熱中症
今年の夏は例年よりも涼しくなるだろう。数週間前のお昼のニュース番組で、高そうなスーツを着た有識者サマはかく仰せられた。
いざ夏が到来すると、連日のように真夏日の記録が更新されていった。禿頭の彼の姿はあれからテレビで見ない。嗚呼、科学の力って素晴らしい。
ペダルを漕ぐ脚に力が入る。うだるような熱気で何もかも蕩けていく中、その二本だけがハムスターのように忙しなく回転を続けていた。しかしそれも限界だ。運動不足のこの身体の不自由さが恨めしい。
街灯のみが存在をアピールする薄暗い一本道。その脇にベンチを見つけた僕は、自転車を止め直ぐに腰を下ろした。かなりの湿り気が臀部に伝わってくるが、おそらくは高校のジャージにこもった汗だろう。運転時は集中しきっていた五感が拡散していくにつれ、周囲から様々な情報が飛びこんできた。
この熱帯夜で貴重なそよ風が、どこからか生臭い土の匂いを運んでくる。遠くに見える橋の上には車の灯りが幾つも確認でき、耳障りなクラクションの音もする。自然と人工の境界線上に存在している感覚に包まれ、僕は微かに高揚した。
同時に、この感動は、これまで手放してきた興奮のほんの一部かもしれないことに思い至ってしまった。「普通の人間」ならば幾度となく繰り返してきた行為を、今更僅かに体験しているだけ。 やけに冷めきった理性がそう告げてくる。
では、その普通の人間とやらを屏風から出してみろ。熱に浮かされた頭の片隅で僕は反駁した。僕は極めて普通で、平凡で、正常だ。だからこそ、こうやって苦しんできたんだ。本能が反抗心に突き動かされた。
「お困りかな?」
どれ程の間自問自答を繰り返していたのだろう。不意に声を掛けられ、疲労しきった全身がぶるっと震える。
顔を上げると、目の前には女がいた。薄暗い光に照らされた顔はやけに青白く、夏には不似合いだ。白いシャツから伸びる細い腕にはいくつか切り傷の痕がある。
彼女は有無を言わさず僕の隣に座り、ふぅと息を吐いた。疲れたねと言われ、生返事で応える。
「キミさ、なんでこんな真夜中にここにいんの」
「……僕の勝手だろ」
ひどく癪に障る声色だった。突き放すように返したが、彼女は質問を止めない。
「ほんと、ひねくれてるよね」
嗚呼、そうか。その言葉を聞いて確信した。
僕はこの女を知っている。色々と不都合で、おかしい話ではあるが、ともかく僕達は互いを知っているのだ。何故だかすっと理解できてしまった。
「はやく言えよ」
言いたいことがあるんだろ。自分でも驚くほど低い声が出た。カラカラに渇いた喉が熱を帯びている。
別に、とおどけた調子の彼女は、長い前髪をかき分けながら続ける。
「なんか辛そうだな、と思っただけ。色々無理してるといいますか」
余計なお世話だと吐き捨てるように呟くが、彼女は知らん振りだ。思った通りだ。彼女は身勝手で気まぐれで、救いようのない存在。
「何から逃げてんのさ」
学校?友達?まさかの恋人とか?口元をニヤつかせながら女は無神経に踏み込んでくる。
的外れもいいとこだ。何もかも分かった気になって、そのクセ何も分かっちゃいない。思い上がりも甚だしい。
「死だよ」
案の定把握できず、シ?と首を傾げている。心の中で快哉を叫びながら、僕は早口でまくし立てる。
「死だよ死!いつかやってくる終わりのことさ!僕はそれが怖くて怖くてたまらない!」
途端に、不安が怒涛のように押し寄せてくる。どうして僕はこうも得意気に、自らの弱点を晒したのだろうか。それも不倶戴天の敵に対して。
へぇ、とそいつは呟き、舌なめずりした。蛇のような目つきでこちらを見据えながら口を開く。
「それで?逃げ切れそうかい?」
「このままじゃダメだ」
間髪入れず、口が勝手に動いた。そして棒切れのようになった足がひとりでに動き、僕は自転車に跨った。高校入学の時親に買ってもらったその車体には、所々凹みが見られる。
もう少しだけ保ってくれよ。それは励ましというより懇願に近いものだった。
乗れよ、と声をかけると、彼女は少し意外そうに目をぱちくりさせる。いいのかいと言いながらサドルの後ろに腰かけると、暗色のロングスカートの裾をぎゅっと握った。自転車がゆっくりと動き出す。
「どこに向かうんだい?」
決めてない、と返す。アスファルトの隙間に嵌りかけ、少しだけ揺れた。
気付けば、家からかなり遠くまで来てしまった。いつもなら帰り道が心配になる頃ではある。だが、ここにきて尚身体は前へ、もっと先へ向かおうとしている。あるいは、それ自体が目的と言われればそうかもしれない。
僕達は下り坂に入った。効きの悪いブレーキが金切り声をあげ、タイヤは絶えず唸る。荒っぽいね、と後ろからの声がした。まったく気楽なものだ。転倒すれば彼女も傷を負うだろうに。
いっそわざと電柱に突っ込んでやろうか。邪悪な考えが首をもたげたが、背後から聴こえる呑気な鼻歌がそれを押しとどめた。そんな馬鹿な真似はしないとタカを括っているのか、或いは信頼されているのか。
