十八祓目 ノロワレタ①
4月19日
――その夜。
普通は人がいていい時間ではなかった。
校舎はすべて消灯され、
校門も、昇降口も、
固く閉ざされているはずの時間。
それでも――
人が一人、夜の廊下を歩いていた。
*
「……っ」
小さく息を呑む音が、
廊下に吸い込まれる。
少女は、
懐中電灯を両手で握りしめていた。
光の円が、
震えながら床をなぞる。
壁。
掲示物。
誰もいないはずの教室。
――生徒会腕章。
制服の袖に、
きっちりと巻かれたそれが、
彼女の立場を示していた。
――小柄な少女。
「……だいじょうぶ……」
自分に言い聞かせるように、
小さく呟く。
「すぐ……見回って……」
「帰るだけ……」
「すぐに…みまわ…みまわっ……ううう……」
「会長の薄情者〜…一人は嫌ですうううって…いったのにぃ…」
半べそをかいているが
足音は消えない。
――コツ。
――コツ。
自分のものか、
それとも――
「……?」
足が止まる。
懐中電灯の光が、
ふと、廊下の奥を照らした。
何もない。
……はずだった。
「……あれ……?」
視界の端が、
わずかに歪む。
空気が、
ぬるり、と揺れた。
「……っ!」
一歩、踏み出した瞬間。
――すっ。
音もなく、
光が消えた。
懐中電灯が――
消えたのではない。
少女ごと、消えた。
廊下には、
誰もいない。
足音も、
呼吸も、
気配すら残らず。
ただ――
転がった懐中電灯だけが、
床で、
かすかな光を放っていた。
――成海中学校。
春の夜。
一人の生徒が、
忽然と姿を消した。
***
ジリリリリ!ジリリリリ!
赤色の丸いオーソドックスな目覚まし時計がけたたましくなっている、
「……んんー…あと…5時間ぐらい…」
「……うるさぁいなぁ……もう……」
目が覚めた瞬間、
嫌な予感がした。
枕元の時計を見る。
――八時、三十分。
「…………」
脳が、
一拍遅れて理解する。
「……は?」
低く、真顔で呟いた。
生徒なら――
ギリ、ワンチャン、
チャイム滑り込みでセーフ。
でも。
(教師は……)
(完全に……)
(アウト……)
布団を蹴飛ばして跳ね起きる。
「あぁぁっぁぁっぁぁっぁぁああああああああーっ!!!やばいやばいやばい!!」
顔を洗う。
歯を磨く。
ネクタイを――
「……ないっっっっっ」
昨日、ほどいたままだったことを思い出す。
しかもそのネクタイ、ヒカリがまだ持っているだろう。
「もういい!今日は……ノータイで……」
教師としての尊厳を、
静かに床に置いた。
朝食?
ない。
身だしなみ?
最低限。
自転車の鍵を掴んで、
玄関を飛び出す。
「いってきます!!」
返事はない。
そもそも返してくれる人がいないっっっ
***
自転車。
全力。
十五分の道のりが、
体感五分くらいで流れていく。
(信号……!)
(全部、青であれ……!!)
