1997年 7月 旅立ち前
誕生日から半年が過ぎて
新幹線がゆっくりと停車位置に着いた。プシューという音と共に扉が開き、冷房の効いた車内に一気に温かい空気が流れ込む。僕はその温かい空気の中に飛び込み、辺りを見回す。久しぶりの新大阪駅だ。ついこの間まで住んでいた大阪であるが、懐かしいという気持ちになった。それだけ大阪を離れている間は自分に集中するように心がけていた。見慣れた風景が僕をワクワクさせた。
在来線に乗り換え、リカさんの住むマンションの最寄りの駅まで行く。彼女は今日は働いている。リカさんはなるべく長く、有効に有給を使えるようにと、今日の迎えには来ていない。見慣れた駅で降り、見慣れた道を進む。
見慣れた公園でベンチに座り、缶コーヒーを飲む。何度もこの公園を散歩した。何度もこのベンチで語り合った。彼女の小さな頭がうまく収まるように、僕はベンチに浅く腰掛け、後ろの背もたれに体を預ける。少しだけ、まだ僕の目線の方が高いかな?彼女がにっこり笑って頬を僕の肩に当てる。まだ高いの?と聞く。ううん、と彼女は首を振る。何度も繰り返した風景を思い出す。
来年の今日あたり、僕は帰国してこの公園をまた訪れるだろう。いや、訪れたい。僕にとってはどんな遊園地よりも、大きなデパートに行くよりも、とても楽しいだろう。僕は夢想する。僕はこの公園で、僕のワーホリについてリカさんに饒舌に語るだろう。こんな事があったんだよ。こんな目にあってさ。僕は両腕を大きく使い、身振り手振りで説明する。リカさんは黙って聞いてくれるだろう。それで、それで?と、次を促すかもしれない。
公園のベンチに座り、目を瞑っている。僕はもうすぐ旅立つ。数日後には海外だ。そう思うと、いつもみていた風景が違って見えた。帰国した後は更にもっと違って見えるのだろうか?
『ただいま、ごめんね、待った?』
リカさんを玄関で迎えた瞬間に抱き寄せ、唇を寄せる。両腕で抱きかかえ、ベッドまで運ぶ。唇はつけたままだ。
『待ちました。』
『ごめんね。』
長い時間をかけて彼女を確認する。こんなにも素敵な人に半年も会っていないなんて。
『お腹減った?』
彼女が聞く。僕は首を振る。
『食事をする時間がもったいないかも。ずっと会いたかった。』
『やっと会えたね。』
僕は頷く時間も待てない。耳にキスをする。
『私は10時間労働を終わり、心身ともに疲労しかつ、空腹に耐えかねぬ精神状態であることをここに表明します。』
リカさんが真剣な目で僕に訴えた。二人でしばらく見つめあったあと、笑い合った。僕はあと5分だけキスをする時間を貰い、食事に出かける準備をした。
『お腹ぺこぺこ、わたしコロッケがいい、キャベツの千切りが鬼のように盛ってあるやつがいい。それじゃなきゃ食べてあげない。』
明日からの有給を取るために、どれだけ頑張ってきたか分かるか?少年!と、リカさんが食堂のテーブルで腕組みをしながら僕を睨みつけている。全部で5日間、一緒にいられるのはリカさんが頑張ってくれたからだ。
『他に食べたいものはないですか?』
感謝していますとリカさんに伝える。組んでいた腕を解き、手を繋いでぎゅっと握る。
『実はカニクリームコロッケも欲しい、おまえが頼んで1個よこせ。』
『もちろんです、姫様。ところで、普通のコロッケと1個ずつ交換ということでよろしいですかな?』
リカさんが物凄い形相で睨みつけてくる。ダメだ、手加減を知らないから全部取られてしまうかも。僕は熟考の末、カレーにカニクリームコロッケ単品を頼んだ。変な組み合わせになったが、姫が喜ぶならしょうがない。
料理が同時に来て、いただきますをして食べ始めた。リカさんとたまにくるお店。おしゃれではないが、どのお料理も美味しい。安心してホッとする味だ。本当に美味しい味っていうのは、食べて3日後にふと、また食べたくなる味のことをいうのよと、リカさんに以前教えてもらった。リカさんの作る料理もそれを目指しているという。
『とても美味しいです。いつ来ても美味しい。』
『そうでしょう?ここのお店の人たちは本当にプロだと思う。いつ来ても幸せになれる。素晴らしいお店。』
リカさんの言葉を聞いて、僕まで幸せになれるような気がした。
『リカさんは優しいですね。お店の人たちも喜んでいますよ、きっと。リカさんと気取ったお店に行くのも楽しいけれど、こういったお店に来るのもとっても楽しいです。』
リカさんはうん、うんと頷いてくれる。リカさんは予定通り自分のコロッケとカニクリームコロッケを全部平らげて、ご満悦な顔をした。僕は一口ずつコロッケとカニクリームコロッケを頂けたので、今日はマシな方だった。
食事の後に公園の散歩をリクエストされたが、一刻も早く君が欲しいと言うと、リカさんは顔を赤くして頷いてくれた。
『アイス買って?』
『もちろん。』
僕には焼きプリンを買って家路を急いだ。
