ナオミの場合②
ナオミさんが泣いている。
背が高く、スタイルも良くて、いつもクールな雰囲気のナオミさんが、顔をくしゃくしゃにして泣いている。さっき膝から崩れ落ちるようにしゃがみ込んだ。両手で顔を覆い、その手も床に着きそうだ。僕にはどうすることもできない。さっきまで彼女を抱きしめていたこの手だったが、今は触れない方が良いと思う。そうでなくても(ハゲのせいで)男性に対して、男性の女性に対する性的な欲求のせいで、彼女は不快な思いをしているのだから。
『ビザがあと2週間しかないんですね。』
彼女は小さくコクンと頷いた。顔は覆ったままだ。今のナオミさんに冷静な判断などできるはずはないのだから、僕が考えないと。
しばらくして彼女は顔を起こした。泣き止んでいる。少し落ち着いたみたいだ。
『大家に対する退去願いはTwo Weeks Notice(2週間前通知)でしたよね?』
『そう』
彼女は短く答える。微かに首を横に振る。目の焦点は合っていない。帰国が嫌なのだろう。心が痛い。でも不法滞在などの最悪の事態は避けなければならない。
『銀行の解約は1日でできる。』
僕は考える。彼女は首を横に振る。
『まさかハゲの店に戻ったりしないですよね?お給料とか、アンニューアルリーブ(有給休暇)も取り損ねるってことはないですよね。』
僕は心配になって聞いた。お給料を出さない日本人ビジネスオーナーもたまにいるからだ。
『それはないと思う。ハゲの奥さんが経理の仕事をやってはるんや。週に2日、店に顔を出すんやけど、昨日がその日で、全額貰えるように頼んどいた。木曜日に銀行のチェックで貰えると思う。その日にはお店に行かんとあかん。』
彼女の眉間に皺がよる。もう戻りたくないのだろう。でもお金を取りこぼすことは、ハゲを喜ばすことになる。それは避けたい。
『仕返しがしたいですね。ハゲがこの国にいることで、どんどん日本人が不幸になっていくと思う。次の被害者が出る前になんとかならないですかね?』
ナオミさんが小さなため息をつく。項垂れながら立ち上がり、ベッドの上に座り直す。
『あの人がたくさんの人を雇用し、莫大な税金を納め、この町の人に質の良いサービスをしているのは事実やわ。私が裁判を起こしたところで、勝てるかしら?』
『ハゲの奥さんに全て話すのはどうでしょう?』
少しくらい効果があるかもしれない。家庭崩壊ぐらいさせてやりたい。
『だめよ。あかんわそれ。もうとっくに2人は別居中。子供がいるから別れていないだけ。奥さんにもボーイフレンドがいるわ。奥さんとしてはハゲをお財布として元気に経済活動を続けさせないとダメなわけ。私思うんだけど、奥さんはハゲとユウコやミサが関係を持っているのを知っている。』
『この旦那にしてこの奥さん有りというわけですね。』
僕は考え込んだ。相手の方が一枚も二枚も上手だ。たぶん慣れているんだろう。悪いことに対して躊躇がなくできる人だ。
木曜日になった。ナオミさんが銀行のチェックをお店に取りに行く日だ。ナオミさんには1人で行かないように頼んだ。僕は仕事が終わり次第急いで合流するから、お店の夜営業の開店準備時間を狙って行きましょうと頼んだ。ナオミさんは素直に合意してくれた。たぶん1人で行くのは嫌なんだろう。僕がついていってもどうすることもできないが、乱闘騒ぎになったりしたら、少しはお役に立てるかもしれない。
2人でお店に入った。従業員は開店前準備で忙しそうだ。奥さんが僕たちを仕切りのあるテーブルに通してくれた。僕という付き添いがいるのが、気に食わないのが態度で見てとれた。
『日本から来ている弟です。』
と、嘘をついた。自分でも信じられないくらいスムーズに出た嘘だった。奥さんは僕を下から値踏みするように見回したが、僕のデカい図体を見て、ナオミさんの身内だと信じるのに時間は掛からなかった。ナオミさんはというと、僕が弟だと嘘をついた瞬間は少しだけ歪んだ横顔を見せたが、すぐに平静を取り繕った。
