小5 秋②
「『なにをするの?』って。百草くん、」
聖ヶ丘さんがくすくす笑い始める。
なんで笑われるのか、さっぱりわからない。
「な、なに?」
ぼくが言うと、彼女はついに吹き出してしまった。
「本当に、なんにも知らないんだね」
あははってやけに楽しそうに笑われて、すごく恥ずかしくなった。
ぼくはなにか、大事なことを知らないみたいだ。
それは女の子だけの秘密のようで、ちひろと女になろうとしているぼくが知らないのは、すごくまずいことのように思えたのだ。
「笑うなし!」
思わず立ち上がって、トイレの扉に背中をくっつけて、聖ヶ丘さんを見下ろした。
彼女が涙の目元をふきながら、ぼくを見上げてた。
「恋愛ごっこしようよ」
「……なにそれ?」
「わたし、みんながどうやって恋愛してるのか知りたい。百草くんは知りたくない?」
「うん、知りたい。だって」
「だって?」
はっとして、慌てて口を抑えた。
女の子がどうやって恋愛するか、ちひろは知りたがるだろう。でもそれはぼくたちだけの大事な秘密だったのだ。
黙っていると、聖ヶ丘さんの大きな目がぼくを飲み込むように見つめていた。
「……ぼくが、女の子になりたいから、ちゃんと知っておきたい」
「ふーん。そうなんだ? ちょっと意外」
相変わらずじいっと頭の奥まで覗くような目つきだ。
なぜだか、心臓がどきどきした。嘘をついたせいなのかな。
じゃあ、と言って聖ヶ丘さんは立ち上がって、
「百草くん」
お腹とお腹がくっついて、脚と脚が絡んだ。
驚いてのけぞった勢いで、トイレの扉がガタガタと大きな音をたてる。
「なにしてるの?」
「恋愛ごっこ」
平然と言い放つ彼女が、ぐいぐいとぼくの体に体を押し付けてくる。
顔が近くなる。吐息がかかる。
唇と唇が触れ合った。ちひろの時とは違って、それは一瞬だった。
「れ、恋愛って。こういうのじゃないと思う」
だって、漫画とかアニメとかで見るそれは、もっと楽しそうだった。
目の前の聖ヶ丘さんはちょっとだけ困ったような顔をしているのだ。
「恋愛だよ。どんな本を読んだって、ドラマを見たって最後は結局こうなってた。最初からこうしたって同じだと思う」
「でも……」
それならなんで、ちひろはぼくにキスをしたんだろう。
わからないことがどんどん増えていく。
「もっと先もあるよ」
聖ヶ丘さんが体を離した。背中がじっとりと熱くなっていた。
すごく、緊張してたみたいだった。
「まだあるの!?」
「うん。でも今日はやめとく。百草くんすごい顔してるし」
「え?」
思わず、頬に触れた。すごい顔って、どんな顔だろう。
「わたしも余裕ない。じゃあね、百草くん。また遊んでね」
そう言って微笑む聖ヶ丘さんやっぱり普段と変わらないように見えた。
ぼくを置いてさっさとトイレを出ていく後ろ姿はすごく堂々としていて、授業中だっていうのに迷いがない。ぼくは結局、チャイムがなるまでトイレの中にいた。女子トイレには入っちゃだめだから、誰かに見られていないかすごく不安だった。
……。
チャイムがなると同時、こっそり教室へ向かって廊下を歩き始める。
別教室で授業を受けていたちひろとクラスメイトの男子が、階段を登ってくる声が聞こえて、すごくほっとした。
ちょっと待っていようかな。
「ちひろも大変だよな。その格好」
「んー? 別に。みつきのこと心配だしな」
「いつまで続けんの? もう、百草はちゃんと学校にきてんじゃん」
皆は、ちひろが女の子になりたいことを知らない。
ぼくとちひろの秘密であることが、今は嬉しかった。
でも、このままでいいのかなとも、思う。
「さあなあ。――あ」
踊り場に来たちひろが、階段を見下ろしていたぼくに気づいて、ひょいと手を上げた。
「みつきー。何だ、待ってたんだ。まさかオレがいなくて寂しかったとか?」
冗談っぽく言って、ちひろが「わはは」って男っぽく口を大きく開けて大声で笑う。
「うん。寂しかった」
「おっ、おう…そっか」
「どうかした?」
「い、いや。一緒に帰ろうぜ」
ちひろが一瞬目を伏せて、隣の中河原くんの頭ををなぜだか軽く叩いた。
「いてえ!? なんだよちひろ!?」
「…あ、わりい、つい」
「変なやつ。って、見た目女しかいねーなここ。なんかいづれえ」
中河原くんが「おえー」とか言って、でもそれは冗談だってわかってるから、ぼくも笑い返した。
ちょっとだけ胸が痛かった。