焦り
焦り
一番つらかった時の事である。
麻酔の量をどんどん減らしていき最後は一日に注射器の4分の一の量にまで減らしていった。この量では、だいぶ麻酔からさめて自分で呼吸できるに十分な量である。
だからもうしばらくすれば、自分で呼吸し始めるという期待感が大きくなっていったのである。
常に山口先生から言われていた事であるが「目覚めた時の、始めの第一声はなんでしょうね?」というのがあった。「だいたいその言葉の内容で症状と、知覚機能がどこまで守れたかが判断できるんですよ。
こればっかりは、開けてビックリなのでなんとも言えないんですよ。」と非常にスリリングな事を言っていた。
こっちはそんな心境ではなかった。もしも、麻酔の前の状況と変わらなかったらどうしようと、イライラして待っていたのである。
それがついに麻酔の量をゼロにしても、なかなか起きてこなかったのである。
先生や看護婦さんの表情で明らかに彼らもまた、起きてこないなりゆきに対して焦っているのがよくわかった。話し方がなんとなくぎこちないのである。
おそらくこのままずっと起きる事無く、植物人間になるかもしれないという共通の思いがあったに違いない。
先生も最初は「だいじょうぶ、起きてきます」といってたものの、麻酔をゼロにしてからの三日間は、回診に来てもほとんど無言状態であった。
ただなりゆきの手をとって、二、三回上下に振って、クビをかしげながら出ていくのであった。
こちらもあまり聞くのは、先生を苦しめる事になるので聞かないようにしていたが、一度だけ感情むきだしで聞いたことがある。
「先生、うちの子はいったいなんだったんですか?これじゃあまるで先生たち医者のモルモットじゃあないですか!こんなに小さいのにたくさんのパイプをつけられて、いろんあ薬を打ち込まれて・・・」と。
「おとうさんモルモットなんかじゃないですよ」
「でも実際この子の臨床データはいろんな大学病院で今後使われるわけでしょう?」
「そんな気持ちでこの子に携わってはいません!」
議論にならない議論であった。言いながらも自分はなんとひどい事を言っているのかと悲しくなっていた。
山口先生あの時は本当にすいませんでした。
看病が終わって、妻と交替したのち家に帰ると、まず玄関をあけたときに、なりゆきの靴が一組、並んでいた。
「もうこの靴を履くこともないんだなあと」思うと、主人のいない靴を前にして、大声で泣いたものであった。
いつも登り下りしていた階段、「みてて、とべるよ!」といって、ジャンプしていた車庫の屋根、かがみこんでは丸虫をとって、走って持ってきてくれた雨水のパイプ・・・どれひとつとっても、なりゆきの元気な姿とオーバーラップされてきてならなかった。
近所の子が縄跳びをしているのを羨ましげな目で見ていたのを覚えている。
ヒットソングの歌詞で「なんでもないようなことが、しあわせだったとおもうー」というのがあったが、まさにその心境であった。
このころ町内会で企画した「古曽部まつり」という祭りがあり、われわれは役員だったのでジュース係を担当させられていた。それが「子供がこういう状況であるから辞退させてください」と町内会長に言ったところ「担当はきっちりやってください、うちの子も小さいとき大きな病気になったことがありますよ」と話をそらされてしまった。「まつり」どころの心境じゃあないんです。とにかく行きませんので。」と半分口論になって、結局行かずじまいであった。
まつり会場は「湯浅グランド」といってたまたま病院の駐車場から見えるところであった。その花火と盆踊りの音が、夕方聞こえてきた。
「本当なら、なりゆきと一緒におまつりに行ってジュース係をやってるはずやのになあ」と思い「みんなしあわせそうだなあ」と羨んだものである。10時ごろまで続いたまつりの音を、まるでこの世のものでない宴のような気持ちで聞いていたのである。
妻もこのころが一番辛かったらしく、いつも気をまぎらわすためにわざと鼻歌を歌っていたのが、その鼻歌も消えうつむき加減に話をするようになっていた。
彼女も私同様、家に帰るのがそうとうつらかったらしい。
なりゆきが発病前に半分飲み残したカロリーメイトがそのまま冷蔵庫に置いてあった。冷蔵庫をあけるたびにこれが目に入り、涙がでるそうである。
ソファーの上にはなりゆきが、天神山図書館で読もうと思って借りてきた本が置いてあって、「なーくん、この本読みたかったんやろなあ・・・」と思うと辛くて辛くてならなかった。
それでいつも家に帰らずに、家族待合室という所で毛布を借りて、ベンチの上で寝て朝を迎えていた。おそらくわたし以上に家での思い出があるためであろう、決して帰る事はなかった。
夫婦の会話も最初のころは「大丈夫かなあ?」「絶対大丈夫よ」であったのが、「大丈夫かなあ?」「・・・・」と無言になり、そしてこのころはお互いに顔をあわせても無言であった。
なりゆきの枕元に、いつも大好きだったチョコレートとオレンジガムとグミの実が置かれてあり、まわりにはよくだっこして一緒に寝ていたゴマちゃんのぬいぐるみがさびしそうにならんでいた。
この子の頭の中では、今一体なにが起こっているのか、もう一生元に戻らないのじゃあないのか、という不安な気持ちでなりゆきの顔を覗き込んだものである




