プロローグ
早朝。
日も上りきらない折、住宅街に細い風切り音が一筋通る。
そしてもう一筋。
民家に隣接した道場から響くその音は、佐倉桜花が木刀を振り下ろす音であった。
桜花が木刀を握ったのは5歳の時であり、それ以来、朝の素振りを欠かしていない。
桜花自身、初めた切っ掛けは覚えていない。
ただ、幼い桜花と、もう一人同い年くらいの少女と共に母から学んでいた記憶が薄っすらとある。しかし、その少女がどんな声で、どんな顔だったのかすら覚えていない。それが十数年という月日の流れを桜花に感じさせる。
そんな、長い月日振り続けた白樫の木刀は血が滲み、肢の部分だけが、炭のように浅黒く色づいている。だが桜花の手は蛸一つない綺麗な手だ。それは血の滲むような努力をした者の手とは思えない程に美しい手であった。
200回ほど振り終えた頃だろう、心地よい倦怠感に包まれるなかで、桜花は時計を確認する。
6時34分。
「そろそろ用意するか…」
白樫の木刀を壁掛けに置き、道場を後にする。
桜花は自宅の浴室で、まだ熱のある身体を露わにする。
その身体は厚い筋肉で覆われている訳ではない。しかし、そのしなやかで鋭い身体付きは、日々の洗練された鍛錬により培ったものであり、一目でその者を強者であると言わしめるに足る肉体であった。
肌を伝う汗をシャワーで流し、目を閉じ、今朝の素振りを思い返す。
「どうすればもっと速く、もっと鋭くなるのか、瞬きや一閃といった高みへの到達に至るにはどうすれば…」
「桜花、早くしないと高校に遅刻するわよ!」
思考を遮るように浴室の扉越しに女性の声が響く。
その声の主は桜花の母である佐倉咲良であった。
彼女の腰まであろうかという、艶やかなその黒髪は漆を思わせる美しさがある。瞳も同様に黒く煌めく。
また、その顔立ちは100人が100人、美麗だと答えるであろう整ったものであり、高校生の息子がいるとは到底思えない、妖艶にして魔性、そんな言葉が当てはまる女性だ。そして、桜花は母の血を色濃く継いだのであろう、漆の様な黒髪に、大きく吸い込まれそうな漆黒の瞳。母譲りの整った顔立ちをしている。
「うん、もうすぐ上がるよ」
桜花は母の忠告に返事をし、その数分後、浴室をでる。すると居間には、バターを塗られたトーストと目玉焼き、レタスのサラダが並べられていた。
「早く食べて遅刻しないようにね。母さんはもう行くから」
「ああ。いってらっしゃい」
「うん。行ってきます…ごめんね。気をつけてね」
桜花は最後の言葉に若干の違和感を抱きながらも、母を軽く見送り、用立てられた食事をとる。
学生服に着替え、家を出る。そして道場の鍵を締めるため一度、道場へ赴こうと踵を返すと、ほんの一瞬、視界の隅に人影を捉えた。
「誰だ…」
桜花は面倒そうに呟くと、人影が向かった道場へと歩みを進めた。
道場の戸に手をかけ威嚇の意味を込めて態とらしく大きな音を立て戸を開けた。
「するとそこには、驚くでもなく不適で素敵な笑みを浮かべ白銀の髪を携えた美少女がいました。」
「なに不法進入しておいて、自分の事を美少女だとか言ってんだよ」
桜花は威嚇するはずが、逆に虚を突かれ一瞬、眉間に皺を寄せたが瞬時に平常心に戻り、眼前の少女に向かい言い放つ。
「いやぁ、君が咲良の息子かぁ。咲良に似て整った顔をしているね」
「母さんを知ってるのか!?というか、お前はどこの誰で、何をしにここへ来たんだ?」
「質問が多いなぁ。せっかちな所も咲良の子って事なのかな」
少女は桜花の質問には一切の回答をせず、思い出にでも浸るかのように、桜花の母と桜花を重ね笑みをこぼす。それは自ら美少女と名乗るに値する、否それ以上の美しい光景であった。だが、今の桜花にはそんな事は関係なかった。いったいこの少女が誰で何の目的でここに立っているのか、それだけしか頭になかった。
「もう、時間がないな…。申し訳ないけど説明はできない。ただ……私を助けて欲しい」
「意味が分からない。何の時間が無いんだ、そして何で俺がお前を助けないといけないんだ」
おもむろに少女が顔を上げ桜花の瞳を真っ直ぐ見る。
「それは、約束だからだよ。決して違えることのない約束。君は忘れたかもしれないけど……ごめんね、本当に時間が無いみたいだ」
少女はそう言うと、辺りを見渡し何かを見つける。その視線の先には桜花の母、咲良の愛刀があった。少女はその刀の側まで歩を進め、刀を手に取った。
「これは咲良の刀だね。よし、これにしよう」
「どういうことだ。それをどうする気だ」
「君には、何一つ私から力をあげられない。ただ、この刀に私の最後の力を移す。これを持って君は、私を……私の国を救って欲しい。ううん。助けて…桜花…」
「な、んで俺の名前も」
桜花は、急に涙を溢す少女に見惚れながら混乱する。
「開け異なりし世界の扉」
少女が涙を拭いながら、そう口にすると、見た事のない暗黒が目の前に広がった。桜花は反射的に後ろへ飛び退いた……と思っていたが暗黒に包まれたのは眼前だけではなく、床も背後も同様であった。それは桜花を包むようにして球状に発生したものであり回避できるものではなかった。桜花の意識が徐々に薄れる。そんな意識下の中、桜花は母の愛刀「吹雪」を掴んでいた。