海の上、死体が二つ
海の上、死体が二つ浮かんでいた。それらは波の動きに合わせてただ力なく漂っていた。
* * * * *
「ねぇ、またいつものところで水死体が発見された話聞いた?」
「えー、マジで? 最近多いよね。あそこの崖、自殺の名所になってるもんね」
「そうそう。自殺する人最近増えてるらしいよ。希望のない世の中になったもんだよね」
ガラガラに空いた一両編成の電車の車内、女子高生の会話がよく響いた。車窓を流れていく景色をぼんやりと眺めながら、何となくその会話に聞き耳を立てた。
「入水自殺ってことでしょ? 溺死って結構苦しいのかな?」
「溺死っていうよりも、ある程度の高さがあると岩肌にぶつかったときとか落ちたときの衝撃で死ぬらしいよ」
「えー、私そんな死に方は絶対やだなー」
そんな会話を耳にしながら、僕は自嘲気味に笑みをこぼしていた。彼女らが話している自殺の名所。そこで自殺をすると決めてここまでやって来たからだ。
僕には愛する女性がいた。でも、ある日突然、彼女は僕に別れてほしいと言った。彼女のいないこの世界に希望を見出すことなんてできるわけがない。だから、僕は死を選ぶ。単純な話だ。
想像してみる。崖から海へと身を投げる瞬間を。きっと幸福だと思う。こうすることでのみ、僕は彼女の存在を忘れ、この世のしがらみから解放されるのだ。
気がつくと大半の乗客が既に下車していて、電車の中には自分ともう一人の若い女性が乗っているだけであった。
再び車窓を流れる景色に目を移した。日は既に傾き、原風景ともいうべき青々とした里山は淡いオレンジ色に染まり始めていた。もう、だいぶ遠いところまで来たなと思った。車内に次の停車駅を知らせるアナウンスが流れた。目的の駅までは残りわずかのようだ。
降りた駅は無人駅で、駅の周辺には何もない。昔は近くに鉱山があり、第二次産業で多少なりとも栄えていたようだが、鉱山が閉鎖してからはゴーストタウンと化してしまったようだ。今はこの近辺に住んでいる人はほとんどいない。この町は死んでいるのだ。これから死ぬ僕にとっては非常に似つかわしい場所のように感じられた。
こんな何もない場所に降りる人なんて自分くらいだと思っていたが、先ほどの女性が、その細い腕には不相応に思われる大きめのキャリーケースを転がしながら電車を降りていた。観光する場所なんてあるはずもないこの場所に、旅行者のような格好で降り立った女性を少し不思議に思ったが、自分には関係のないことだとすぐに考えるのをやめた。
ここからしばらく行った先に、例の自殺の名所がある。僕は今日、そこで自分の人生を終わらせると決めている。駅のホームに飛び込めば簡単に死ねるこの時代に、死に場所を選ぶという行為は、どこか贅沢で、最後に残された自由のように感じられた。
歩く度に潮の香りが強くなるように感じた。海の方から吹いてくる潮風は体にまとわりつくような湿気を帯びていた。最近水死体が発見されたという話もあいまってどうも気味悪く感じられた。だんだんと死の濃度が濃くなっていくようだった。
しばらく歩いて辿り着いたその場所は陸の細い部分が海に突き出すように存在し、そこから海を見下ろすという形で景色を一望することができた。海面の上に岩肌が露出した典型的な海食崖で、波蝕が進んだいびつな形の岩々が海面から顔を覗かせていた。
夕陽が水平線に触れているのが見える。キラキラと光る広大な水面の上に輪郭のぼやけた夕陽が浮かんでいた。美しい光景だと思った。
自然の雄大さに触れて自分の悩みがちっぽけに思えて、自殺を止める人がいると聞いたことがある。だが、むしろそれらの神秘性は自分を受け入れてくれるだろうといった安心感めいたものを含んでいるように思われた。
ここは星が綺麗に見えそうだ。死ぬのは星空を見てからでも悪くないかもなと思った。
不意にキャリーケースを転がす音が聞こえてきた。後ろを振り返ると、さっき同じ駅で降りた女性が立っていた。女性はまだ若く、僕と同じくらいの年に見えた。こんな場所に人が来るとは思ってもいなかった。
「こんなところに何しに来たんですか?」
自分のその問いに対して、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべた。彼女もこの場所に自殺しに来たんだなと思った。言葉にしなくてもこれから死ぬ者同士、分かりあえるものがあるように感じた。