願いは半分くらい裏切られ、
心拍数だけが無駄に上がる。
校門が見えた時には、
もう息が切れていた。
「……はぁ……はぁ……」
校内に入る。
静か。
――静かすぎる。
(……やっぱり……おわた…。。。まだ教師生活1ヶ月も立ってないのにぃ……)
初遅刻である。
嫌な予感が、
確信に変わる。
職員室。
扉の前で、
一瞬、立ち止まる。
中から聞こえる声。
「――では、本日の議題ですが」
(……やってる……)
職員会議。
ばっちり。
時計を見る。
八時五十一分。
(……詰み)
逃げ場はない。
覚悟を決めて、
そっと、扉を開ける。
――がちゃ。
一斉に、
視線が集まる。
「……」
空気が、
ぴしっと凍った。
「……あ」
思わず、
間の抜けた声が出る。
「……お、おはようございます……」
声、弱い。
校長。
教頭。
学年主任。
ずらり。
全員、
無言でこちらを見ている。
(やめて……)
(その“残念なものを見る目”……)
「……染崎先生」
神藤教頭の声。
低い。
静か。
逃げ道ゼロ。
「時間、わかっていますか?」
「……はい……」
反射で頷く。
「すみません……」
それ以上、
言い訳は出てこなかった。
「……席に、着いてください」
「……はい……」
静かに、
自分の席へ。
椅子に座るまでの数歩が、
やたらと長い。
(もう……今日……厄日……)
背中に、
無言の圧を感じながら、
染崎は肩をすくめた。
――と。
「では、次の報告です」
教頭の声が、
少しだけ低くなる。
「昨夜――」
「本校の生徒が、一名」
職員室の空気が、
微妙に変わる。
「……行方不明になっています」
「……え」
染崎の口から、
思わず声が漏れた。
職員会議の資料を持つ手が、
わずかに止まる。
「二年四組の生徒です」
「昨夜、校内に侵入した形跡があり――」
染崎の胸の奥が、
ひやりと冷えた。
(……二年……)
(……夜の学校……)
昨夜の旧校舎。
鈴の音。
消えた存在。
すべてが、
嫌な形で繋がっていく。
(…まさかね…あれたちが…)
「現在、警察と連携し――」
教頭の声が続く。
だが、
染崎の耳には、
もう、半分しか入ってこなかった
*
教室。
いつもと同じ朝のはずだった。
チャイム。
ざわつく声。
机を引く音。
――なのに。
(……なんか……空気、重くない……?)
染崎は、教卓の前に立ちながら、
微妙な違和感を覚えていた。
行方不明の件は、
生徒には伏せられている。
「夜の学校に侵入した二年生が消えた」
なんて話、
広まればパニックになる。
だから、今日はいつも通り。
何事もなかった顔で。
――はず、だった。
「せんせー」
来た。
嫌な予感の塊が、
机からぬっと立ち上がった。
「…な、なにかな?楓月くん……」
もうすっかり、佑月くんと見分けがつくようになった。
成長ですね。
できるだけ平静を装う。
楓月は、
にこにこしている。
でも――
目が、笑っていない。
「昨日さぁ」
「なんか、朝…学校、騒がしくなかった?」
――ぶっ。
染崎の心臓が、
派手に跳ねた。
「……な、なにが?」
「いやぁ?」
「なんとなく?」
首を傾げる。
無邪気なふり。
(なんとなくで来るな……!!)
「えーっと……」
「気のせいじゃない?ハハハ」
「ふーん」
楓月は、
じっと染崎を見る。
数秒。
沈黙。
その間、
染崎の精神は削られていく。
「……じゃあさ」
楓月が、
声を落とした。
「二年の先輩が、昨日の夜から」
「ないない、してるのは?」
――アウト。
「なんで知ってるのっっっ!?!?!?!?」
素で叫んだ。
教室が、
一瞬で静まる。
「え」
「なに」
「どうしたの」
あっ。
(やっちゃった……)
慌てて取り繕う。
「い、いや!!」
「な、なんでもない!!」
「ほら!1時間目の準備して置いてねー!!!!!!」
だが、
楓月はもう満足そうだった。
「やっぱりー」
にやぁ。
「当たりだ」
(怖い!!)
(この子、怖い!!)
