1996年 8月 帰郷①
バイクに鍵を入れる。少しだけ押し込みながら右に回す。鍵は12時の方向に向き、同時にスピードメーター内にある緑色のランプが光る。緑色のランプはギアがニュートラルに入っている知らせだ。左手の人差し指でデコンプレバーを握る。右足で引き出したキックアームに靴裏の土踏まずを合わせ、軽く下に向けて蹴り下げる。慎重にコン、コンと少しずつキックアームを蹴り下げる。エンジン内にあるピストンを上死点に合わせるためだ。ピストン位置を感覚で確認するとデコンプレバーを離し、右手でブレーキレバーを握る。そして素早くキックアームを下方向に踏み込む。エンジンが勢いよく周り、トットットットットと乾いた連続音がマフラーから奏でられる。十分に暖気させたのち、バイクは勢いよく地面を蹴り出す。
僕とリカさんが会う日はバイクに乗らない日が多くなっていた。2人が会う日はお喋りがメインで、食事をしたり、あとは公園を散歩していた。2人が知り合ったきっかけはバイクだったのにだ。
『たまには目的地も決めずにバイクで遠出がしたい。海が見える絶景で思いっきり叫んで青春を謳歌したい。』
2人で公園で長い散歩をしている途中、突然リカさんは南の方角を指差して言った。実際には僕は極度の方向音痴なので、方角が南だとは気づかなかったのだけれど。リカさんは絶対に行く、次の休みに連れて行けと僕に言う。
『お盆休みに入るんじゃないですか?いいんですか?僕に時間を使って婚期が遅れますよ?』
『シャラップ!もう英語教えてあげない!』
『ごめんなさい、絶対に行きます。連れて行きます。ソフトクリーム奢ります。』
と僕は宥めた。リカさんはゴールデンウィークの時もそうだったが、関東には帰らない。もう帰らないと決めているのだろうか?
『じゃぁ、そのツーリングの後で実家に3日くらい帰ります。』
『帰っちゃうの?そうか、両親を安心させたいのね?良いことじゃない。べつにツーリング中止でも良いのよ?その分両親との時間が増えるでしょ?』
散歩をするときのリカさんは靴底の薄いスニーカーを履くので、バイクブーツの時やヒールを履いている時よりも小さく可愛くなる。自然と下から覗き込むように見上げられるからだ。リカさんと2人きりでツーリングに行きたいですと正直に言う。今のこの時期、他のツーリング仲間(主にリカさんの)はもう予定が入っているだろうし、と付け加える。
『絶対に何もしない?』
リカさんがモジモジしながら尋ねる。
「シャラップ!!今までだって僕からは何もしていない。』
とたまには強めに返してみた。
彼女は口をタコに尖らせ、ブーと短く吐き捨てた。
『では南に行こう、目的地なぞ決めずにその場、その場で決めていこう。そしてご当地グルメを食べよう。』
『とても楽しみです。』
散歩を楽しみながら2人は小旅行の予定を立てた。何時に出発で、どこどこは抑えて、海で海鮮丼を食べるとか、ラーメンの方が有名だろうとか、話しているだけでとても楽しかった。
「心配なのは頑張って南下したところが何もない場所だと少しつまらない。」
「久しぶりのロングツーリングですから、それだけでも楽しみです。何もなければ海でも見て帰りましょう。僕は暑さの方が心配ですね。」
真夏の8月、お盆の時期のツーリングは半端ない暑さが予想された。
早朝5時にリカさんのマンションの近くに着いた。コーヒーを飲みながら待っていると、リカさんがバイクで現れた。いつもとは違う音がする。マフラーが新しいものに変わっていた。これを見せたかったんだな?と聞くと、満更でもない顔でふふんと鼻を鳴らした。そのヨシムラと書かれたマフラーはカーボンがふんだんに使われていて、10万円くらいするものだった。
少しうるさくなったリカさんのバイクを先頭に和歌山に向かった。もちろん目的地は決めていない。国道26号線を南に南下する。途中どこにも寄らずに、とりあえず和歌山県内に入る。
3時間ほど南下して、最終目的地を決め、お昼ご飯を食べてゆっくりしてから帰阪する予定だ。僕が明日帰郷するので、リカさんが無理のないプランを立ててくれたのだ。
和歌山市に入り、ここから42号線を使う。海沿いの眺めの良い道だ。時間的には有田市が最終目的地になるだろう。
「約束の3時間が経ったわね、この辺で食事をとって、どこかでゆっくりしてから帰ろう。』
時刻は11時を少し過ぎたあたりだったが、気温はすでに30度に近く、バイクの運転には適さない。我々は長袖のバイクジャケットを着ていたので、直射日光からは守られているが、蒸し暑さはどうしようもなかった。3時間走って、休憩してから帰る。リカさんが立てたプランは正解だった。これ以上走るのは体に良くない。
海沿いのレストランで海鮮丼を食べ、約束通りソフトクリームを奢った。リカさんは僕がソフトクリームを奢ると言ったことを覚えていたからだ。頭の良い人は始末が悪い。
『大阪から出ようとしているでしょう?』
圧倒的な速さでソフトクリームの半分を食べ、コーンの部分を逆さまから食べながらリカさんは唐突に言った。僕はびっくりした。まだ彼女には伝えていなかったが、大阪を離れようと前々から考えていたのは事実だった。もちろん海外に出るために、お金を貯めるために大阪に来ているのだ。時期がくれば離れるのは必然だ。僕は返事ができないでいた。
『あなたがいないととても寂しい。』
リカさんはそう言ってくれた。僕も寂しいです、と答えた。
『この話は今日は止めにしましょう。すぐにいなくなるわけじゃないんでしょう?』
『もちろんです。直ぐにじゃない。お盆休みが終わったら、また時間をください。リカさんとたくさんお話しがしたいです。』
『いつものように?』
『いつものように。』
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作者
遠藤信彦




