仮題 空港 別れ ナオミ
空港から帰るバスの中、漠然と外を見ている。夜中の12時で辺りは真っ暗だ。国際空港から街をつなぐバスは最新式でとても静かだ。車内は暑がりのヨーロッパ人のために冷房が効きすぎていて肌寒い。用意しておいた薄手のパーカをかぶる。襟元を顎までたくし上げ、首周りを防寒する。心の中は何も考えられない、空っぽの状態だった。ついさっきまでナオミさんが隣にいたのに。
旅行から帰ってから、ナオミさんは終始笑顔だった。1年ぶりの日本が楽しみなようで嬉しそうだった。もうハゲのことや、ビザのことは引きずっていないのかもしれない。そうあって欲しかった。良い人もいれば悪い人もいる。もちろん日本人も例外ではない。ナオミさんは運が悪く、悪い日本人に当たってしまったのだ。でもナオミさんは自分の気持ちの強さで、その苦しみから立ち直った。間接的にではあるが、ハゲから慰謝料を奪い取ることにも成功した。そのお金で旅行にも行けた。次のワーホリに行く決心もできた。
『私の未来には輝きしかないの。』
ナオミさんらしくとてもかっこいい言葉だ。
部屋の掃除や冷蔵庫のクリーニングなどを手伝った。ナオミさんの部屋は次の入居者が決まっているので、窓の掃除やシーツの洗濯などとても忙しい。ナオミさんは机の引き出しから出てくる色々な書類や写真を見つけては懐かしがった。僕は写真に釘付けになっているナオミさんを横目で見ながらベッドの足や、押し入れの中などを雑巾で水拭きをした。ときおり目が合い笑顔をくれる。唇を重ねる。
『ごめんね、手伝って’もらって。』
私がやらなきゃなのにね、と謝った。謝る必要はない、掃除は僕がやるから思い出に浸っていてとお願いした。笑顔のナオミさんが素敵だからと理由を言った。ナオミさんが押し倒してきた。
『時間がないよ、郵便局で荷物を送らないと。』
僕はイタズラをやめない子供に対するように嗜めるようにいった。
『お金を渡すから後日出しといてね。』
そう言ってナオミさんは僕に舌を出すように命じた。自分の舌を合わせ、這わせながら形を確認する。両手が服の中に入っている。
『ねぇ、私のどこが好き?』
ナオミさんは同じ質問を何度もする。僕は毎回違う答えを用意する。
『目玉焼きに塩胡椒を振る時、黄身にはかからないように細心の注意を払うところ。』
ナオミさんは満足げな笑顔をし、よく見てるのね、ありがとうと言った。
『私のどこが嫌い?』
意地悪な質問をしてきた。
『日本に帰っちゃうところ。』
うんうんと頷き、他には?と聞く。
『早く欲しいのに焦らされている。』
僕の上においでと彼女を誘う。
『君はこれから色々な人と恋に落ちるだろう。』
出国審査に入る前のカフェで最後の時間を過ごしている。このカフェで本当に最後だ。ナオミさんが僕の隣に座り、手を握ってくれている。
『そして君は私のことを忘れるかもしれない。』
泣きそうになっているのが分かる。
『結婚して子供を持ち、腹は出て、髪が薄くなるかもしれない。』
僕は静かにうんと頷く。
『そして君は私のことを忘れるかもしれない。』
彼女の涙が僕たちの握っている手の上に落ちた。
『君はおじいちゃんになり、私のことを思い出さないかもしれない。』
彼女は声を出して泣き始めた。
『そんなのは嫌だ。』
くしゃくしゃになった顔で僕を見つめる。僕は忘れないと約束をした。
『絶対に忘れない。』
約束した手紙を出しますねと言った。
彼女はさらに泣きじゃくって落ち着くまでに時間がかかった。
『嘘よ、バカね、忘れなさい。』
ナオミさんは背筋を伸ばして前を向いた。
『忘れたの?、関空に着いたら全部忘れるって。全部忘れて前に進むの。女の子は強いんだからね。』
僕は頷いた。知っていますと答えた。
『私はね、忘れるのよ。でもあなたはね、忘れちゃダメなの。』
ナオミさんはニコッとした。
『いい、私が関空に着くまでは私たちは恋人同士って約束、この約束は忘れないでね。』
長い抱擁とキスの後、彼女は機上の人となった。
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作者
遠藤信彦




