奇跡
奇跡
9月8日 発病から3週間
最初に、動きがあったのは、夕方お弁当を食べている時になりゆきの足の指が、「ピクッ」と動いた事である。まちがいなく動いた。
看護婦さんに確認したが彼女は見ていなかった。
わたしはあまりの驚きで弁当箱を落としたほどである。「やった将来のJリーガーの誕生だ。」と思った。
次の日の夕方に、なりゆきの手をさすっていると、「ピク」と、ゆびが動いた。昨日は足で、今日は手か、ということは、脊髄は守られたんだなあと勝手に素人判断した。
次の日は朝から手がよくピクピク動いていた。ただおととい動いたはずの足はまったく動かなかった。
「たしかにおとうさん、足が動くのを見たんですか?足は末端ですので一番覚醒が遅いはずなんですがねえ」と先生に言われたが「まちがいなく動いたんですが・・・」と足をさすりながらもそう言われれば自信がなかった。
このころ酸素と窒素の含有量の変更がじょじょに行なわれていた。普通の空気は1:4で酸素がすくないのだが、ずっとその逆の4:1の空気を送っていた事は前に述べたとおりである。その比率を酸素3、窒素2に変更した。つまりふつうの空気に一歩近ずけたのである。
9月10日
だいぶん、手が動くようになっていた、指だけではなく腕自体をお腹のうえにやったりこぶしを握り締めようとしたり、そのつど「お、また動いたぞ!」とおおきな声で妻と喜び合ったものである。「なーくん、がんばって」と妻が泣きながら手をさすっていた。
9月11日
顔の動きに変化が出てきだした。
ほっぺたと眉がピクピクと動いたのである。
「おー、顔が動いた!」とにかくどこかが動くたびにお祭騒ぎであった。
9月12日
空気の比率を酸素2、窒素3に変更した。また一歩普通の空気に近ずいた。
口の中の舌が、吸入パイプがよっぽど邪魔らしくてチロチロ動きだしたのである。
紫色の抗菌剤を塗られた舌がパイプの感触をたしかめるようにじょじょに活発に動きはじめたのである。
9月13日
空気の比率を酸素1・5、窒素3・5に変更した。かなり普通の空気に近い数値だ。
そしてこの日の夕方、待ちに待った瞬間がついに起こった。
「ブファッ」とクジラが海面に出たときのような大きな音がしてついになりゆきが自分で息をしたのであった。
「やったあ!息をした!なーくんようがんばった、ようがんばったなあ、看護婦サン、息をしましたよ!」
「本当ですね!よかったですねえ、先生をすぐ呼んできますので待っててくださいね」
「本当だ息をしはじめましたね、よかったですねえおとうさん」
「ハイ!一時はもう呼吸しないでこのまま目覚めることなく、一生をすごす覚悟ができていました、よかったです。ありがとうございました」
息をはじめたとたん、手と足の動きが急に活発になりだした。
自分の呼吸のタイミングとは無関係にパイプを伝わって空気が送り込まれてくるのがよほど苦しいのか手足を、バタバタしはじめたのである。
足もこの時はじめてまともに動きはじめた。
両目がゆっくり開いた。まだロンパリのままであったがとにかくうれしかった。
「おはよう、なーくん!わかるか、おとうさんやで」泣きながら話し掛けた。まだ目の焦点があわないらしくて、ボウッとしたうつろな目であった。まだわたしを認識はしていなかった。
ますます口の中のパイプを取ろうと舌を激しくうごかしはじめた。
「おとうさんたち、口のパイプをとる処置をしますので部屋を出てて下さい。」
2時間後
「どうぞ、処置が終わりました入ってください」
ドキドキしながら、病室に入ったのを覚えている。
一番めについた口のパイプが取り外されたなりゆきがそこに横たわっていた。
麻酔でねむっているらしく静かな寝息をたてていた。かわってポンプの「シューシュー」の音が消えていたのである。
この寝息はこの子の意志でたてているんだなあと思うと、なんだか全快したような気分になった。
「なーくん、パイプ苦しかったろ、もうないよ」
先生が言った「さあ、今度は麻酔からさめて第一声になにを言うかですねえ」と
夜、麻酔から醒めた。
あいかわらず目はロンパリでどこを見ているか定かではなかったが、「おとうさんやで、わかるか?」といったら、大きく首を振っていたが、首がまだあかちゃんのようにすわっていなかったため、「ガクン」とうなだれていたままだった。
しかしわたしをおとうさんと認識できたことには間違いなかった。
「ヒイマ、ナンヒー?」と急になりゆきがしゃべった。
「なに?なーくんなに?」と真剣に解読しようとした。
「オホーハン、ヒイマナンヒー?」
「『おとうさん、いまなんじ?』や、ついにしゃべったぞ」
「なーくん、7時半やわかるか!」
「ハンハーク、ハヘタヒ」
「なに?なんて?」
「ハンハーク」
「ハンバーグか、わかったいくらでも食べさしてあげるよ」
「いま、どこにいるのかわかるか?」
「ははふひ」
「高槻といってるよ」
とにかく看護婦さんの制止もきかずに、つぎつぎと質問した。涙がボロボロ出た。
「話しするのは明日にしてください、疲れてますから」と看護婦さんが言ったので、話しはやめにして、横で看護した。
「よかったなあ、話しができて。」
「本当、まだ発音は悪いけど思考は前のままだわ」と今までふさぎこんでいた妻もうれしそうであった。
いままで単なる「物体」であったのが、会話ができたことによって初めて「人間」と認識できるようになったのである。
その日の夜中、急になりゆきが大きな声でわめきはじめた。言葉の内容はまったくわからないが、なにか不満があるらしい。
看護婦さんを呼んで理由をきくと、かゆいところがあっても以前のように思うように手が動かないので、もどかしくて大きな声をだすのだそうだ。
その時のなりゆきの目を覗き込んでみたが、まったくどこをみているかわからない目つきであった。声を出しているときはわたしを、おとうさんと認識できなかった。
とにかくいろいろなストレスがたまるらしく、一番はがゆかったと思うのは自分の言った単語が発音が悪いためにわれわれに理解されないことである。
今までは一回言ったらみんな理解してくれていたのに「なに?」「なんて?」と何回も聞かれるので最後はいやけがさして大声をだすのである。
目が覚めてから、2日ほどして集中治療室から一般の病室に移動があった。
前の移動ほど距離がなかったことと、パイプ類が少なくなっていたことでだいぶ楽であった。
なりゆきをわたしがだっこして、6号室に移動した。
その時の体重の軽さといったらなかった。
元来、健康体で他の同年代よりは一回り大きかったのに、持ちあげた時ミイラのような感じであった。
それに加えて、両手両足、首がダランとなっていたので、それを見た妻は「なんてかわいそうな姿になったんだろう・・・」と嘆いていた。
わたしも、意識が戻って、口もきけるようにはなったものの、今後普通の子供のように走ったり、運動したり、物を持ったりできるようになるのかと不安であった。
そのことを看護婦さんに言うと「這えば立て、立てば歩けの親心ですよ、このあいだまでは意識が戻りさえすればいいと言ってたじゃあないですか、これからですよ!ガンバリましょうよ!」と励まされた。




