別にいい
「ねえ、ゆうりさん。手伝ってほしい事があるんだ」
ぼくは脱衣場の洗面鏡を覗き込みながら声をかける。
鏡に写ったぼくの背後で、ゆうりさんはちょうど変な柄のTシャツに袖を通すところだった。
「なにを?」
「ちひろに女の子になってもらいたいんだ」
ぼくは振り返って微笑んだ。
「……そう。本当に?」
目を細めたゆうりさんの表情は、たぶん憐れみだったのだと思う。
その手を取れば、まだ間に合うのかもしれない。だけど、もう戻る気はなかった。
……。
昨日のことがあったけれど、ちひろは表面上変わらなかった。
お風呂から上がった後、普通に挨拶をしてくれて、談笑しながら朝食を終えた。
昨日のことなんてなかったみたいに、今は3人でゲームをはじめる。
ゆうりさんは、密着してこなくなった。
けれどそれでいいのだ。ぼくは彼女の気持ちに答えることはできないから。
「ちひろ、ぼくと対戦する?」
「おお、やるか! つってもお前つえーからなあ」
にっこりとコントローラーを握るちひろの横顔を見る。
その横顔は中性的で、整っている。
「あ、勝った」
「あ、勝った、じゃねえよ! あーもう1回だもう1回!」
一試合終わって、ぼくが勝った。ちひろが悔しそうに脚をちょっとだけばたつかせる。
普段は大人びてるのに、こういうところは子供っぽい。あんまり学校じゃ見せない姿だ。
ぼくが知っている、ぼくだけのちひろ。
「みつき? どうかした? 熱でもあるの?」
キャラ選択画面で止まったまま、ちひろを見つめていたぼくに、彼が気づいて、ぼくのおでこに手を当ててくる。
どきどきは、しない。ちひろはぼくに好きになって欲しいって言った。
たぶん、そのとおりなのだろう。
「大丈夫。ねえ、ちひろ。学校がはじまっても、ぼくと一緒に遊んでくれる?」
「そりゃ、まあ」
「これから先、ずっと一緒に居てくれる?」
「なんだよ、どうした急に」ちひろが冗談めかして言う。
「ちひろは、友達いっぱいいるから、そのうちきっとぼくのことなんて忘れちゃうよ」
「ええ? まじでどうしたん、みつき」
怪訝な表情になった彼の手を、掴んだ。熱い手だった。
「ちひろ、女の子の格好しよう」
「…なんで?」
「してほしいから」
「やだよ、オレ。もうしたくない。したくないわけじゃないけど、お前の前でするのは、もういやだ」
「いいから」
「やだって! なんか今日お前変だよ」
手を振りほどこうとするちひろの唇に無理やり唇を寄せた。ごつりと音がして、それから血の味がした。ちひろがうめいて、ぼくの両肩を軽く押す。
彼が本気で振りほどこうと思えばすぐにでも出来るはずだ。
全然力が入っていないから、それでもぼくは唇をくっつけ続けた。
「み、みつき! なにすんだよ! こういうの、オレ、もういやなんだよ」
息が苦しくなって、ようやく唇を離す。
荒い息を吐きながら、ちひろが赤い顔でぼくを睨んで叫んだ。
「こういう時でも優しいんだ」ぼくは血の滲んだ唇を手の甲で拭いた。
「みつき。もうこういうのやめよう。オレ達、付き合ってないんだし。それに……お前はオレのこと」
言い淀んで目を泳がせる彼が、とても弱々しくて、可愛らしく思えて、ぼくはまた微笑んだ。
「好きじゃないし?」
「……そうだよ。こういのって好きなひと同士でやるもんだと思う」
「関係ないよ。好きとか好きじゃないとか。ぼくは、ちひろにずっと一緒に居てほしいだけなんだから」
「は、はあ?」
「ちひろが女子になれば、ぼくも好きになれると思う。ずっと一緒に居られるよ。ちひろが、別の友だちを作っても、恋人同士ならずっと離れなくていいから」
「まじで、どうしたんだよみつき」
「片倉くん。わたしも手伝ってあげる。わたしの部屋に行こう」
ゆうりさんがぼく達を立ち上がって見下ろす。
「聖ヶ丘まで! なんなんだよ!」
「騒がないでよ」
「聖ヶ丘、みつきになんか言った?」
「いいえ? みつき君が自分で考えて、自分で話してる。そういうのも、わからないんだ」
「……何が言いたいんだよ。あんまりみつきに変なこと言うなよ。こいつ、真に受けやすいんだから」
ちひろが、ゆうりさんを睨み上げる。
こんなときでもぼくを守ろうとしてくれるのだ。ぼくには、やっぱりちひろが必要なんだ。
「本当に違うよ、ちひろ。ぼくはちひろが欲しい。それだけなんだ。だから……ね。お願い」
ちびろの両手を包み込む。
くすり、と笑みが溢れる。自然にこぼれたのだ。
「みつき」
ちひろが傷ついたような顔をする。
なんでだろう。ぼくには、わからない。嘘の女の子だからなのだろう。
「ちひろ。女の子になってね。ずっと一緒に居ようね」
どうだっていいんだ。
この手を離したくない。それだけは本当の気持ちだから。
それが好きじゃなくても、別にいいんだ。




