1998年 5月 走る
姿勢を正し、10m先を見る。呼吸に集中し、歩幅と重心に気を配る。決して急がない。なるべく小さく、小さく足を出し、ステップの数を増やすように、足の回転率でスピードの調整をする。トレイルランニング用のラグの深いシューズが小枝を踏む。パキッと乾いた音がする。短い秋の山の中で僕はランニングに集中している。太陽の日は覆い茂った木々の葉の隙間から注ぎ、針の光のようにも見える。自分が思っている以上に汗をかいていた。背中に背負ったランニング用のバッグから水を取り出し飲む。大事なことはやり遂げること。スピードは問題ではない。歩いてもいい。とにかく前へ、前へと歩を進めるのだ。
ジョンが僕の前を走る。僕のレベルに合わせてゆっくりと走ってくれる。僕はトレイルランニングにハマっていた。ジムで知り合ったジョンの影響だ。
”Don't be hurry mate! Keep your mind as cool as possible. concentrating on your breath."
(急ぐなよ、冷静になれ、呼吸に集中しろ。)
トレイルランニングは僕の好みに合っていた。キツければ歩いてもいいというのが気に入った。レースになると、上りは全部歩くという人も少なくないそうだ。あくまでも競争相手は自分自身。完走が目的であって、走るスピードが速かろうが、遅かろうが、プロでない限り誰も気にしないと言うことだ。
僕は走るのが好きになっていた。小学生の時にマラソン大会でビリを記録したほど、走るのには苦手意識があった。しかしジョンと走っていると、楽しくて仕方がなかった。彼は楽しむという所に重点を置いていた。技術的なアドバイスもたくさんしてくれたが、基本的には僕が求めた時にだけアドバイスをしてくれ、あとは何も言わなかった。僕みたいなレベルの低い人と一緒に走って楽しいの?と聞いたことがある。彼の答えは”勿論”だった。早く走る練習、遅く走る練習、どちらも重要だそうだ。それに人に教えるということは、自分自身にも得るものが多いと言っていた。人に教えるということは、技術の再確認になると言った。
"Hey, let's join the race next month! If you can split the fee for petrol, I'll take you there."
(来月の大会に出ような?ガス代を半分出してくれたら連れてってやるよ)
ジョンにしつこく誘われた。車で1時間ほどにある街が主催するレースに出ようというのだ。ジョンは僕が7月の頭に帰国するのを知っているので、6月にデカい花火を打ち上げようというのだ。
”Which distance race are you entering?"
(何キロのレースに出るんだよ?)
”For me,60km. But for you only 20km."
(俺は60kmで出るけど、お前は20kmでいいよ。)
”What the heck! 60km!. I bet you just want me to drive after race eh?"
(60km!アホか! 帰りの運転をさせたいだけだろう?)
ジョンは笑いながら絶対に行くぞ、完走しようなと言ってくれた。
その日から僕は通勤を走ることにした。ジムに行く回数を少し減らし、ランニングクラブでさらに走った。仕事場のみんなには更に運動バカに拍車がかかったと笑われたが、ワーホリの最後を飾るのに、レースを走るのはとても良い思い出になると思ったので、練習にも熱が入った。ジョンにもアドバイスされたが、僕のレベルでは同じペースを守ることに専念する事が大事だそうだ。そのための練習をする。決して急がない代わりにペースも落とさない。毎日の出勤、同じ時間に出発し、目標物をいくつか決め、同じ時間に通過する。腕時計をこまめにチェックし、自分の内側と対話する。ペースは?水分補給は?大丈夫か?などだ。毎日ジムに行くのも楽しかったが、走るのも楽しかった。朝に走ると、不思議と夜の勉強が捗った。やってみないと分からないとはこの事だった。
僕は今まで以上の充実した生活を手に入れた。もうすぐ僕のワーホリは終わる。なんだかとても不思議な気分だった。
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作者
遠藤信彦