「……なんで……」
「なんで知ってるの……」
小声で聞く。
楓月は、
指をくるくる回しながら言った。
「えー」
「行方不明仲間的なー?」
「は?」
「ほら」
「ボクも前、いなくなったじゃん」
あ。
――そうだった。
一時期、
本気で捜索騒ぎになったやつ。
家にも帰らず、
連絡もつかず、
“消えた”事件。
結局、消えたのではなくて眠ってしまって時間が過ぎてしまっただけだったけれど。
(……あったな……)
妙に、納得してしまう。
「……それで?」
「それで、なんとなく」
「空気、似てるなーって」
さらっと言う。
「先生たちの顔とか」
「廊下の感じとか」
「あとー」
一拍置いて。
「……夜の校舎の匂い」
染崎の背筋が、
ぞわっとした。
「……匂い?」
「うん」
「雨の前みたいなやつ」
不穏な言葉が
頭をよぎる。
「……先生」
楓月が、
机に肘をついて、顔を近づける。
「今回のはさ」
「“戻ってくるやつ”だと思う?」
教室の空気が、
一瞬、止まった。
「……」
染崎は、
言葉を選ぶ。
教師として。
大人として。
そして――
昨日まで、
“見えないもの”に巻き込まれた人間として。
「……先生は」
「戻ってくるって、信じてる」
そう答えた。
楓月は、
少しだけ目を細めて、
「ふーん」
「じゃあさー。こんな時は〜」
「”専門家”頼ってみよ!」
*
旧校舎。
昼間だというのに
ここだけ空気が一段冷たい。
「でー、ここに来たってわけか?」
だるそうな声。
アカツキは、
壊れかけの棚を開けては閉め、
開けては閉め、
中身もろくに見ずに漁っていた。
「……アカツキ、何探してるの」
「特に何も」
「暇つぶし」
「なにか面白い物ないかなーって。例えば…誰かのポエムとか」
最低である。
その後ろでは、
ヒカリが式神と遊んでいた。
昨日の月のような模様をした'ω'な顔のやつと追いかけっこ。
ヒカリは鈴を鳴らしながら
それを追いかけている。
「まってー!」
「そっちじゃないー!」
平和。
――この空間だけ。
染崎は、
扉の近くで立ち尽くしていた。
隣には、
相変わらず楽しそうな楓月。
「先生、顔、死んでるよ?」
「生きてる……」
「ただでさえ寝不足なのに……」
喉を鳴らして、
染崎は切り出す。
「……あのさ」
「昨日の夜……」
「なんかなかった?校舎の方で……」
視線が泳ぐ。
「あの……」
「生徒が……」
言い淀む。
楓月が、
横から口を挟んだ。
「行方不明になってるんだってー」
「二年の先輩」
「おい」
「事実でしょ?」
にこっ。
染崎は、
もう止める気力もなかった。
アカツキは、
棚の奥を覗いたまま、
「はーん」
と、間の抜けた声を出した。
「なるほどな」
棚を閉める。
「確かに、一人来てたぞ」
「……!」
染崎の背筋が跳ねた。
「ほ、本当!?」
「うん」
「女だったな」
軽い。
あまりにも軽い。
染崎の思考が、
一瞬、止まる。
「……っ」
楓月は、
楽しそうに目を輝かせた。
「へー」
「じゃあ、やっぱり当たり?」
「いや」
アカツキは、
ひらひらと手を振った。
「私、あんまり興味なかったんで」
「え」
「昨日は仏滅だったから」
「ここ、いなかったんだよ」
何気ない調子。
世間話みたいに。
「……」
「……」
染崎の表情が、
完全に固まった。
「……ぶ」
「……ぶつ……」
楓月が首を傾げる。
「仏滅?」
「なにそれ、カレンダーのやつ?」
染崎は、
アカツキを見たまま、
「……ブツメツ……?」
完全に理解が追いついていない顔。
「うん」
アカツキは、
当たり前のように頷いた。
「だから」
「この校舎、昨日は“空き”だ」
「……空き……?」
「簡単にいうと…厄日だ」
さらっと、
とんでもないことを言う。
後ろで遊んでいたヒカリがぶつめつきらいっと叫んでいる。
ヒカリが、
くるっと振り返った。
「ねー!」
「だから、ちょっと騒がしかったんだよー!」
無邪気な声。
「へんなグニャグニャしたやつ、いっぱいいたー!」
染崎の胃が、
きゅっと縮む。
「……それ」
「“ちょっと”で済むやつ……?」
アカツキは、
肩をすくめた。
「さぁな」
「ただ――」
視線が、
旧校舎の奥へ向く。
「帰り道、分かんなくなったなら」
「まだ、どっかにいるかもな」
その言葉が、
静かに落ちる。
校舎が、
きし、と鳴った。
楓月は、
にやっと笑う。
「……ね、先生」
「なに……」
「これさ」
「“助けに行く話”でしょ?」




