ごみ
薄暗い部屋のカーテンの隙間から、ぎらつくような日光が差し込んでいる。
今日も外はとても暑いのだろう。ゆうりさんの家で迎えた初めての朝だった。
少し眩しくて、枕に顔を押し付けた。嗅ぎなれない柔軟剤の匂いとエアコンの音が部屋に満ちていく。
いつのまにかちひろの姿はなかった。
もう少し寝ていようかな。
どのみち、ちひろか、ゆうりさんが来ないと部屋の外に出ることもできないんだし。
ここはゆうりさんの家の一室で、ぼくははじめて意志を持った。
息苦しいまでの強烈な欲望がぼくの心で、それだけは本物なのだ。
胸の奥に芽生えた苦しさに、とても愛おしく思えた。
「みつきくんなんて大嫌い」
朝、ゆうりさんはぼくを起こしに来るなり吐き捨てるように言った。
眉をひそめ、鼻先をひくつかせる。まるで汚いものをみるようにぼくを見下ろしている。
「うん」
ぼくは笑った。きっと嫌なニオイがするんだろう。
立ち上がったぼくの手をゆうりさんの手が強く握る。彼女の透き通った匂いがした。
「お風呂場に行こう」
ぐいぐいと引っ張られ、大股でお風呂場前の洗面台まで連れて行かれて、歯ブラシを突っ込まれる。
ごしごしと乱暴に、昨日の粒子ごと削ぎ落とさんばかりに口内を歯磨き粉と歯ブラシが制圧していく。口をゆすぎ終わったあと、彼女は自らの服をさっさと脱ぎ去りながら言う。
「体も洗うから」
ぼくも服を脱がされ、犬みたいにシャワーをかけられる。
ボディソープのついたタオルが体中を這い回り、彼女は必死の形相をしている。
そんな事をしても、この汚れは落ちやしないのに。
「死ねばいい」
唇を塞がれる。彼女の舌が、手が、本物じゃないからこそ女を主張したがるぼくの体にふれる。
彼女のたてる水音はすぐにぼくを満たして、ぼくからあふれる。
心臓がうるさい。水音がうるさい。ゆうりさんのきれいな手がぼくの手にふれるたび、好きはそこにあることをうるさいぐらいに主張している。昨日の夜と、ぼくの体はの反応は残酷なぐらい違う。
「ゆうりさん、怒ってる?」
わかりきったことをあえて口に出した。この音をすぐにでもかき消してしまいたかった。
「ただの嫉妬。みつきくんはわたしのことが好きだと思う」
体をくっつけたままの彼女は顔を紅潮させ、ぼくを睨み上げながら言う。
「すごい自信。ぼくはちひろのことが好きだよ」
言葉の軽薄な響きにぼくはまた笑った。
ぼくはいつもこうやって薄っぺらな偽物の言葉を吐いてきたのだろう。
「知らない。だから知りたい。もっと君の声を聞かせて」
彼女の手が再びぼくの体を這い回る。水をかき出すみたいに、ぼくの中に入ってくる。
とても心地よくて、幸福で、辛かった。
「だったら、そんな顔して言わないでよ」
ゆうりさんはちっとも笑わない。少しも気持ちよさそうじゃない。
ぼくと触れ合おうが、彼女はどこかつらそうな顔をしていた。
「前にも言ったけど、セックスしたいって気持ちがわたしは分からないから。みつきくんの真似をしてるだけ。君とセックスをしたらわかるかもって思った」
「それで、わかった?」
「全然。みつきくんとわたしは同じ体をしてるのに、ぜんぜん違うの。わたしはみつきくんの事、すごく好き。1秒だって離れたくない。でも、やっぱり無理みたい。嫌悪感がある」
淡々としゃべる彼女の言葉はいつもナイフみたいによく刺さる。
ぼくの真似。目の間に居るゆうりさんとぼくは、同じような表情をしていたのだろう。
「そっか」
笑えてしまった。ぼくたち3人はちっとも噛み合わない。
ぼくが男子のままだったら、とか。ちゃんと女子になりきれていれば、とか。
色んなことをが一瞬去来するけど、もういいのだ。
そんなことはもうどうでもいい。
「悲しいね。どうして普通になれないんだろう」
彼女がふっと息を吐いて頬を緩め、湯船をまたいでお湯に浸かる。
さっきまでの彼女が触れた熱は体の中を渦巻いていて、取り残されてしまったぼくはひどく間抜けだ。