坂を下ると、暗闇が濃くなってきた。振り向くと街の光は遠くに見える。
今ならまだ間に合う。あの灯りに向かって戻ればいい。多少迷うかもしれないが、ゴールは明確に存在する。
「諦めなよ」
「…嫌だ」
喉まで出かかった不安をぐっと飲み干し、ペダルを強く踏んだ。先ほどよりもスピードが落ちている。スタミナが切れたのか、それとも車体に不具合が生じたのだろうか。どちらも、というのはあまり考えたくない。
「戻ろう」
どこかで期待していたその声は、運動で火照った首筋をそっと撫でてくる。妙に甘い匂いがした。身体が重くなってくる。耳障りのいい言葉は脳にこびりついて離れない。
「もう無理だよ」
肩にその手がそっと置かれた。振りほどくのも億劫になっていた僕は、薄笑いを浮かべた彼女を睨みつけながら言い返す。
「お前と、一緒に、するな」
水分を失った喉から絞り出した声は、自分でも笑ってしまうほど消え入りそうだった。笑い声が、耳をくすぐってくる。
「すごい嫌われてるな、私」
肩が小刻みに揺れる。蝸牛の如きスピードで前進を続ける自転車は、そのわずかな振動にも過剰に反応し、均衡が崩れる。
芝地に尾てい骨を打ちつけた瞬間、鈍痛が弱った体を軋ませた。思わず舌をかみ切りそうになる。
視界の隅で前輪が虚しく回転を続けるのを目で追いながら、僕は雑草だらけの地面に大の字で横たわり、全てを委ねてしまうことにした。
温い夜風が頬に当たる。今日は曇天、月も北極星も見えない。灰かぶりの空が何もかも遮ってしまっている。
まるで人生、お先真っ暗だ。思わず口をついて出た言葉がツボに入り、一人苦笑していると、僕の顔を覗き込む二つの光と目が合った。まだいたのか、とため息を漏らすも、返事はない。そもそも期待してなんていなかった。
永遠に続くかと思われた沈黙。それを打ち破ったのは、勝手に発せられた僕の泣き言だった。
「何かを頑張りたかった」
ぼろぼろと何かが剥落していく。それを止める力はもう残ってない。
「ただ息してるだけは嫌なんだ」
本当の意味で、生を謳歌したかった。そう口にした直後から、視界が段々ぼやけてくる。
彼女はただ、僕の戯言をじっと聞いていた。案外悪い奴じゃないかもな、と思いかけたが、すぐに考えを改める。僕はこの女を憎まなくてはならない。自分自身の為にも、彼女の為にも。とどのつまり、和解の道なんて初めから存在しない。僕は必死に汗臭い袖で水まみれの顔を拭った。
彼女の方もその約束事を今更思い出したのだろうか。浮ついた、気味の悪い笑みをどこからかすぐに調達してきた。それで、と嘲笑と皮肉を込めた言葉を浴びせてくる。
そのちっぽけな頭で思いついたのが、深夜のサイクリングですか、と。
ああ、そうだよ。それしか、その程度の事しか思いつかなかったんだ。
雑草が肌をくすぐってくるのを感じた。きっといつもの僕なら、地べたに寝っ転がるなんて不潔だと軽蔑するだろう。深夜に家を抜け出すなんてもっての外だ。今日の僕は、どこかおかしい。これも暑さのせいかもしれない。
「でも、楽しかった」
そんな子供じみて単純な感想が、ぽろりと口からこぼれ出た。
「は」
それは溜息か、それとも笑ったのか。当の本人もよく分かっていないようだった。
「馬鹿みたいだろ?僕もそう思う」
呟きながら、傷んだ体に喝を入れ、無理やり上体を起こした。頭も背中も手足も、全身が例外なく痛い。多分これから数か月、僕は運動という行為を拒否するだろう。腹も減るし喉も渇く。好き好んでやる人間の気が知れない。
「でもさ、チャリ漕いでる時、生きてるって感じがした」
或いは、何でもよかったのかもしれない。何かに夢中になって、何かに熱中できれば、それで十分だったのだろう。今回はたまたま、それがサイクリングだったってとこか。頬が緩むのを感じた。やっと心から笑える、心から喜べる。
そっか、とか細い声がした。女は今も笑ってはいるが、先ほどまでのそれとは性質の違うものだと直感した。まるで子の成長を喜ぶ親のようで、引っ越しの際に別れを惜しむ友人のようでもあった。
「辛かったら、いつでも戻ってきていいから」
腕に残る痛々しい傷跡をさすりながら、彼女はそう言って微笑んだ。
「……じゃあな」
僕は彼女に背を向けて、別れの挨拶を済ませた。最後までよく分からない奴だ。見せる感情全てが偽物ではないかとも思う。
「また、会う日まで」
振り返ると、彼女の姿はなかった。残されたのは筋肉痛のこの肉体と、オンボロ自転車だけだ。
いや、違う。いつの間にか雲は霧散し、更に真っ赤な太陽がゆっくりと昇りつつあった。妙に強い光に照らされ、顔を顰める。眩しすぎるだろ、と小さく毒づくが、向こうはお構いなしだ。
「おはよう」
誰に向かってかは自分でも不明瞭なまま、とにかく挨拶をしながらジャージの上を脱ぐ。願わくば、湿った半袖シャツが少しでも乾きますようにと祈る。帰りもこの不快感と同居するのは耐え難い。
陽に向かって、思い切り右腕を伸ばしてみる。
そこに残る幾つもの傷跡が、今朝はやけに疼いた。