EP20 リカの場合②
リカさんは長い間泣いていた。彼女は僕の胸に強く、深く顔を埋めている。吐息で胸が熱くなり、涙でシャツはぐっしょりと濡れていた。10分も泣き続けただろうか、そのあいだ僕は彼女を抱きしめ返すこともできずに、両手をそっと肩の部分に乗せることしかできなかった。こんな時に彼女に何もしてあげられない自分の不甲斐なさがやるせなかった。なぜ強く抱きしめてあげられないのだろう?。リカさんは僕に心を開いてくれているのに、僕の心にはリカさんとの間に壁があるのだ。こんなにもリカさんのことが好きなのに、リカさんに心が開けていないのだ。僕は見えない壁を押してみる。それはまるで僕を馬鹿にしているかのように、僕の腕を跳ね返す。リカさんを助けたい。僕の力で。リカさんは笑顔が似合う人だ。泣いているのは似合わない。
『母は半狂乱になって父を刺したの。』
長い沈黙の後、リカさんはつづけた。僕は言葉が出なかった。
『父は一命を取り留めた。』
リカさんはいったん顔を僕の胸から離し、どこを見ているでもない、視線を漂わせている。魂が抜けたかのように再び沈黙が起きる。僕にはなす術がない。ただただリカさんを見ている。思い出したように彼女は続けた。
『母は逮捕され、服役した。今は出所して関東のある田舎の方でひっそりと園芸をしながら暮らしている。父のことは分からない。どこにいるのかも分からない。私にとってはとても良い父親だった。あの日までは。』
リカさんの視線はまだ漂ったままだ。勇気を出して彼女を抱き寄せる。彼女からの抵抗はない。
僕の意思で僕が彼女を抱きしめている。どんな理由であれ。
『事件は祖父の力で公にならなかった。私は東京の高校から神奈川の高校に転校した。東京を離れたかった。自分を知っている人がいない土地に行きたかった。結局は大学が東京だったので、一年も立たないうちに東京に戻るんだけれどね。もちろん、家族との思い出がある場所には近付かなかった。』
僕は頷いた。彼女の髪が僕の鼻をくすぐる。彼女を抱きしめている腕に力が入る。こんなにも愛おしいなんて。リカさんは続けた。
『わたしの弟はね、とても優秀だったの。』
リカさんは顔を胸から離し、僕に視線を合わせ、本当なのよ?と言わんばかりに眉をひそめる。
『リカさんの弟さんだから、想像できます。』
僕は目線を外さなかった。もう息苦しく感じることもない。リカさんとの間にあった壁が、うっすらではあったが、確実に、強固に存在した筈のあの壁が無くなった気がする。
『あの子はね、顔もわたしなんかよりもっと美人でハンサムで、バレンタインには数え切れない程のチョコレートを持って帰ってきたわ。いつもお返しに困っていた。両親の方針で特別に多くのお小遣いを貰っている訳じゃなかったからね。』
リカさんは急に笑顔をくれた。懐かしい思い出が蘇ったのであろう。僕も笑顔になった。
『だからね、いつもお年玉を自分のために使えなかったの。彼のお年玉はホワイトデーのお返しで消えていたのよ!面白いでしょう?』
僕はにっこりと微笑んでとても面白いと答え、頷いた。彼女もにっこりと僕に微笑み返し頷いた。
彼女は両手で僕の顔を包み込みんだ。指で確かめるようになぞる。眉、目の位置、鼻の高さ、唇の厚さ。顎のかたち。
『もういないのよ。』
リカさんは目に涙を浮かべ、でもにっこりと微笑む。
『もういないのよ。』
彼女は繰り返した。なんども繰り返した。
『もういないのよ。』
僕にはなにも返せない。何も言ってあげれない。僕にできることは一緒にいてあげることだけだった。左手を彼女の背中に回し、右手は頭に添えてもう一度抱きしめる。彼女はまた泣き出した。今度はさらに強く泣きじゃくった。僕は一晩中彼女を抱きしめていた。
目が覚めると朝の5時だった。僕とリカさんはいつの間にか寝ていたみたいだ。今日は月曜日で仕事は朝番だ。すぐに出ないといけない。ヘルメットを取り、ジャケットをハンガーから外すところでリカさんにうしろから抱きしめられた。
『ありがとう、ケンヂ。一緒にいてくれてありがとう。』
リカさんは恥ずかしそうに下を向きながら言った。
『また遊びに来てもいいですか?手羽と大根の煮物とても美味しかったです。』
『もちろん。和食が好きなら今度は鯖の味噌煮を作ってあげる。わたしのはね、ゆずの皮が入っていて、そのへんの料理屋には負けないんだからね。豆腐の味噌汁付きよ。』
リカさんは得意げに自慢する。た・だ・しと付け加える。
『私が寝ていると思ってキスをしたり、おっぱいを触ったりするの、もうしないでね?』
僕は顔が真っ赤になった。記憶がない。絶対にしていないと思うが、自信がない。
『たぶん、やっていないと思います。』
僕は精一杯返した。
『あんなに情熱的なキス、初めてだった。人は見かけによらないのね。』
『や、やってないって!おぼえてないもん!』
『あ〜あ、ひとときの気の迷いで1人のいたいけな少女の体を求めるとは、サイテーやな。』
『帰ります。また来ますね。じゃ!』
急いで玄関に向かうとリカさんが言った。
『誰にでも過去はあるの。あなたにだけじゃないの。私たちは前を向いて生きていくのよ。』
彼女は続ける
『楽しむために生まれてきたの。そうでしょ?』
僕はそうですと頷いた。バイクでの帰路の途中、何度も反芻した。前を向いて生きていく、楽しむために生まれてきたのだと。
作品を読んでいただきありがとうございます
とても励みになっています。
このはじめての作品を完成させたいので
アドバイス頂けたら嬉しいです
落合信彦