一人だけ盛り上がって相手は冷めてる。こんなに恥ずかしいことって、ない。
「みつきくんも入ったら? 湯冷めしちゃうよ」
促されるまま、頷いてぼくも湯船に浸かる。
膝を抱えてぼくを見つめる彼女と目が合った。
「ゆうりさん。ぼくと一緒に居ること、まだ続けるつもり?」
「うん。やめない」
「嫌悪感、あるなら、やめたらいいのに」
半ば自分に向けた言葉だった。
ゆうりさんはまっすぐに鋭い瞳を向けてきて、冷たい声で言う。
「人と違うのって、それって絶望じゃない。わたしは人と同じになりたい。はじめて誰かのことを好きって思えたの。だから……。これはきっとチャンス」
ゆうりさんが泣くわけがない。彼女はとても強いからだ。
実際そのとおりで、相変わらずぼくを睨み続けているきれいな目は揺らがない。
ただ消え入りそうな声がわずかに震えただけだ。
「ぼく、ゆうりさんは、いつも自分を貫いて、すごいなって思ってた。なんでも言いたいこと言えて、ぼくと、真逆なのに、いつも強くて憧れてた。羨ましいって思ってたよ」
「自分勝手なだけ。自分を貫いてたんじゃない。周囲に馴染めなかっただけ。言いたいことを言ってたんじゃない。場の空気が読めないだけ。だから不要な人間なの」
「そんなこと――」
「あるの。周囲に染まれない人間はゴミでしょ。多様性? 個性? そんなものが大事だなんて、よく大人は偉そうに教育できるよね。ちゃんと他の人と一緒に笑えるほうがよっぽど偉い。社会の役に立つって教えてほしかったけど、皆は分かってたみたい。分からないのは、わたしみたいなおバカさんだけ。きっとこの先だって独りなんだ」
「るきさんや、ぼくだって友達になれたよ。これからだって、ゆうりさんは独りじゃない」
ああ、また薄っぺらい。
ぼくの言葉はこれじゃない。
分かっているんだ。もっとお腹の奥にあるねばねばしたもの。それを吐き出せるタイミングを、待っている。
「琉希はいつか結婚するでしょ。子供も作って」
ふっと息を吐いたあと、彼女は微笑んでぼくの頬に触れた。
「みつきくん。わたしのものになって。わたしの側にずっと居て」
「…体は受け入れられないのに?」
「体の反応なんて、どうでもいい。所詮ただの反射なんだから。心だって、脳の機能だとしても、それはわたしにとって本物で、それだけがわたし。わたしはあなたのことが、好き」
体なんてどうでもいいと言い切ってしまえる彼女のことが、ぼくはとても好きだ。
体だって、彼女のことが好きだ。
それでもぼくはただ、このままずっと触れられていたい。
彼女に触れたい。ずっとずっと一緒に居たいと感じるこの心は、偽物の女のぼくにとって唯一の本物だ。
けれど、
「ゆうりさんのこと、羨ましいって思ってる。妬ましいって思ってたこともある。だって、ゆうりさんは本物の女だから。ゆうりさんのこと、ぼくも好きなんだって、思うよ」
「みつきくんだって女だよ」
「ううん。違う。ぼくは、男。体は女でも、心は男なんだ。ゆうりさんと一緒に居て、はっきり分かっちゃった。ぼくは、偽物の女でしか無いんだ」
「客観的に見たら、あなたは女以外の何物でもないと思うけれど」
「うん。ぼく、ゆうりさんと同じこと考えてた。結局、ぼくの心だけの話なんだ」
天井から水滴が落ちた。この言葉を、ぼく自身を言葉にするのは、とても怖かった。
とても汚いものだ。誰かを傷つけるものだ。言葉なんて、いつも誰かを傷つけるものなのだろう。
それでも、ぼくは言いたい。言葉にしたかった。
「ぼくは、ちひろが欲しい。体が受け入れられなくても、ぼくは、ぼくの心は、彼が欲しい。偽物同士で、傷を舐め合いたい」
「……そう」
ゆうりさんは泣かない。彼女は強いからだ。天井からまた水滴が落ちた。
彼女は呟いた。
「報われないわ」
誰に対して言ったものかはわからない。けれどきっと、みんなに対してだ。
「うまくいかないね」
ああ、ぼくが体まで男だったら良かったのに。
なにもかも上手く行かない。