空はほのかに藍色に染まり始めていた。彼女は足を崖下に放りだす姿勢で崖の先端に腰かけていて、儚げな表情で沈み行く夕陽を眺めていた。死に装束のつもりなのか彼女は白いワンピースを着ていた。駅を降りたあとに着替えたようだ。
ふと、当時付き合っていた彼女とこうやって海を見にきたことを思い出した。まだあの頃は、彼女との間に確かな愛があったように思う。二人で語らいながら見た海の景色は格別だった。死ぬ間際にまで彼女の面影を引きずっている自分も情けなく思いながら、同時に僕の人生の一番大きい部分が彼女であることに充足感も覚えていた。
それにしても、自殺の名所でこれから死のうとしている初対面の男女が黙ったまま海を見つめている。端からみたら異様な光景だろう。気まずい沈黙に耐えられなくなった僕は彼女に話しかけていた。
「すごく綺麗な景色ですよね」
「············」
「この岩肌とかもすごいですよね。波の浸食でここまで岩の形が変わるなんて、自然の力ってすごいですよね」
「············」
彼女は黙ったままだった。当然か。これから死ぬというのに他人から話しかけられたくないよな。自分の浅はかさを反省した。
「人間も同じですよ」
彼女は不意にそう呟いた。
「悪意が何度も何度も波のように押し寄せることで人の心もぼろぼろに変形してしまうんですよ」
悲しそうな声でそんなことを呟く彼女は今にもふっと腰を浮かして、崖下に落ちていってしまそうな、そんな危うさがあった。
「何があったか教えてもらってもいいですか?」
僕は無意識のうちにそう聞いていた。しばらく間が空いた後に、彼女は自分の身の上について語り始めた。
「私には付き合っていた人がいたんですよ。とても束縛が激しい人でした。今どこで何してるか逐一メールで報告させてきましたし、彼の気に入らないことをするだけで殴られることもありました」
彼女の透き通るような声が夕刻の時間帯に溶けだしていく。
「彼は私を殴った次の日には人が変わったように優しくなっていました。『昨日はごめん。ついイライラしちゃっただけなんだよ。もう二度とやらないから。愛してる』っていった具合に。今、思えばとても飴と鞭の使い分けが上手い人でした。でも、私はそんな彼を愛していたんです。彼の言う『愛してる』が私の信仰そのものでした。なのに、彼は浮気していたんです。それについて私が問い詰めると、別れてくれと言い始めたんです。自分は束縛していたくせに都合が悪くなった瞬間、私を捨てたんです。だから······、私もう······、耐えられなくて······」
そう言う彼女からは、僕の元から去ってしまった彼女とどこか似たような雰囲気を感じられた。儚げな声も。話しているうちに言葉よりも感情が先行して会話に詰まってしまうところも彼女にそっくりだと思った。
彼女の目からはいつの間にか涙が溢れていた。不意に、涙を流す彼女のその顔が美しく思えた。これから死のうとしていた自分が言えることではないのは分かっているが、彼女には生きていて欲しいと思った。
空には一番星が浮かんでいた。
「ところで、あなたは自殺しに来た人なんですか?」
彼女はそう問いかけてきた。
「ええ、そうです。でも······」
言おうと思った。『一緒に生きてみませんか?』と。僕は彼女のことをもっと知りたいと思った。きっと一目惚れのようなものだ。彼女も僕もまだ若い。きっとまだいくらでもやり直せる。僕は奇跡を信じた。僕の中にぽっかりと空いた穴を彼女が塞ぎ、彼女の経験した痛みを自分なら癒やせるのではないかと。そう思った。先刻までの感情はどこかへと消えてしまっていた。彼女が僕に生きる希望を与えてくれたように感じた。
しかし、次の彼女の発言で、僕はその言葉を発する機会を永遠に失ってしまった。
「これから死ぬんでしたらあなたには教えてあげます。私、もう耐えられなくなって彼を殺してしまったんです。そのキャリーケースの中に彼の死体が入っているんです。自殺の名所に死体を捨てれば、自殺だと思って、誰も私が殺したなんて思わないじゃないですか」
翌日、この場所で二つの死体が浮かんでいるのが発見された。その死体は、どちらも男性のものと思われ———