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橋本ケンヂは飛ぶ  作者: 遠藤信彦
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1998年 6月 レース 

雨が降ってきた。


僕はバックパックの中に入れておいたカッパを取り出す。体温が下がらないようにしっかりとボタンを閉める。

『はぁ、はぁ、はぁ。』

息遣いが荒くなっている。どれだけ歩いても呼吸が整わない。


僕はレースを走っている。まだ10kmも走っていない。初めてのレースの高揚感で興奮して、最初を飛ばしすぎた。膝が前に出ない。股関節が軋み、脛の外側が痛くなってきた。僕は深く後悔していた。

6月は冬だ。そして雨季でもある。雨は雪には変わらないが、寒いことには変わりはない。雨は容赦なく体温を奪い、呼吸を難しくする。足を前に出す。山の中、シングルトラックの未舗装の道ではあるが、比較的踏み均されている道で、コースとして日常的に親しまれて使われているのだろう。走りやすい。いや、走りやすかった。

一旦立ち止まった。肩を回してほぐしたり、アキレス腱を伸ばしたりした。後続の邪魔にならないように、端によけてやる。みんな僕を追い抜く時に挨拶をしてくれる。大丈夫か?と、体調を気遣ってくれる人たちもいる。とても嬉しくて、和やかな気分になる。

幸い今日のレースは時間制限がたっぷりある。なぜなら、僕の出ている20kmのレースに加えて、40kmと60kmのレースも同時開催だからだ。スタート地点もゴール地点も同じなので、20kmに出ている選手はほぼ時間無制限に等しいくらいの余裕がある。

ジョンは60kmのレースに出ている。最初の1kmくらいは、アイツの後頭部を拝むことができたのだったが、今ではもう、とっくの昔に見えなくなっている。

"Make sure you finish before I cross the finish line, bro."

(俺がゴールするまでに、ちゃんとお前もレースを終わらせとけよ!)

スタート地点でジョンが僕に言った言葉。だんだん自信がなくなってきた。アイツは6時間から8時間かけて60kmを走り切ると言っていた。予想タイムが2時間も差があるのは、雨が降っていて天候が悪いからだ。だいぶ楽になってきたので、歩を進めた。


マラソンを人生に例える人が多い、登山に例える人も多い。今やっているトレイルランニングはその両方を一度に体験しているようなものだ。実際に自分がレースで出てみると、そんな例えをする奴は実際にはレースをしたことのないような奴なのだろうと本気で思う。実際に走っている人に、そんなくだらない例えが思いつくはずはないのだ。ランニングに自己陶酔しているナルシストならば、もしかしたらあり得るのかもしれないが、ランナーほど現実的で自己認識、自己観察が優れている人たちはいないだろう。そういう人たちはナルシストになれない。客観的でありすぎるからだ。

僕は10kmの看板に手を触れ、汚い言葉を吐きながら前を向いた。ちくしょう、まだ半分もある。愕然とした。バッグから栄養補給ジェルを取り出し、半分だけ飲み込む。とても甘いイチゴの味が口の中を覆う。すかさず水で口内を濯ぎながら飲み込む。まさか20km程度のレースでハンガーノックもないだろうが、気休めにはなるし、何より疲れた体に効いた。



足を前に進める。客観的に、俯瞰でものを考えながら足を進める。この岩は90度の角度に膝を曲げてから、体重を乗せよう。この階段はなるべく小股にして、歩幅を狭くしながら降りよう、緩い傾斜の登りは踵を地面に押さえつけるようにして登ろう、などだ。

考えよう。考えながら一歩を進めようと、自分に問いかける。そのようにして一歩、また一歩と前進していると、自分のこの1年間のワーホリについて思い出していた。


ドキドキしながら搭乗した初めての飛行機、空港では乗り継ぎに緊張した。地図を買って街を練り歩いた。毎日辞書と睨めっこし、勉強し、仕事場で腕試しをした。ジムで体を鍛えた。僕は21歳になった。海外に出て、もう1年だ。僕は成長しただろうか?成長できただろうか?


最初は負けたくなかったんだ。進学や就職した同級生たちに対して引け目を感じたくなかったんだ。だから目に見えるような努力をした。これ見よがしに自分の努力をひけらかした。どうだ?俺はやっているぞ!と自慢しているように見えた。

でも今は違う。自分の自己成長にしか興味が湧かないのは以前と同じだが、今は純粋に自分のために努力している。他人とは比べない。比べる必要がないと分かったんだ。自分に集中する。自分の幸せに集中する。自分の好きなものに集中するんだ。


ゴールまであと1kmの看板に触れた。いつしか体の痛みも消えていた。僕は夢中になって歩を進めていた。小枝を踏む音が聞こえる。自分の息遣いが聞こえる。雨は強く体に打ちつけているが、気にならなかった。あと100mだ。あと50mだ。言いようのない感動が腹の底から湧きあがる。















ご拝読ありがとうございます

この小説も佳境に入ってきました

小説の終わらせ方をご指導してくれる読者様はいらっしゃいませんか?

作者

遠藤信彦

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