ナオミの場合①
12月も20日を過ぎると忙しさのピークを超える。人々は我先にと休暇をとり、街を出る。おかげでどこに行っても閑散としている。個人商店はそうそうとシャッターを閉め、3週間休みますとシャッターに張り紙を貼っている。日本の年末年始の喧騒とは比べ物にならない。あまりの盛り上がりの無さに拍子抜けしてしまう。
ケンヂの働いている寿司屋はショッピングセンターの中にあるので、どんなに暇だろうが、オープンしなければならない。寿司セクションのスタッフも、魚屋のスタッフも手持ち無沙汰ですることがない。オーナーのケビンも仕方がないなとため息をつく。12月に入ってからずっと忙しく、毎日悲鳴をあげていたのが信じられない。あまりにも暇なので自分から仕事をあがった。ケビンにも悪いな、埋め合わせはするからなと感謝された。時給で働いているので早上がりは直接的な収入減であるが、致し方ない。最近運動のしすぎと、立ち仕事のせいで腰痛ぎみなので、プールに併設されているジャグジーとサウナに寄ってから帰宅した。
帰宅すると久しぶりにナオミさんに会った。彼女はリビングでコーヒーを飲んでいた。同じ家に住んでいるのに全く顔を合わせない。なぜなら僕は朝早くからの仕事で、ナオミさんは夜遅くまで働いている。
『おひさしぶりです。元気ですか?』
ナオミさんは小さく、ええ、うん、とだけ返事をして、視線をテレビに移した。元気がないみたいだ。そっとしておいた方がよさそうだ。スーパーで買ってきたチョコレート菓子を差し出し、良かったら食べてくださいと渡して、自分の部屋に入った。
よくよく考えてみると、ナオミさんとは5ヶ月も一緒に住んでいる。めったに顔を合わせないので、短く感じる。以前はショートカットだったナオミさんの髪は今では肩に届きそうなほど伸びていた。時間は確実に過ぎているんだなと思った。ベッドに転がり、残りのワーホリをどうしようかと考えていると、ドアがノックされた。またインドネシア人のサニーが飯を作れとねだってくるのかと訝ってドアを開けたら、そこにいたのはナオミさんだった。
ナオミさんは泣いていた。僕はどうしたら良いのかわからなくて、とりあえずリビングに行きましょうと誘った。リビングはサニーが食事を始めたから嫌だと言った。仕方がないのでナオミさんを部屋に通した。僕の部屋はとても狭く、大人が2人入ると途端に狭苦しくなってしまう。急いでカーテンと窓を開けて換気した。ナオミさんは涙を流しながら思い詰めた表情で沈黙している。
僕は何も言わず待った。彼女の気持ちが治るまで待った。泣いているナオミさんを見てリカさんのことを思い出した。リカさんも慟哭と言っていいほど激しく泣いた。リカさんは僕に心を開こうとして思い出したくない過去を語ってくれた。自分自身の心と闘ってくれたのだ。あのときの僕はリカさんを抱きしめた。抱きしめずにはいられなかった。強く、そして長く、一晩中、2人ともそのまま眠りにつくまで抱きしめた。でもそれは2人の関係性があったからだ。僕は今、ナオミさんに対してどうすれば良いのだろう?僕はナオミさんのことをあまり知らない。僕はナオミさんを注意深く見つめることしかできなかった。
『優しくないねんな、抱きしめるくらいできひんの?』
聞き慣れないナオミさんの大阪弁を聞いてびっくりした。普段は標準語を使う。きっと本当に参っているのだろう。どうして良いのかわからなかったが、そっと優しく包み込むように腕を回した。
『もう、最低や。』
抱擁をした瞬間、もっと激しく泣いた。声を出して激しく泣いた。僕の腕の中で折りたたんでいた両手で激しく僕の胸を叩いた。
『本当に最低や、死にたい。』
激しく胸を打つ両手を押さえる意味もあったが、今度は強く抱きしめた。彼女の体が一瞬、ビクンと反応した。
小一時間ほど彼女を抱きしめていた。170を超える長身のナオミさんを抱きしめる。顔が異常に近い。彼女の涙や息遣いが直接僕の顔に当たる。ナオミさんは語り始めた。
『ウチな、あのハゲの店で7ヶ月も働いたやろ?そんでな、会社側から労働ビザの打診があったやん?ウチもその気になってん。2年のビザ貰うて、1年くらいハゲの店に残ってな、最終的にはローカルのお店に挑戦したかってん。』
ナオミさんは泣いているのでところどころ詰まったり、どもったりする。それでも力を振り絞って僕に伝える。
『知っています。何ヶ月も前から決まっていたことですもんね。ナオミさんが嬉しそうで、羨ましかったです。』
僕はなるべくゆっくりと喋った。ナオミさんが平静さを取り戻すのを待ちたかったからだ。
『全部ハゲの嘘やってん。ウチ、信じられへん。』
ナオミさんがまた強く泣き出した。肩を上下に揺らしながら嗚咽する。僕の腕にもまた力が入った。
ビザについてはトラブルが絶えない。この国に来てから散々悪い話を聞いてきた。会社側が労働ビザをサポートするから長く働けと要求する。労働者側は喜んで働く、そしてビザの期限が切れる、延長のタイミングで話を無かったことにするのだ。労働者側は文句を言おうにも、ビザが切れるので出国しなければならない。泣き寝入りになるのだ。
『ビザが欲しければ俺と寝ろって。ユウコもミサも喜んで俺と寝たぞって言うたんや。』
彼女の涙は止まらなかった。相当悔しかったのだろう。実は先月にも似たような話を聞いていた。別の日本人オーナーの経営する会社で、オーナーがワーホリを車に連れ込み、性暴力を振るって警察沙汰になっていた。それもビザのサポートをするしないの話だった。僕は怒りが込み上げてきた。絶対に許してはならないことだ。
『証拠や会話の録音、記録はありますか?』
僕は込み上げる怒りを頑張って抑え、なるべく平静を装って聞いた。
『ないねん。』
彼女は泣き止み。小さな声で言った。僕に持たれるように膝から崩れ落ち、床に座り込んだ。
『ない、なんにもない。口約束だけ。どうしよう、ウチのビザ、あと2週間しかないねん。』
いつも作品を読んでいただき、ありがとうございます
よろしければアドバイスください。
この初めての作品をより良く完成させたいです
遠藤信彦




