいいかわいい」
――勘弁してくれ。
職員室に入ってまだ三分も経っていないのに、染崎はすでに帰りたくなっていた。
なんか話が知らないところで進んでいたらしく、
市ノ瀬先生が1年5組のクラスに連れてきてくれた。
「はい、そめちゃん。ここがキミの受け持つクラス、1年5組だよ〜」
市ノ瀬先生が軽い調子で引き戸をガラリと開けた。
朝の光が差し込む教室は、まだ生徒の気配が一切ない。
春の湿り気を含んだ空気と、わずかに新しい木材の匂い。それに――新品の教科書特有の、インクと紙の香りが混ざっていた。
これが……自分のクラス……。
染崎は思わず足を止める。
黒板は清掃当番が丁寧に仕上げたらしく、どこまでも滑らかでくすみひとつない。
教卓の上には季節の花が生けられていて、ひっそりと瑞々しい彩りを添えている。
……すごいな。こういうのって、誰がやるんだろう。前の担任の先生?
いや、二年生の子かな?
そして各机の上には、どっさりと積まれた新品の教科書。
国語、数学、理科、社会……白い紙の束が整然と積まれていて、どれも角がまだピシッと尖ってい る。
「いやぁ、春だねぇ。見てこれ、教科書の山。重いんだよね〜意外と。ほらほら、そめちゃんも持っ てごらん?」
市ノ瀬がわざとらしく6冊ぐらい積み上げる。
「わ、わ!ちょ、市ノ瀬先生……崩れる崩れる……!」
慌てて支える染崎。
教科書の束が少しぐらつき、カサッと紙の音がした。
うわぁ……じぶん、これちゃんとできる……? 生徒の名前覚えながら……絶対混ざる……。
そんな不安が胸の底からじわじわ湧き上がってくる。
「そういえば、そめちゃん。キミ、黒板使うの得意?」
「えっ……あ、ふつう……だと思いますけど……」
「チョーク折るタイプ?」
「えっ……? あ、えっと……折ります……しょっちゅう……」
「だろうね〜〜」
市ノ瀬先生はなぜか妙に確信めいた笑いを浮かべ、教卓の引き出しを開けて見せる。
「ここにチョークの替えがあるから、いっぱい使っちゃっていいよ。あと、黒板消しはね、思ったよ り重いから気をつけて」
染崎はこくこくと小動物のように頷いた。
……なんなんだこの人。苦手なのに、親切で、でも馴れ馴れしくて……距離感がわからん……。
「ま、そめちゃん。ここが今日からキミの戦場だよ」
市ノ瀬がパシンと教卓を叩く。
染崎はその言葉に、
うわぁ……戦場……こわ……。いやでも、自分が担任……そうか……自分が……。
胸がぎゅっと締め付けられた。
不安と期待と、少しの憧れがぐちゃぐちゃに混ざって落ち着かない。
ガランとした教室の静けさが、余計にそれを強調していた。
「そめちゃん。大丈夫だって。困ったら俺が助けてあげるよ。なんせ君の相棒はあのほなみちゃんだからね!多分めっちゃしごかれるよ!」
「……あ、ありがとうございます……(?)」
市ノ瀬が大げさに親指を立て、染崎は苦笑を返すしかなかった。
そうして二人は、生徒たちが来る前の教室で、しばし準備を始める。
やがて数分後、廊下の向こうから、元気な中学生の足音が響き始めていた――。
*
「おはよーございます!」
「……あ、新しい先生だ」
「え?担任? 若い……若っ」
「ちょっとイケメンじゃね?」
すでに教室には半分ほどの生徒がやってきていた。
パタパタとスカートの裾が擦れる音が聞こえる。
つい最近まで小学生だった子達。少し丈の長い学ランやセーラー服を着て、可愛いものである。
しかし…
「おろろろろろ……」
一名、大丈夫じゃなさそうなのがいます。
「…あの、どうか普通にしていてくれませんか?」
寺沢先生の鋭い目がこちらを捉える。
どうも不満ありげだ。
「いや…どうもだめなんです。。。こういう…その…あの…」
「…はっきりおっしゃってください」
「あ…あのっ、すみませんっっっ!お、お手洗いに……」
*
トイレで何度も深呼吸し、顔を軽く叩き、
「俺は教師……俺は教師……!」
と自分に言い聞かせた染崎は、ようやく気力を振り絞って廊下へ戻った。
だが——
そこには、誰もいなかった。
さっきまで生徒たちの話し声が響いていた廊下は、嘘のように静まり返っている。
遠くの方で教室の扉がひとつ閉まる音がしただけだった。
あ、やば……完全に置いていかれてる!
慌てて壁の時計を見上げる。
ホームルーム開始まで残り二分。
「うそだろおおおお!!」
声にならない叫びを上げ、染崎は1年5組へダッシュした。
息を切らしながら、あの扉の前に立つ——が。
やっぱり、手が伸びない。
うわああどうしよう、全員いるよね!?
超気まずい……絶対なんか思われる……やだ……無理……
扉に手を伸ばしては引っ込め、また伸ばしては震える。
もはや挙動不審を通り越して、儀式じみてきた。
その瞬間——
ガラッ!!
勢いよく扉が内側から開いた。
「帰りが遅いので、迎えに来ました」
「ひゃっ!?!?」
開いた扉の向こうには寺沢が立っていた。
無表情だが、目だけが微妙に怒っている。
そして次の瞬間、彼女の手が伸びた。
がしっ。
「あっ……えっ……ちょっ……!」
染崎の後ろ襟をつかんで、そのまま教室へ引きずり込む。
「ほら。入りますよ。
ホームルーム始まりますので、“教師”として。」
「うわぁぁぁぁ……!!」
ちょっと待って!首!首が!
しかし容赦はない。
寺沢はまるで雑に召喚された下級魔物のごとく、染崎をずるずると引っ張っていく。
――そして教室の中へ。
生徒たちは、すでにほぼ全員揃っていた。
40人弱の視線が、一斉に“引きずられてくる担任”へ向けられる。
その光景は壮観だった。
「……あれ、担任の先生……?」
「え、なんで引きずられてんの?」
ザワザワ…
完全に気まずい沈黙。
寺沢は染崎を教卓の前に“置く”ように手を離した。
「……では、担任の染崎先生です。どうぞ。」
教卓の真横で、染崎は立ち尽くした。
……死にたい。