お給料と最後の明細を持ってくるわと奥さんが事務所に消えた。ナオミさんが笑った。
『よろしくね、弟くん。』
『こちらこそ姉さん。僕がいないと暴力事件を起こすかもしれないでしょ?』
『確かに、ねぇ、見た?ケンヂくんを見た時の奥さんの嫌そうな顔。』
『相当嫌そうでしたね。ハゲが方々で問題を起こしているので、問題処理には慣れてそうでしたけどね。複数で来られると嫌なんじゃないですか?』
『確かに、問題の処理には慣れてそうね。でも良かった、あなたがデカくてハッタリが効いているのね。』
『背の高いナオミさんの弟役にはピッタリで光栄です。』
彼女はクスッと両肩を上げて笑った。
『殴り合いになったら、ケンヂは手を出さないでね。あなたの問題ではないから。第一悪いのはハゲであって、奥さんではないし。』
ナオミさんから殴り合いの言葉が出てきたのはびっくりしたが、今日のナオミさんは黒のピッタリとしたTシャツにジーンズ、黒のスニーカー、ピアスは無し。髪は後ろで纏めていた。戦闘服といえば、そうとも見える。彼女にとって覚悟が入った服装だったのだろう。奥さんがチェックを持って現れた。
『主人が日本人会の会合で留守にしているので、最後のお別れが言えないと寂しそうでした。』
奥さんは神妙な顔を作ってそう言ったが、きっと嘘だろう。ハゲがナオミさんに会いたくなくて、出勤を見合わせたのだろうと想像できた。見え見えの嘘に腹が立ち、ナオミさんが小切手を受け取る瞬間に
『姉は先月堕胎しました。』
と嘘が出た。僕がこの国に来た理由ですと続けた。奥さんの手が止まった。力が抜けたように椅子に座り込んだ。テーブルに丁寧に配置された箸置きや醤油差しを眺めていた。決して僕やナオミさんの顔を見ないようにと努めているみたいだった。震える声で奥さんは話し始めた。
『私自身あの人の子供を2回堕しているの。あの人には内緒でね。あの人はお金を作るビジネスの才能はあったけれど、普通の家庭を作る、営む能力は欠如しているのよ。新婚当初から浮気は当たり前でね。』
彼女の視線はまだテーブルに注がれている。
『気に入らないことがあれば殴ってくる。最初の子供ができた時、男の子だったので恐ろしくなった。あの人に似たらどうしようと。もちろん自分の子供だから愛しているけれど、2人目を妊娠した時にはもう覚悟があった。すぐに堕胎した。3人目も。』
奥さんの声は冷めきっていた。声を触れることができるならば、その声で僕の指先が凍るかもしれない。感情のかけらも感じられない声だった。
『そしてあなたで3人目よ。』
3人目を堕胎したのがナオミさんなのかと思っていると
『あの人の子供を堕したワーホリは、私が知る限りあなたが3人目。』
奥さんの目には精気が宿っていなかった。死んだ目だった。
奥さんがもう一枚銀行チェックを切った。大きな金額がそこには書いてあった。迷惑をかけたと頭を下げられた。あの人とはもう一緒に住んではいない。自分の子供はボーイフレンドの方に懐いている。あの人に対して愛情はないが、あの人は大事な金のなる木だからこのことは公言しないでほしいと言われた。ナオミさんは承知したと伝えた。もう関わらないと。2人で店を出た。従業員は忙しそうだった。奥さんは立ち上がることができずに椅子に座りっぱなしだった。もちろん見送りも無しだ。
2人で歩いて帰った。バスに乗る気が起きなかったからだ。ナオミさんは何も喋らなかった。大きなまとまった金額を得たはずだったが、顔に喜びは見えなかった。もしかしたら換金をしないのかもしれない。
いろいろな人生があるなと思った。僕のこれからの人生はどうなるんだろう。時刻は夜だったが白夜のせいで空は明るく、2人並んで歩く影は細長く、色濃かった。
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遠藤信彦