何度目かの彼女の痙攣を確認してから、僕は彼女の胸の上で眠りに入った。彼女は母のように僕を抱きしめ、労わるように撫でた。
朝起きて、まず二人がやったことは大掃除だった。二人でやる大掃除が大好きだった。何もない部屋と呼ばれるリカさんの部屋、もともと綺麗なのだが、それ以上に綺麗にしようと、壁や天井まで雑巾掛けをする。窓も綺麗に磨いて、もちろん窓サッシのレールも綿棒などを使ってピカピカにする。テーブルや椅子も磨き上げる。
『ケンヂが帰ってきたら一緒に住みたい。』
リカさんが台所のタイルの目地を綺麗にしながら呟く。
『この部屋がいいですね。』
もちろんと僕は返す。彼女はにっこりと笑って絶対よ?約束してねと小指を僕に向ける。ゆびきりげんまんした後に、大阪が好き?と聞いてきた。
『リカさんが望むところに住みましょう。ここでもいいし、違うところでもいい。』
僕はこだわらないから、僕の実家でもいいですよと聞く。彼女は耳を赤くして頷いた。
『ワーホリが終わったら働かないと、、、僕は何になるんだろう?20才にもなって何も得てないや。』
雑巾を持った手を止めて僕は窓の外の景色を見る。リカさんが後ろから抱きついてきて僕の左の耳を齧る。
『働かざる者食うべからず。ガリガリになってみる?それともヒモになる?』
僕は正対に向き直し抱きしめる。
『母ぁ天下、決定ですね。』
『今既にね。』
彼女がベーと下を出して揶揄ってきたので、その舌を吸った。
僕は出国までの5日間、日常を求めた。旅行に行ったり、なにか特別なことをしたりは求めなかった。朝起きて散歩したり、一緒にご飯を作ったり、映画を見たりなどだ。リカさんとの生活を、目にみえる当たり前の日常を求めた。リカさんも同意してくれて、楽しみだと言ってくれた。
掃除が終わった後にお昼ご飯を軽く済ませ、夜ご飯にピザを作ろうとリカさんが提案してくれた。大好物なのでもちろんと返事をした。小麦粉にオリーブオイル、塩、砂糖、はちみつ、イーストを混ぜ、水を足しながら混ぜ捏ねていく。寝かせて発酵してきたら小分けにし、更に発酵させる。リカさんと僕は生地が膨らんでいる間にソースを作り、トッピングを買いにスーパーに買い出しに行った。
僕が左手に買い物かごを持ち、右手は彼女の手を繋ぐ。リカさんが具材を選んでいく。野菜の良し悪しを見極めるプロを自称するリカさん、同じようなマッシュルームでも違いがあるらしい。その真剣な眼差しがとても愛おしい。
手を繋いでいたり、腕を組んでいない時は兄弟に見られる。リカさんは5歳年上だ。僕が一年後に帰国したら、彼女は26歳だ。彼女は掃除をしながら一緒に住もうと言ってくれた。リカさんの結婚観は聞いたことがないが、どう思っているんだろう。左耳に付けている3連のダイヤのピアスを見ながら考えている。
『どうしたの?』
一緒に選んでよ、トマトはどれがいい?と、僕に聞く。
『ずっと一緒にいたいね。』
思わず口から出た。
『本日3回目のプロポーズですな。』
ウッシッシ、とおっさん風にリカさんが笑う。僕はトマトを一つ選び、カゴに入れる。
『ずっと一緒にいられる方法を話し合おうね。』
そう、言い直した。彼女が振り向いてウンと頷く。ピザ生地を捏ねながら話し合おうね、とニッコリする。
早く買い物を終わらそうと急かす。まだ生地の2次発酵が終わってない頃よ、とスカされる。
『どうして僕と付き合ってくれるの?』
『あなたが好きだからよ。』
『年も下だし、就職さえもしてないよ。』
『年齢なんか関係ないし、就職なんてこれからすればいいのよ。』
『今の僕を選ぶ理由がないね。』
『そうね、見つからないわね。』
『じゃぁ、どうして?』
『知りたいの?』
『そう。』
『当ててみて。』
『将来性。』
『ノー。』
『顔。』
『ノー。』
『実家の財産。』
『ウチ、めっちゃ金持ち。』
『う〜ん、あんまり嘘をつかないところ。』
『そうね、ちょっとしか嘘つかないもんね。』
『そう、僕はちょっとだけしか嘘をつかない。リカさん、愛してる。』
『嘘なの?』
『さぁ、どっちでしょう?』
『嘘じゃなければいいなぁ。』
『どうやったら証明できるだろう?』
『掃除もできて、料理もできる、絶世の美女が他の男に取られちゃうかもよ?証明して見せたら?』
『じゃぁ、僕のズボンのポケットに手を入れてみて。』
『エッチ、何させるのよ!』
『生地を伸ばしている最中だから、僕は無理なの!早く入れてみて。』
『待って、手を洗うから。こっち?』
『反対。』
『これか?何?』
『あげる。』
そこにはケースに入った指輪があった。
『高価なものではないけれど、僕にできる精一杯の感謝の気持ちを込めています。貰ってください。』
いつもご拝読ありがとうございます
この小説も佳境に入ってきました
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作者
遠藤信彦




